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天皇の出ない玉砕ドラマなんてやめてくれ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 過日汗だくの夜、エアコンの下ぐったり横臥し放屁などしつつテレビジョンをスイッチオンしてみると、日本兵捕虜がただ死ぬためだけに収容所で暴動を起こすってドラマやってる。

 へー民放もやるじゃん。

 これ「カウラ事件」ちゅうんですな。知らんかった。

 1944年8月にオーストラリアのカウラにあった収容所で、約1000人の日本兵捕虜が「生キテ虜囚ノ辱ヲ受ケズ」って「戦陣訓」(はいはい原典は『軍人勅諭』す。ややこしい歴史学的ツッコミはヤメロって)に執着するあまり、野球や将棋のリクリエーション三昧の楽しい生活を捨て、機関銃に撃たれるためだけに鉄条網に突撃するというムチャクチャな、だが実話なんですな。

 このドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった〜カウラ捕虜収容所からの大脱走」って、名前長いやん、は「日本テレビ開局55周年記念番組」なんだって。

 3月に放送された「東京大空襲」に続いて「第二次世界大戦3部作ドラマ」の2作目になるとか。

 日テレよ、何でそないなハンパな年を記念する必要があるのか?

 まあええ。相変わらず「日本人は戦争被害者」ちゅう視点しかないし、生ぬるい。まあ、それも勘弁したる。キムタクが検事になったり総理大臣になったり、お台場の警察が踊ったりマラソン大会が爆発したりのふにゃふにゃドラマしか作れないテレビ局に比べりゃ「戦争」なんて重いテーマに敢えて挑戦したその志たるや、大いによし。

 でもリアリティはないな〜。

 主演の小泉純一郎の息子(名前忘れた)のサル芝居、何とかしてくれ。

 大泉洋の野良犬プードルみたいなロンゲ、あれなんやねん。んな日本兵おるか、どあほ。役者やったら髪くらい切って役作りせんかい。んでその風貌で「生きてたら何かいいことあるって〜」って萩本欽一みたいなセリフ(そういや顔も似てるな)やめてよ。

 山崎努と阿部サダヲの重量級名演技(特に阿部の狂信的日本兵はすごい。彼のはまり役になるでしょう)がなかったら、それこそドラマが玉と砕けてたのとちゃいますか。

 でもね、一番リアリティを削いだのは何だと思います? 兵士が誰も「天皇陛下」て言葉をいわないんですよ。大日本帝国陸軍の兵隊さんが、ですよ。ホント一言もない。一人だけ「大日本帝国万歳」て叫んで撃たれる日本兵がいる。けど「天皇陛下万歳」とは誰も言わない。

 阿部サダヲ率いる狂信的日本兵グループでさえ、一人も言わない。当時朝の必修行事だったはずの「宮城遥拝」(皇居の方向を臨んで頭を垂れ敬礼する)もしない。うっひょ〜そんな「皇軍」あるわけないじゃん。

 あのね、当時ね、天皇陛下は神様だったんだよ。天皇の祖先霊が兵士の行動を天上から見てますよ、「皇軍」である大日本帝国軍はその神様である天皇の軍隊で、死んでも御霊は軍神として靖国神社に安らかに奉られますよ、ってマジメに政府もマスコミも言ってたの。

 だから皇軍兵士は死ぬのを恐れないってことになってた。「天皇陛下」って具体的な「神様」がいたからこそ、職業軍人じゃない庶民兵士までみんな「死のう」って思ったんでしょーに。

 んで「週刊金曜日」のような国賊アカ雑誌、おっとまちがえた硬派ジャーナリズム雑誌としては、すわマスコミすわ菊タブー、とステレオタイプに張り切り、ピカピカの日本テレビに電話して「何で誰も天皇陛下て言わんのですか」と気合いで聞いたら、明るい声のおねーさんが(きっと美人なんだろうなあ)「原作の手記に記述がありませんので」とハキハキおっしゃり秒殺。

 あうううう腰が砕けた。椎間板ヘルニア。痛い。


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世界中でオールドメジャーメディアが臨死状態 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 2007年から今年にかけて、長年「クオリティ・ペーパー(高級紙)」の名を誇ってきた欧米の名門新聞が次々と身売りや経営危機に陥っている。

 中でも世界を驚かせたのは、07年7月、メディア王ルーパート・マードック氏率いる「ニューズ・コーポレーション」社が「ダウ・ジョーンズ」社を総額56億ドルで買収した事件だ。

 その結果DJ社が発行しているアメリカの名門経済新聞「ウォールストリート・ジャーナル」がマードック氏の手中に落ちたのだ。

 同紙といえば世界の経済エリートから最も信頼されている新聞であり、世界経済への影響は極めて強い。

 そのWSJ紙が、これまで英国の「サン」「タイムズ」、アメリカの「ニューヨーク・ポスト」などの「タブロイド紙」(日本でいえばスポーツ新聞)ばかりを買収し「タブロイド紙の帝王」のように揶揄されてきたマードック氏の手に落ちたことの衝撃は大きかった。

 マードック氏はさっそく08年4月からWSJの紙面を刷新、経済専門だった同紙を、国際、文化、スポーツニュースで多角化した。

 これは米国の知識層に絶大な信頼がある高級新聞「ニューヨーク・タイムズ」への挑戦だと言われている。

 現在のNYT紙は、広告収入をインターネットに奪われ、赤字続きで経営はヨロヨロ、金融情報会社ブルームバーグ社による買収説が囁かれる有り様だからだ(『ニューズウィーク』08年4月30日/5月7日号)。

 フランスではすでに高級紙の多くが他業種に買収されている。

 保守系高級紙「フィガロ」は、04年にミラージュ戦闘機を製造する兵器メーカー「ダッソー」がオーナーになった。

 WSJのフランス版ともいえる高級経済紙「レゼコー」は07年に高級ブランド大手企業「モエヘネシー・ルイビトン」に買収されている。これらの大企業はどれもサルコジ政権に近い。これでは自由な政府批判など無理だ。

 フランス語圏では知識層の厚い信頼を誇る「ルモンド」紙ですら、販売部数減と広告減で減収のダブルパンチを食らい、経営は危険な状態にある。

 すでに雑誌・書籍部門は身売りされた。さらに記者の4分の1以上にあたる89人をリストラする経営改革案を提示したところ、編集現場が猛反発。今年4月には、1944年の創刊以来初めて、1週間に2回もストで休刊するという前代未聞の事態に陥った。

 こうした苦境に名門紙が陥った理由は、欧米ともよく似ている。

 インターネット媒体と、広告収入だけで発行される無料紙が急激に勢いを増し、新聞経営の生命線である販売収入と広告収入を失ったのだ。

 これまで、フランスなら記者が株式を持ち合ったり、アメリカなら富裕な資産家(例えばDJ社はバンクロフト家、NYT紙はサルツバーガー家)が株式を非公開のまま所有、外部からの買収を防いできた。

 こうした「新聞社株の非公開」は「紙面の言論の自由」と「経営と編集の分離」を守る防波堤の役割も果たしてきた。それが今、音を立てて崩れ始めているのだ。

 こうした「経営の論理」が新聞編集の現場に持ち込まれると、どんなことが起きるのか。

 自らも記者である下山進は、1995年にアメリカ各地の新聞経営を取材し、予言的な本を書いている(『アメリカ・ジャーナリズム』丸善ライブラリー)。

 それは簡単に言ってしまえば「不採算部門の切り捨て」だ。

 真っ先に血祭りに挙げられたのが「調査報道」(investigative report)だった。下山はその一例として米インディアナポリス市の地方紙「インディアナポリス・スター」紙のケースを書いている。同紙は、2人の記者を1年間潜行取材させて「医療界不正キャンペーン」を1ヶ月連載。1991年のピューリッツアー賞に輝いた。

 ところが、その2ヶ月後に調査報道取材班は上層部に解散させられてしまう。同紙がマードック氏のニューズ社に似たメディア企業に買収され、株式を上場してから、全てが変わってしまったという。

「記者を長時間投入してもたいした増益にならない調査報道などやめてしまえ」というコスト計算らしい。

 こうした調査報道は、議員、裁判官、警察・検察、大企業といった「権力」を監視する、ジャーナリズムにとっての生命線なのだが、損益でいえば「無駄」と判断されてしまう。これは「報道の死亡宣告」に等しい。

 冒頭のマードック氏のように報道の内容に介入したがる経営者が上に来ると、現場の記者としてはさらに厄介なことになる。「あれを書け」「これは書くな」という「社内検閲」が必ず始まるからだ。

 DJ社の買収の際、バンクロフト家に対してマードック氏は「DJ社が長年培ってきた社内規範には介入しないし、介入を示唆することもしない」と約束したと報道されている。

 が、英国「タイムズ」紙を買収した時には「人事に介入しない」という約束を「え?そんな話、全部マジに思ってたのか?」とあっさり反古にしたという逸話を他ならぬWSJ紙(07年6月5日付)が報じている。

 また、ロンドン市立大学の調査によると、2003年のイラク戦争開戦時、マードック傘下の新聞175紙が軍事行動を支持した。

 調査したロイ・グリーンズレード教授は「マードック氏の意向を反映したもの」と指摘している(07年8月12日付毎日新聞)。

 こうなると「経営と編集の分離」もへったくれもない。「経営者によるマスメディアの私物化」だ。かくして、政府や大企業といった権力を監視するジャーナリズムは世界的に絶滅寸前の状態にある。

 おっと、マードック氏はソフトバンクの孫正義氏と組んで1996年にテレビ朝日の買収を仕掛けた「前科」があることをお忘れなく。日本のメディアだって安泰じゃないのですよ。


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上野樹里ちゃん あんた修行足りんわ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 脳ましい脳ましい僕の変人・上野樹里さま。あなたは僕の大腸だ。

 映画「ジョゼと虎と魚たち」であなたが演じた、リアルな偽善者を拝見、僕はあなたの虜になりました。

 なんちゅうベッピンさん!なんぼ演技うまいねん!

 その後あなたは「スウィング・ガール」「のだめカンタービレ」で国民的スターになりましたね。

 おっちゃんはね、おっちゃんはね、まるで自分の娘がヨメに行ったような嬉しさで…涙が、涙が…おおおおおお。

 その上野樹里チャンと、これまた私が愛してやまない長澤まさみチャンが共演する!

 しかも「禁断愛」だとか二人のキスシーンがあってとか、思わせブリブリなキャッチコピーが番宣で流れまくり、ワタクシ毎週木曜夜十時はフジにロック・オン、熱い期待に股間、おっとまちがえた胸を膨らませながらそのドラマ「ラスト・フレンズ」をおし拝むように見たのであります。

 なるほど。樹里チャンは性同一性障害、つまり肉体は女性だが精神は男性という役なのですね。

 だがカミングアウトできないまま、まさみチャンに恋して苦しむ。一方まさみチャンはDVカレシとの共依存状態から抜け出せず、そこにセックス恐怖症のなんとかクンが絡んでどーたらこーたら。うううヤヤコシイ。

 思い出した。「ラスフレ」と同じく性同一性障害の女性(精神が男性)を主人公にしたアメリカ映画「ボーイズ・ドント・クライ」(1999年)って見たことあります?

 この作品はヒラリー・スワンクのメジャー・デビュー作なんだが、わたしゃ最初見たとき「えっ!この俳優さん、女なの!!」と椅子から転げ落ちそうになった。

「男と女では笑う時に使う顔の筋肉が違う」とまで研究したスワンクの演技は、細かい表情も仕草も、完璧に男そのもの。その「彼」が、生理に舌打ちし、膨らんだ胸をサラシで巻いて必死に隠す姿が、性同一性障害の苦しみを実にリアルに伝えていた。

 そう、スワンクが完璧に男にしか見えないからこそ、実はその肉体が女性であることの心の痛みに共感できるんです。さもありなん、ヒラリー・スワンクはこの映画でアカデミー主演女優賞を受賞します。

 樹里ちゃん。ごめん。イケズなおっちゃんを許して。

 アカデミー賞女優と比べたら酷やけど、あんたまだ修業足りんわ。

 いくら髪をベリーショートにして、メイクを男っぽくして、男みたいなセリフしゃべっても、あんたはまだ「ボーイッシュな女の子」にしか見えん。

 なぜか? あなたが生理になって苛立つシーンなんてないよね。胸のふくらみを隠したり、股間に人工(ピー)を入れてこっそり男装なんてリアルなシーンはないよね。

 そう。このドラマ、「性」がメインテーマのくせに、核心を突くような性的描写は注意深く取り除いてある。宣伝に使える場合を除いて。

 そもそもこのドラマ、木村拓哉と福山雅治の同性愛(あるいは性同一性障害)物語だったら、番組企画が通ったかね。

 断言するが答えはノーだね。

 わたしゃ、このへんどうしようもない「同性愛内差別」を感じる。つまり「レズは美しいがゲイはキモい」という偏見ですな。

 実はこの発想、異性愛男性のものなんです。テレビ局やスポンサーの決定権限者を筆頭に、日本社会の主流は今でも異性愛男性優位だからね。

 そうか、だから「ラスフレ」には日本郵政だとか味の素だとか三菱自工だとauだとか、名だたる保守的なスポンサーが顔を揃えているわけか。

 ははははは。何だつまんねえの。


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エルメスのエールバッグは「シンボリック・メディア」なのです ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 多少古い話。新聞記者を経て大学教員をしている絵に描いたようなインテリキャリア女性が、あっさりと「冬のソナタ」にハマったと聞いて、その魅力を尋ねたことがあります。

 おもしろいことに彼女、登場人物のファッションを観察するのが楽しいんだそうです。

「ユジン(女主人公)の持っている鞄がエルメスのエール・バッグって設定がいいね。あれが同じエルメスでもバーキンだったらリアリティないもん」

 ブランドものに絶望的に無知な私は何のことかさっぱり分からず、家に帰ってインターネットでにわか勉強しました。

 なるほど!バーキンは80万円とか100万円とかするんですね!

 そりゃ小さな事務所に勤めるインテリアデザイナーのユジンにゃ無理だわ。

 おお、エール・バッグは20万円ちょっとか。鞄にしちゃ高いけど、ユジン、奮発して自分にご褒美あげたのかな?軽いし、モノをがばっと突っ込めて実用的だね。現場仕事の多いユジンにはちょうどいいわ。仕事に一生懸命だし、エルメスだし美的センスもさすがだね〜。

 などと想像が膨らむというわけです。

 ここで大事なポイントです。エルメスのエール・バッグは「ユジンの内面を他者に伝える情報伝達物」として機能しているってこと、お分かりかな?

 ユジンがどんな価値観や人格の持ち主なのか、鞄が情報を運ぶ。

 こういうふうに所有者の内面を他者に表現するモノを「シンボリック・メディア」などと申します。

 分かりやすい例でいえば、クルマ。BMWに乗っているのか、白い軽トラックに乗っているのかで、乗り手の内面はイヤでも他者に伝わってしまうでしょ? つまり鞄もクルマも、単なる「持ち物を運ぶ」「移動する」という「機能」だけでは語れないのです。

 もっと踏み込めば「消費=モノやサービスを買うこと」は、シンボリック・メディアを手に入れることです。つまりお買い物は「自己表現」なんです。

 いえいえ、私はブランド鞄のショッピングなんて低俗なことには興味がありません、英会話学校に通い、将来はアメリカのビジネススクールでMBAを取得して自分のキャリアを磨きたいと思います。とおっしゃるあなた。

 ご立派です。でもちょっと考えてください。

 英会話学校には授業料を払わないといけませんね。ビジネススクールだって、学費が必要でしょ? 

 そう、英会話学校とかビジネススクールといった「教育」だって、おカネを払わなければ手に入らない「商品」なんです。

 こういうふうに、ありとあらゆるモノやサービスに価格がつき、商品として流通する社会を「高度消費社会」と申します。

 さて、もしショッピングが自己表現なら、一番大切なことは何でしょう。その商品が自分の所有物となったとき、それを所有する自分を肯定できるかどうか、です。

 例えばあなたが二酸化炭素の増加による地球温暖化に心を痛める人なら、ガソリンをバカスカ食うクルマではなくハイブリッドカーに乗ることでしょう。

 よーく注意してください。ここで購入者であるあなたがより強い関心を持つのは「そのモノを身に付けた結果表現される自分自身」であって、商品そのものではない。

 最終的な関心はあくまであなた自身なのです。こういう商品の選び方を、社会経済学者の佐伯啓思という人は「ナルシシズム(自己愛)消費」と名付けました。

 さらに!1980年代中期以降に初等教育を受けた世代の日本人は「人間には必ず一人一人ちがう個性がある」という「個性信仰」を学校で叩き込まれています。文部省がそういうふうに指導の舵を切ったからです。

 いま、その世代が三十〜四十歳代、収入たっぷりの「消費盛り」の年齢に達している。

 だから、みなさん個性を表現しようと一生懸命ショッピングする。「自分の個性を表現しなくてはならん」「他人と同じではいかん」というオブセッションに取り憑かれているわけです。

 でも、この高度消費社会では、限られた既製品の範囲内で「個性を表現」するしかない。つまり、みんな選んでいるようで選んでいない。これは決して解決することのないジレンマです。

 この傾向は女性に特に顕著です。いつぞや本欄でも書きましたが「日本の企業社会は成人男子しかお手本を用意してこなかった」からです。

 日本女性にはまだ「標準ライフスタイル」が確立していない。だから、企業はありとあらゆる手段を使って「これがあなたの個性です。どうぞわが社の製品でそれを表現してください」と誘ってきます。

 お手本のない女性は「おお、こっちか」「いや、あっちだ」と右往左往するしかありません。それはまるでおもちゃ売り場ではしゃぎ回る子供のようでもありますが「自己愛消費=個性表現」という無限地獄に落ちてもがいているようにも見える。

 息苦しくないですか、ビッグ・ガールのみなさん?


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「ホームレス中学生」 結末のわかっているリアリティドラマ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 今日はボヤキますよ。

 ノンフィクションのライターなんて、インケツな商売を選んだものです。

 まずカネに縁無ッシング。

 だってノンフィクションって暗くて重くて、売れないんだもん。

 ワタクシの書いた本なんか、1万部ちょっと売れたら担当編集者が赤飯炊いて芸者ワルツを踊ったらしい。

 ノンフィクションもので10万部なんてメガヒット(死語)が出ようモンなら、もうそら出版社周辺で提灯行列ですわ。

 だいたいこの週刊金曜日の連載かてやね、原稿料(ピー)円ですよ(ピー)円。どうです、ご想像より一桁違うでしょう。

 ワーキングプア問題を取材する前に自分がワーキングプアになっとる。

 そのインケツなノンフィクション業界で、なーんと200万部を売る特大ホームランが出たという福耳情報が入った。

 ほほう、父親が破産して家族が離散、ホームレスになった中学生時代の実体験をつづった? そらすごいな。ライター、誰?

 田村裕? この業界じゃ聞かん名前やなあ。

 え、何? 吉本興業所属?

 こら待たんかい、田村裕てお笑いコンビ「麒麟」のあの田村か!

 しょうもない冗談かますな。そんなもん「ノンフィクション」に分類すな。「タレント本」に入れとかんかい。心臓に悪いがな。

 が、この本「ホームレス中学生」、読んでみると意外にバカにできない。

 中学二年生のある日、帰宅してみると自宅が差し押さえられ入れない。父親は家族の「解散」を宣言してそのまま蒸発。兄姉とも別れた田村少年は公園の巻き巻きウンコ型すべり台に住み着き、雑草に段ボール、鳩のエサのパンの耳を食ってサバイバル。ぷるる、なんちゅう泣ける話や。こんな話が九〇年代の大阪で本当に起きるなんて…おおおお。

 へ? ちょっと待て。公園のホームレス生活は1ヶ月で終わりやんけ。

 百九十一ページのうち、四十五ページしかあらへん。後は貧乏で悲惨な話は続くけど、いちおう家あるやん。こら、どこがホームレス中学生や。なんてね、

 関西人は本読みながらでもツッコミ入れるんです。

 ツッコミつつ、おっちゃんはわかった。暗く重い社会問題本がサッパリ売れないこのご時世に、なぜこの悲惨な話が売れるのか。

 田村が人気者だから? もちろんそれもある。

 それより何より、この悲劇の最後にはハッピーエンドが待っていることをみんな知っているからです。

 ウンコ型すべり台でホームレスやっていた田村少年はやがて高校を出て吉本総合芸能学院に入り「麒麟」としてデビュー、テレビやラジオにレギュラーを多数抱える人気者に。そのホームレス体験を描いた本は大ベストセラーになり、田村はフェーマスリッチマン。

 みんなそれ知ったうえで読んでる。つまりこれは安心して読める悲劇本、ハッピーエンドが決まってるリアリティ・ドラマなのです。

 一方。

 不景気と雇用崩壊のあおりをまともに食らった団塊ジュニア層が、自分一人食っていくこともままならぬまま三十歳を超えていく絶望感を「希望は戦争」という衝撃的な言葉に託した文筆家・赤木智弘氏にインタビューしたことがあります。

 彼の「若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か」は誠実な思考と丁寧な筆致に貫かれた良書ですが、売れ行きは五千部だったそうです。

 こういう残酷な現実に打ちのめされている若者の方が、田村みたいな僥倖に恵まれた人よりはるかに多いんじゃないの?

 ははははは。いくらリアルでも、ハッピーエンドじゃないと人は振り向かないんですね。

 そこまでしてこの狂った現実から目をそらしたいですか、みなさん。


ホームレス中学生

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  • 作者: 麒麟・田村裕
  • 出版社/メーカー: ワニブックス
  • 発売日: 2007/08/31
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



ホームレス中学生 スタンダード・エディション [DVD]

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  • 出版社/メーカー: 東宝
  • メディア: DVD



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検索エンジンがあなたの知識を決めていいのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 例えばこのページを開いた読者のあなたが「これ書いてる烏賀陽弘道って一体何者?」と思ったとしよう。

最初にすることは何だろう。

 インターネットがなかったころは、本屋なり図書館に行って「マスコミ電話帳」の「ライター」のページを開く、くらいしか方法がなかった。

 が、今ならグーグルなりヤフーなり「検索エンジン」に「烏賀陽弘道」と打ち込んでネットを検索すればいい。

 たちまち私が卒業した小学校の名前までわかる。試しにグーグルで実行してみたら、0.04秒で9万7200件もヒットした。私のマックのブラウザで表示すると9720ページにもなる。ページを繰っているうちにだんだんうんざりしてきた。

 本人ですらそうなのだから、私を知らない読者なら、最初の1ページか2ページからいくつかリンクを拾って目を通すのが精いっぱいだろう。

 ということは、あなたが「烏賀陽弘道」について知る情報の優先順位は検索エンジンが決めている、ということだ。

 例えば「リンクが張られた数の順番に表示順位を決めている」というグーグルの場合、1番上に来るのは私の個人ウエブサイト「うがやジャーナル」である。これは私が自分で書いているウエブなので、ラッキー。なぜならあなたが「烏賀陽弘道」について真っ先に知る情報は私が自分でコントロールできるからだ。

 これが「烏賀陽弘道」なんて社会の大勢に影響のないキーワードならどうでもいい。

 しかし「チベット独立」とか「ヒラリー・クリントン スキャンダル」といった大きな社会問題だったらどうだろう。グーグルやヤフーがあなたの知識の優先順位を決めてしまって、本当にいいのか? 

 インターネット以前は、こうした「市民がパブリックな問題について何を知るべきか」の優先順位を決めるのはマスメディアの仕事だった。

 新聞に掲載されるのかボツなのか。掲載されるのなら1面トップなのか、2面のベタ記事なのか。NHKが夜のニュースで何番目に報じるのか。どんな週刊誌がどれくらいのページ数を割くのか。

 そんなマスメディアの「ニュース価値の判断」を読者や視聴者は言外のメッセージとして受け取っていた。いまグーグルやヤフーなど「検索エンジン」がやっていることは、それと同じなのである。

 検索エンジンが完全に公正中立ならいい。が、現実はそれほど甘くはない。

 一番有害なのは、検索エンジンが政府の言論統制に協力することだ。例えば、ヤフーやグーグルの中国版では「6-4(天安門事件が起きた6月4日のこと)」「法輪功」「チベット独立」「民主主義」といった、中国政府が反体制的と見なすキーワードを検索すると、ほとんど中国政府寄りのサイトしかヒットしないことを「国境なき記者団」や「アムネスティ」など欧米の人権団体が批判している。

 つまり検索エンジンの運営会社が中国政府の検閲に協力している疑いが濃いのだ(念のため。経済の自由化が進んだので勘違いしている人が多いのだが、中国は今も共産党の一党独裁国家であり、欧米と同義の『民主主義』や『言論・表現の自由』はない)。

 つまり中国でも「市民が何を知るべきなのか」を決めているのは検索エンジンであり、その首根っこを政府が抑えて、権力にとって都合の悪い情報を市民から遮断しようとしているという構図が見えてくる。

 日本は憲法で言論の自由が保障されているし、検索エンジンも検閲を受けないからいいよね、などと楽天的なあなた。「検索エンジンで上位に表示されるようにウエブサイトを改良するビジネス」=Search Engine Optimization(検索エンジン最適化)が存在することをご存知かな?

 インターネットを広告目的で使う企業や小売店にとって、このSEOがどれほど重要か想像してほしい。例えば「表参道 フレンチ レストラン」というキーワードで1ページ目に表示されることは、表参道に店を構えるフランス料理店にとっては死活問題だろう。

 このSEOも中国政府の検閲も、検索エンジンを操作して市民が知る情報の流れを都合よくコントロールしたいという動機の点では結局同じなのだ。



高齢者用エロ映画だと思うな!「ラスト、コーション」 [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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「世界を騒然とさせた過激なセックス描写」
「アメリカでは成人指定」
「本番をやっているのではとの噂も」

 云々、善男善女のスケベ心、いやちがった知的好奇心くすぐる前評判が広まったせいでありましょうか、アン・リー監督の「ラスト、コーション」は、単館上映系の地味な人間ドラマがいつものこの監督にしては異例の拡大ロードショー・ロングランになっております。

 元よりスケベ、ノーノー知的好奇心旺盛な小生も公開初日に東京・日比谷のオッシャレーな映画館へダッシュしたのですが、何と二回先の最終回まで売り切れで入れん。

 ぎゃわ。こうなったら意地でも見てやると平日昼間に行ってもまた満員。何なんだこの熱気は。

 着席して周囲を見回すと、観客の年齢がやたら高い。

 どう見ても男は定年退職者だなカップル、あるいは、映画が描く日本軍統治下の上海で姑娘とラブラブしたのか?って遠い目をした爺ちゃん。そんなのばっか。

 だから、映画が始まってもゲホゲホ咳が止まらないし、フガフガムニャムニャ独り言いってるし、あああああうるさいっちゅーねん。

 それが!噂の「過激なラブシーン」になると、急にみなさん静かになるからおかしい。

 ゲホゲホもフガフガもピタリと止まり、シーンとなった場内にウエイ・タン(抗日スパイ役)とトニー・レオン(親日政権の秘密警察高官役)のアヘアヘ声だけが響く。そしてしばらくすると、回りのあちこちからゴクっと唾を飲む音がするんだな。終わるとフーとため息。もうカンベンしてよお父さんお爺ちゃん。

 その後もラブシーンのたびにゲホフガ→アヘアヘ→シーン→ゴク→フーなんだもん。みなさんわかりやす過ぎ。

 これは映画より観客観察の方がおもしろい。とふざけた考えはすぐ実行に移す小生、わざと平日の「レディース・デイ」(女性割引日)にゴーバック。

 ぐわわ、また見たこともない長蛇の列だ。今度はオバチャン、おっと間違えた、妙齢の女性ばっかりだぞ。しかも集団で来ているからペチャクチャうるさい。

 だが映画が始まったら、おおやっぱり同じだ。ペチャクチャ→アヘアヘ→シーン→ゴク→フー。ほんま笑かしよるなあ。

(ご参考までに。いやまあ、確かにボカシが入りますよ当該のシーンになりますとね。でもね〜最近のアダルトビデオに比べりゃカワイイもんすよこんなもん。むしろメープルソープのヌード写真みたいに芸術的で美しいです。)

 アン・リー=漢字で書くと李安監督はもともと台湾人です。国立台湾芸術大学を卒業してからアメリカに留学して英語と映画を勉強し直し、四十歳近くになってから世界で認められたという遅咲きの俊英。

 本作を前作「ブロークバック・マウンテン」(そんなつもりは全然なかったのに、激しい恋に落ちてしまって二十年間人目を避けつつ愛し合い続けるカウボーイ二人のお話)との「双子の作品」と位置づけています。

 本作の原題”Lust, Caution”は「体だけのセックスだと思ったらご用心」とでも訳せばよいでしょうか。

 人間、本気で愛し合える相手は一生のうちそんなに何人も出会うもんじゃない。その相手は同性かもしれないし、戦争の敵同士かもしれない。そんな不思議が人生には起きるんだ。

 李監督の作品にはそんな深遠な洞察が込められているのですが、まあゲホフガ→アヘアヘ→シーン→ゴク→フーでご鑑賞されるみなさんのお姿も、それはそれでまた人生ってもんですね。

 いやあ映画って本当にいいもんですね。


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オンナの花道できたはいいけど ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 時が経つのは速い。ふと思い出してみると、今年4月1日で「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」いわゆる「男女雇用機会均等法」が施行されて22年が経つ。

 つまり、この法律が施行された年に生まれた赤ちゃんが、今春大学を卒業して労働力の仲間入りをするわけだ。

 均等法以降の若い世代には信じられない話だろうが、1985年以前、新規雇用、特に新卒学生の求人に男女差別があるのが当たり前だった。いわく「採用は男子学生のみ」「女子は一般職(管理職になれないノンキャリア職)のみ採用」などなど。

 ひどいのになると「女子学生は自宅通勤者のみ採用」などというワケのわからん条件を、旧財閥系銀行や一流メーカーが平然と掲げていた。

 なぜ下宿暮らしの女子学生が労働力としての対象から除外されるのか不可解もいいところだ。が、当時企業の採用担当者が「独り暮らしの女子学生は性的に乱れている」と真面目な顔で言ったのを、当時大学生だった私は覚えている。

 江戸時代か、それともタリバーンの支配国かと耳を疑うけれど、22年前までの日本企業は本当にそんな程度だったのである。女性が差別なく働ける職種は公務員、教師、記者・編集者など微々たる数しかなかった。

 実をいうと、この時点では募集・採用、配置・昇進については「努力目標」にすぎなかった。募集・採用、配置・昇進、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇において、男女差別を「禁止」したのは1999年である。まだ10年も経っていないのだから大きなことは言えない。

 それでも「男女雇用機会均等法」は日本女性のライフスタイルを劇的に変えた。女性が男性と同じようにキャリア社員として雇用され、昇給や昇進でも差別されない。

 それはすなわち、女性が男性と対等の経済力を持つ=「同等におカネを稼いで自分の意思で商品を購買できる」ようになることを意味している。

 メーカーはこぞってこの新しい購買層をマーケティングの主軸に据え、彼女たちが買いたくなるような商品を競って開発した。

 テレビ局やレコード会社は「F1層」(20〜34歳の女性層)をターゲットにした番組や歌手、曲を送り出しヒットさせた。「東京ラブストーリー」に代表される「トレンディ・ドラマ」だとか渡辺美里や中村あゆみといった「ガールズ・ポップス」がそれに当たる。

 しかし、これで万事めでたし、とはいかなかった。女性の人生の選択肢が一気に増えすぎたのである。

 例えば、20代後半から30代前半の女性には(1)キャリア社員として就職するかしないか(2)結婚するかしないか(3)子供を産むか生まないかと、単純計算で8通りの人生が選択できる。

 しかも、どの選択肢も、伝統的な価値観(主に親が体現する)から離脱しようとすると、摩擦が必ずといっていいほど起きる。

 男性は哀れなほど単調なままだ。旧来からのライフコースが堅牢にでき上がっていてなかなか崩れない。「就職」「結婚」について「NO」はほとんど選択肢として考慮されない。

 かろうじて「DINKs」(Double Income, No Kid=共稼ぎ・子供なし)という言葉で「子供を持たない」という選択肢が許容された程度である。が、DINKsも女性が経済力を持って初めて成立するライフスタイルであり男性の選択ではない(現在は当たり前すぎてDINKsは死語になった)。

 かくして、経済力を得た女性にとって「結婚」は「しなくてはいけないもの」ではなく、買い物と同じ単なる人生の選択枝のひとつにすぎなくなってしまった。

 かつて25歳を過ぎて独身でいる女性は「クリスマスを過ぎたクリスマスケーキ」(賞味期限切れ)「オールド・ミス」(独身老女)と揶揄された。

 独身でいることがと社会的・道徳的に「悪いこと」のように非難されたのは、女性が企業で働き収入を得る道が閉ざされていたからである。つまり独身でいると経済的に損をしたのだ。

 が、いま定収入ある女性にとっては、結婚をしなくても誰にも経済的に依存する必要がない。だからはっきり言ってしまえば、結婚などしようがしまいが、女性にとって経済的重要度は実は低い。

 エッセイストの酒井順子が30歳を過ぎて独身の女性を気軽に「負け犬」と呼べたのは、もはやそう呼んでも激しい反感を買う「死活問題」ではなくなったからだ。

 かくして、日本女性は莫大な自由を手にした。が、お手本のない自由は時に人を混乱させる。

 フェミニズムの第一人者・上野千鶴子は「日本の企業社会は『成人男子』しかロール・モデルを用意してこなかった」という鋭い指摘をしている。

 今のところ、女性が企業社会でキャリア職として上昇するためには「オッサン化=企業という男系文化社会に合わせる」しかない。結果は「男性化した女性サラリーマン」が大量発生しただけ。

 アフターファイブに上司の悪口や仕事の愚痴を言う場所が赤提灯からイタリアンレストランに変わっただけで、やっていることは昔のモーレツサラリーマンと同じだ。

 これが彼女たちの望んだ人生なのだろうか?



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おっちゃんは行っちゃうよ 売れない外タレ再結成来日ラッシュ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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「前略 週刊金曜日編集長様 最近の『ずっと音沙汰なし外タレ』の再結成来日ラッシュ、腹に据えかね一筆啓上申し上げます。チープ・トリックにナイト・レンジャー、デュラン・デュランまでは何とか堪えましたが、シカゴとヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの抱き合わせ公演とは何たる烏許の沙汰でありましょう。何の音楽的共通項もないではありませんか。敢えて言うなら私の如き四十歳代中年が若かりし頃『ベスト・ヒットUSA』なるテレビ番組で胸躍らせ観賞したバンドばかり束にした『おつとめ品セール』。息子の大学の学費が欲しいのか離婚で慰謝料がいるのか、お互い人生の辛酸をなめ尽くせるこの年齢、おカネがほしい事情はご同情申し上げますが、日本のファンの無知につけ込んだこの『懐かし商法』如何なもの御座いましょう。地球温暖化防止と核兵器廃絶のためにも、是非御誌でこの不正を糾していただきたい。あらあらかしこ 東京都 匿名希望 ペンネーム・そよかぜ」

 うむむさすがは週刊金曜日の読者さま、ご慧眼でございます。

 この手の再結成公演、音楽的には何も新しいものを生まない。「本人たちによるそっくりさんコンサート」みたいなもんであります。

 母国でやると地元の新聞や評論家にボロカスに書かれるから、ってんで日本だけでカネ稼ぎして帰る。トホー、我が祖国もナメられたもんです。こうした不逞夷狄の音曲など、無視のみが見識の示し方でありましょう。

 へ?そう言っているウガヤ、二月十三日のポリスの再結成コンサートで東京ドームで見かけた?

 ウへヘ、そりゃ他人の空似でしょう旦那。

 いや、あの真冬に膝の破れたジーンズなんか履いているバカなビンボー中年は他におらん?

 それじゃイトコじゃないかな? よく間違われるんですハイハイ。

 え?スティングの歌に合わせてイエーイエーイヨーヨとか泣き叫びながら腰を振って踊っておった?

 は?二階席17列163番?

 ぐぐぐ。まあそこはオトナの事情ってことでね、まあまあまあ。

 え? イエスの再結成公演でもウガヤが飛んだり跳ねたり踊ってるのを見た? あああううう。

 何、エイジアでも?ジェスロ・タル?ニューヨークのELP再結成公演でも見たって? まあ仕事ですよ仕事。

 じゃ何で売店で嬉しそうにツアーTシャツ五千円も出して買ってんだって? もう、あんたホントよく見てますな。いけず。

 だってね、おっちゃんがこの前ポリスの三人見たのは一九八〇年の京都大学西部講堂だよ。

 いまじゃ五十六歳のはげちゃびん・スティングはまだ三十歳前、売れてなかったけど、ふさふさした金髪がハイジャンプのたびに揺れ、ピチピチしてそりゃあカッコよかった。

 おっちゃんはまだ真っ白な高校生で、オレの人生どーなるんだ不安と劣情だけを持て余し、パンクギグで隣の客を殴ったり噛みついたりのミーニングレスな青春。

 それが二十八年経って、あっちは世界のスーパースター。

 こっちは新聞記者になったり辞めたり結婚したり離婚したり七転八倒ばっか繰り返すうちに人生半分終わってもうた。人生依然ミーニングレス。うるる、

 あのスティングの甲高い歌声も、三人のタイトな演奏もあんときのままなんだなあ。

 ごめん。おっちゃん、あかんわ。

 やっぱ泣くわ。歌うわ。イエーイエーイヨーヨ。


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殴る男と殴られる女の奇妙な共依存 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 パートナー女性への男性の暴力が社会問題化し始めたころ、加害経験のある男性を数人探し出して、徹底的に聞き取り取材をしたことがある。本音を話すまで、何回でも何時間でも話を聞いた。なぜ女性に暴力を振るうのか、男性側の心理的な要因を探りたかったからだ。もう10年前の話だ。

 高校生から40歳まで、何人かインタビューを重ねるうちに、いくつも共通点があることに気付いた。

 彼らは一様に温厚、にこやかで礼儀正しい人物だった。知的職業に就いている人もいた。一見して粗暴な男性など一人もいなかった。

 話す内容もよく似ていた。殴ればパートナーに嫌われるのは分かっている。が、殴らずにはいられない。暴力をふるっている間も「こんなことしちゃダメだ」と思っている。

 が、自分の体をコントロールできない。理性が吹き飛んでしまう。我に返った瞬間、激しい自責と後悔の念でいたたまれなくなる。土下座しながら泣いて謝る。頼むから捨てないでくれ。反省してやり直すから。

 しかし、しばらくするとまた同じ暴力に戻っていく。結末はどれも悲惨だった。

 女性が目の前で手首を切る。それを見て逆上し、相手の腿を包丁で刺した。相手の肋骨が数本折れ、全治2ヶ月の重傷を負わせた。

 そんな話が終わると、最後にはみんな涙を流し、顔を歪めて絞り出すように言う。その言葉も驚くほど似ていた。

「今でも彼女を愛しています」「いけないと思っているのに手が出ちゃう。本当に苦しいです」「僕は鬼です。人間じゃない」「自分が怖い」。

 それが弁解や虚勢ではなく本心であることは、その態度や表情から見て取れた。奇妙に聞こえるかもしれないが、暴力を振るう側も苦しんでいた。

 この「自分で自分がコントロールできず苦しむ精神状態」は「こころの病」ではないのか。薬物やセックスへの「依存症」の取材の経験があった私はそう感じた。

 被害者をかくまう「シェルター」はあちこちにでき始めていた。が、暴力を振るう男性は「凶暴」と非難されるだけで、その「暴力というこころの病」への治療はないも同然だった。
 
精神分析学や臨床心理学の専門家に取材を重ねてみると、思った通りの答えが返ってきた。

 男女を問わず、人間は「無意識(意識下)」という心の領域に「自分はこうあるべきだ」という理想像を持っている。それを実現するため「恋人、妻(夫)、夫婦はこうあるべきだ」という理想像をパートナーにも求める。これが心理学用語でいう「ファンタジー」だ。

「ファンタジー」は、成育の過程で自分の父母の夫婦関係や自分との親子関係から形成される。

 だから「こんな親は許せない」「こんな女性は耐えられない」という怒りや憎悪の要素も含まれている。

 ふだんは本人も意識しない「意識下」に押し込められているが、何かの拍子でその栓が外れ、理性を吹き飛ばしてしまうことがある。

 きっかけは些細なことだ。言われたくないことを言われた。下着の脱ぎ方が乱雑だ。窓の開け閉めが乱暴だ。

 男性が持つ「ファンタジー」を女性が乱したとき、理想と一致しない現実を破壊しようとする。その「現実を破壊して、なかったことにしようとする」行動が、暴力の正体だ。専門家は口を揃えた。

 一組だけ、暴力を加えられている女性も一緒に取材に応じたカップルがいた。男性がその暴力歴を話し終えたあと、女性も口を開いた。するとこんな言葉が繰り返し出てくる。

「私がいないと、カレ、だめなんです」「こんなわがままなひとを愛せるのは、私しかいません」。

 そう言うときの彼女は実に幸福そうな表情をしていて、奇妙だった。

 こうした被害者側の心理を「共依存」と呼ぶ。専門家はそう教えてくれた。暴力、薬物依存など問題のある男性を支えてみせることで、自分の存在を確認しようとする無意識の行動であり、男性への歪んだ「心理的支配」でもある。

 パートナーの暴力にもかかわらず、その関係が意外に長く続く(私が取材した例では、暴力が日常的に繰り返されるまま4年間同居したカップルもいた)理由には、こうした被害者独特の心理も背景にある。(もちろん、恐怖で行動や思考が停止してしまう例もある)。

 こうした「負の心理的相互依存」を断ち切らないと、事態は悪化する一方になる。最悪のシナリオは、被害者による逆襲も含め殺人や傷害などの刑事事件だ。最近、それが増えているような気がする。


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「臨死!!江古田ちゃん」読んだかね若人よ! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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おお恥ずかしきもの、汝の名は若気の至り。

 今を去ること(ピー)十年前、おっちゃんがまだティーンだった昔、「女心」なるものはナスカの地上絵なみの大神秘でありました。その無知につけこんだのが「ホットドッグ」「ポパイ」「週刊プレイボーイ」あたりの青年誌。「女心はこう読め!!」など踊る大見出しにツラれ「カノジョが脚を頻繁に組み替えたらOKサイン!」(ナニがOKなのか分かりますね)「利き腕と反対の手で頬杖をついたら誘ってほしいシグナル!!」(ナニに誘ってほしいのか分かりますね)等々、今考えりゃそりゃーねーだろー的記事を本気にして突撃、カノジョからビンタ、蹴り、鉄拳など玉と砕けた戦友は数知れず。あまりの惨禍に「ホットドッグ被害者の会」を結成しよう、とガキどもは本気で話し合ったものでした。

 その後も妄想、じゃなかった女性美化ファンタジーは再発を繰り返し「嗚呼これが女の正体であったか」と我に返るころには、時すでに遅し。齢四十を超え、オバチャン、じゃなかった妙齢となったかつての可憐なカノジョはユニクロのジャージでへそ出してガーガー爆眠しとる。傍らで愕然とするかつての妄想少年。おお二度と繰り返すまじ、この過ち。

 てなわけで若人よ、我々の轍を踏みたくなければ、瀧波ユカリの四コマギャグまんが「臨死!!江古田ちゃん」(講談社)を読みなさい。

 主人公の江古田ちゃんは北海道出身の二十四歳。このストレートヘアで時々白目むいている雪女みたいな風貌の彼女、なぜか知らんがいつも全裸で暮らしている。昼間は生命保険のカスタマーサポートやって、夜は日本人なのになぜかフィリピンパブで働いている。なぜか彼女を恋人にする気のない(=本命が他にいる)男とばかり寝てしまう。

 何がすごいってこの江古田ちゃん、ここまで言ってインカ帝国的に女のホンネ全開なのです。ヤバいぞ。

 宴席で「オナニーなんかしたことな〜い」とカワイ子ぶる女にちゃぶ台ひっくり返し「断言する!!全ての成人女性はオナニーの経験がある!!」と一コマつぶして絶叫。必死で抗弁する女子男子を「現実を見ろ!!」「カマトトぶるな!!」「自分のマ○コもさわったことないのか?」と喝破しちゃう。公衆トイレに入って紙がなくても「男の子みたいにこきざみにふるえて シェイクシェイク」「でもね、最近は手でふいたあと手をあらうって技もあみだした」と友人M(25歳)とマジメに情報交換しとるぞ。うくく。

 でも、やっぱ破壊力ナンバーワンは彼女のセックスに対する醒め切った態度だわ。

 もう夢もキボーもない。駅前で出くわした男性四人組を見て「全員しとねを共にしてる!!」と青ざめるも、次の瞬間には彼らを並べ替え「向かって右から一、二、三、四位」と順位付け。古びたパンツを「これはT君に強引に脱がされ」「これはS君のとき」と「時系列」「良かった順」に並べて遊んでおる。あうう、かつての小生みたいな女性美化系妄想少年は皆殺しの虐殺テロまんがだね、こりゃ(すんません。筆者の好みでネタ選択が下ネタに偏っております。若干)。

 てえことはだね、女性に現実的に対処するにはだね、江古田ちゃん読んでから出撃した方がいいよ、若人よ。ここに描かれている通り、オンナだって一皮むけばオトコとそんなに変わらんのだからね。ああイヤだイヤだ、何ておじん臭い説教やってんだ、おれ。

臨死!!江古田ちゃん 2 (アフタヌーンKC)

臨死!!江古田ちゃん 2 (アフタヌーンKC)

  • 作者: 瀧波 ユカリ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2007/04/23
  • メディア: コミック



臨死!! 江古田ちゃん 1

臨死!! 江古田ちゃん 1

  • 作者: 瀧波 ユカリ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/04/21
  • メディア: コミック



臨死!!江古田ちゃん 3 (アフタヌーンKC)

臨死!!江古田ちゃん 3 (アフタヌーンKC)

  • 作者: 瀧波 ユカリ
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2008/05/23
  • メディア: コミック



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「格差社会」とは「年寄り天国・若者地獄」だった ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 21世紀の日本に出現した「格差社会」の正体って、一体なんだろう。誰がトクをして、誰が損をしているのか。

 答えは「世代間格差」であることが、だんだん誰の目にも明白になってきた。

 一度この欄で「年金の世代間格差」についても同じことを書いたが、いま進行している雇用や福祉の待遇格差を単刀直入に言ってしまえば「年寄り天国・若者地獄」なのである。

 例えば、パート・アルバイト、契約・嘱託社員など、非正規雇用者の割合は全年齢平均では33.7%なのに、15〜24歳に限ると48.1%に跳ね上がる(07年1-3月、総務省調べ)。

 実はこうした「世代間格差」は日本だけの現象ではない。ヨーロッパでもアジアでも、よく似た構造の現象が社会問題になっている。

 例えばフランス。1975年のフランスでは、30歳と50歳の労働者の賃金格差は15%だった。それが今では40%に拡大している。大学卒業後2年経っても就職できない若者の割合も、過去30年で6%から25%に増加した(『Newsweek』誌07年4月25日号)。同誌によれば、こうした若者の失業問題はドイツやベルギー、イギリスなどヨーロッパ全域に広がっている。

 就職不安のため、成年しても親元を離れない若者が増えている。イタリアでは30-34歳層の45%が今も親と同居し、フランスでは24歳で両親と同居している若者の割合が65%に達したそうだ。個人主義の傾向の強いヨーロッパでは異常な事態である。何のことはない、日本でいう「パラサイト・シングル」はヨーロッパでも大量発生しているのである。

 若者を圧迫している元凶が「ベビーブーマー」=「団塊の世代」である点も、日本と同じだ。

 第二次世界大戦が終結した直後に生まれたこの世代、日本でも欧米でも他の世代に比べて人口が膨らんでいる。しかも日欧では戦後の経済成長期に福祉制度が発達し、好景気も手伝って団塊の世代には安定した雇用と高い年金が保障された。

 ところが今、その団塊の世代が老年にさしかかり、日本でも欧州でも厄介な存在になってきた。彼らが企業に居座っているので、若者の就職口が増えない。少子化で若者は減る一方なのに、これから退職して年金を受け取る大量の団塊の世代の生活費を負担しなければならない。

 東アジアでも若者の雇用状況は厳しい。

 例えば、1980年代に急速な経済成長を遂げ「東アジアの四頭の虎」と呼ばれた香港、台湾、シンガポール、韓国。80年代後半から製造業が中国やベトナムなどの低コスト国へ流出したうえ、産業の軸足がIT、物流、金融などに移ったため、大卒専門職には新しい就職先が生まれたが、労働市場全体で見ると求人が減った。

 1986年以降、香港では工場の雇用数が60万件以上減少し、サービス部門が雇用の主な原動力になった。だが、単純労働の場合、ほとんど最低賃金しか支払われず、福利厚生も期待できない。販売員や警備員といった仕事の初任給は月わずか400ドル。かつては可能だった労働者階級から中産階級へのステップアップはほぼ不可能になった。

 台湾では、昨年6月に大学を卒業した25万人のうち10万5000人は9月末時点でも無職のままだったという(『Newsweek』誌07年12月5日号)。

 これも、企業が人件費の安い海外へ製造拠点を移したため、雇用が減った日本の状況(『製造業の空洞化』と呼ばれた)とそっくりである。

 この窮状は日本では非都市部で特に顕著だ。製造業に就職し、職能を身につけ熟練工へ成長していくというかつての就労形態は減った。代わりにチェーンストアの販売員など単純労働が増えた。が、こちらは非正規雇用が多く、熟練して職能が上がることは期待できないし、賃金もほとんど上がらない。ここでも若者は、上の世代が享受できた雇用から疎外されている。

 冷戦の終結と共に「保守・革新」(企業経営者・労働者)という対立軸が消えたと思ったら、今度は「世代」という新しい対立軸が浮かび上がってきた。

「ホリエモン」みたいな「ベンチャー成功組」が格差社会の勝者だと思っていると、問題の本質を見誤るのでご注意されたい。



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日本語をグルーブさせるのは難しいけど不可能じゃない [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 反核平和に地球温暖化防止にとグローバルプロブレムにビジーな週刊金曜日の読者様こんにちは。

 そんなハイスタンダードな皆様も、レアなリラクゼーションにカラオケなど一般ピープル娯楽をエンジョイされることもおありでしょう。薮からスティックで恐縮ですが、カラオケを歌ってみると「オンチ」には2種類あることに気付かれないでしょうか(いかんいかん。正月テレビの見過ぎで言葉がルー大柴化しとる)。

 ひとつは「音程オンチ」。所定の音の高さを外すオンチです。すなわち楽譜でいえば垂直方向のズレ。これはすぐご理解いただけますね。

 もうひとつ「リズム音痴」というのもあります。こちらは歌が所定の拍子からズレる。楽譜上では横方向のズレであります。こっちは案外気付かないが、不快指数は同じくらいキモチ悪い。ああヌカミソ腐る。

 こんなことを考えたのは、昨年末にLeyonaという日本人女性シンガーのライブを見に行ったからです。

 この胸まで届く美しい黒髪の彼女、歌のリズム感が抜群にいい。歌詞の日本語のアクセントと、バックの60〜70年代ブラック・ミュージック風音楽(つまりソウルとかファンクとかブルースですな)の演奏リズムがパンパンかっちり絶妙にシンクロしていて、とてもリズミカルで気持ちがいい。

 さよう「日本語がグルーブしている」のです。

 ありていに申しまして、日本ではプロの歌手でもリズム音痴はけっこう多い。

 なぜそーなるのか?はい、第一に、曲はちゃんと書けているのに、本人にリズム感が足りないというケース。

 カラオケ歌ってみてください。発声には必ず事前に息を吸うことが必要でしょ。つまり発声のほんの少し前に「息継ぎ」をしてないと正しいリズムで声が出ない。そして言葉のアクセントに合わせてパンと息を吐く。これ全部ゼロコンマ何秒内の作業ですから、アスリート的な瞬発力が必要です。

 そして「そもそも曲と歌詞のリズムが合ってない」という作詞・作曲者レベルのミスもあります。

「4分音符」という名前からも一目瞭然ですが、西洋音楽は一定の単位時間を小節→音符へと「分ける」構造を持っています。

 これは、西洋の言語、例えば英語の言語的構造と同じですね。

 すなわち、英語は一つ一つの単語が独立していて、必ず単語にはアクセント(音の強弱)がある。だから英文を朗読すると即リズムが発生します(それを突き詰めたのがラップです)。この「分ける」という点で、英語と西洋音楽は構造が一緒です。だから英語の歌詞を西洋音楽に乗せやすいのは当たり前なのです。人類最初の楽器は歌声ですから、音楽と言語の構造が似るのは当然なのですが。

 一方わが日本語は単語が「つながる構造」を持っている。そして音の強弱ではなく高低でアクセントをつける。西洋音楽とはまったく逆です。だからリズム優先音楽であるロックやファンクを日本語でグルーブさせるのはなお難しい。

 そーいやー、むかし政治闘争に負けてヒマになった全共闘世代の先輩方が「日本語でロックは可能か」なんて不毛な議論でマジメに盛りあがっていましたなあ。

 答は「英語よりはるかに難しいが、不可能ではない」に決まってます。

 Leyona嬢にしても、若い世代が「日本語をグルーブさせる」というハードルを軽々と飛び越えていくのを見ると、おっちゃんはとても心ストロングな思いに打たれるのであります。


Rollin’&Tumblin’

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  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2007/03/21
  • メディア: CD



Clappin’

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  • 発売日: 2006/07/26
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成長の神話を失った日本にフヌケ男大量発生 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

071203ヌメロ・フヌケ男はなぜ発生するのか

 「ギャル男」クンだとか「おネエマンズ」だとか、ワケの分からん男どもが大量発生、「もはや理解不能」と頭を抱えておられる読者は多いのではなかろうか。

 また職場や学校に「それでもお前、男か」と怒鳴りつけたくなる「フヌケ男」がいてトラブル頻発、ムカつきっぱなし。そんな経験はないだろうか。

 乱暴を承知でそうした現象をひと括りにしてしまうと、こんなことが言える。

 いま日本社会は「成人男性」の定義を見失ってしまっている。「成熟した大人の男性とは何か」という社会規範や共通理解が崩壊し、混乱しているのだ。

 なぜか。日本社会はいま二重の意味で「成長の物語」を失ってしまっているからだ。

 まず明治時代に始まった長いタイムスパンでの「成長の物語の喪失」から説明しよう。

 明治維新以前、俗にいう「近代化」以前の日本社会には、若者は「この儀式を済ませたら大人として振る舞わなくてはいけないし、社会もその人を大人と見なす」という「成人の儀式」を通るのが当たり前だった。

 武家や公家社会では「元服」と呼ばれ、だいたい15歳から20歳の間に済ませた。農民社会にも「名替祝い」「褌祝い」という儀式があった。

 ちなみに、こうした成年の儀式は日本だけの現象ではない。世界中どの文化にもある。民俗学や心理学、神話学ではこうした「それを済ませると一挙に大人になる儀式」のことを「通過儀礼」(イニシエーション)と呼ぶ

 ところが、明治時代以降、こうした成年式は次第に姿を消した。代わりに登場したのが「時間をかけて徐々に大人になる」という考え方であり、この時期に日本人は「青年期」「青春」という名称を与えた(精神分析学者・河合隼雄の説)。

 この「成年式の消滅」が、一つ目の「成長の物語の喪失」である。

 二つ目の「成長の物語の喪失」は、1990年代、バブル景気がはじけた後の暗くて長い「平成大不況」と共にやって来た。

 それは、戦後ずっと日本人を駆り立ててきた「経済による成長の物語」の前提である「終身雇用制」と「年功序列賃金」を企業が捨てたことに起因している。

 明治維新から1945年の敗戦まで、日本社会を動かした「成長の物語」は帝国主義的手段による政治・経済発展だった。

 が、それが敗戦によって破綻すると、今度は平和主義的手段による経済発展が取って代わった。その最高潮としての高度経済成長期以降は、企業体が通過儀礼を受け持つようになる。今でも、学生が就業すると「社会人」(=社会の一員)と呼ばれるのはその名残である。

 企業体はさらに、生涯を通じての「成長の物差し」を日本人に用意してきた。係長→課長→部長と役職が上がる「昇進」や、給与の「昇給」で目盛りが上がるたびに、人生の「成長」を計測することができたのである。ここで前提になっているのが、同じ企業体で一生働くという終身雇用制と、雇用年数が増えると給与も自動的に上がるという年功序列賃金だった。

 つまり生物的な加齢と、企業での昇進・昇給がぴったりと一致していたからこそ、「企業での成長=人間としての成長」という図式がそのまま受け入れられ、社会に定着したのだ。

 ところが、戦後50年近く日本を貫いていたこの二つの制度が、90年代になってこっぱみじんに吹き飛んでしまった。日本経済は成長どころか長い不況のどん底を這いずり回っている。企業そのものが倒産や吸収・合併で消えてしまうことも珍しくない。従業員を「リストラ」という名前で解雇するのも、「派遣社員」など「非正規雇用」も当たり前になった。年功序列賃金は「実力主義賃金」に取って代わられ、加齢しても賃金が上がるという保証はなくなった。

 こうして、過去50年日本社会を動かしてきた「もう一つの成長の物語」は消滅した。

 日本人の「成長の尺度」は大混乱に陥った。成長の尺度を失った日本人には「大人とは何か」「成熟とは何か」を定義することは、もうできない。つまり親世代が若者に「こういう大人になれ」というお手本が、もはや存在しないのである。

 高度経済成長を支えた企業従業員の大半が成年男性だったことが災いし「成熟した男性」のお手本が先に破壊されたため「大人の男」の定義は余計に混乱している。もちろん女性側も混乱しているのだが、紙数が尽きた。そちらはまたの機会に。


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PANTA 1980X 30年経って価値のわかる音楽アルバム [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 ぐわわ、もうそんな季節!?とパニックする人間どもをよそに地球は無慈悲に公転を続け、はや年の瀬。

 この時期ともなりますと、全国紙・総合雑誌などにて音楽ヒョーロンカの先生方が「今年の傑作アルバム・ベストテン」などと御健筆、小生それを横目で見て「ムフフ、そろそろ執筆依頼が来るかな?」などと電話の前にて待ち焦がれるのですが、どうしたことでしょう、ウンともスンとも話が来ない。

 うるる枕を涙で濡らす。

 そんな烏許の沙汰を毎年繰り返すうち、小生はすっかりいじけ切ってしまいました。

 もうこうなったら自分で書いてまえ。題して「過去30年からウガヤが選ぶ日本のポピュラー音楽ベストアルバム」だ。どーだ参ったか。

 前フリ長いな、いや失敬。では発表です(ファンファーレ鳴る)。

 受賞作はパンタ&HALの「1980X」であります。

 何やて? ソレ見ろ、週刊金曜日はサヨク雑誌だから日本赤軍シンパのパンタのアルバムなんかホメてる、てか?

 そういう阿呆な寝言いっている人、一歩前に出なさい。

 絹ごしとうふあげるから頭部を自分で殴打しなさい。うどんあげるからそれで首を吊りなさい。

 おのれ戯けども、そのような程度の低い話ではござらん!

 このアルバムは、そのタイトル「1980年代のいつか」のとおり全10曲が「近未来の日本の姿」というテーマで貫かれております。

 小生がこの作品に驚嘆するのは、1980年にパンタが歌で予言した数々の不吉な近未来像が、2007年のいま、ほとんど現実になってしまっていることなのです。

 すなわち、ハイテクによる監視・管理社会や遺伝子操作、石油をめぐる戦争、社会暴力のありさまであります。

 例えば「IDカード」という歌。「IDカード No.2525/名前なんて捨てられた/IDカード No.2525/この数がおれの名前さ/それでもこうしてる間に見張られつづける/コントロールされた数字に守られて」という歌詞は、02年8月に稼働し始めた「住民基本台帳ネットワークシステム」の姿そのもの。

「何でそんなことが予見できたの!?」と驚かずにはおれません。パンタが歌った「IDカードナンバー」は「住民票コード」という名になりましたが。

 そのほか「モータードライブ」はカメラで市民を監視する男の話を歌っている。

 どっかで聞いたことありません? そう、87年から導入された「自動車ナンバー自動読み取り装置」(通称Nシステム)や、「犯罪防止」を名目に街角のあちこちに設置された監視ビデオカメラに取り囲まれた、現在の日本社会の姿そのものではありませんか。

 「ナイフ」という曲で「ただその笑い方だけ 気にさわっただけさ/だから目の前にナイフ ちらつかせただけさ/それなのに本気になるから」と描かれる、些細なことでキレてナイフを振り回しては教師や家族、通行人を殺傷する犯罪は、パンタがこの歌を書いたずっと後になって社会問題化しますよね。そんな曲が並んでいる。

 英語には”stand the test of time”という成句があります。「時を経て真価が証明される」。そんな意味です。

 小生はこの言葉を「1980X」に贈りたい。この作品は27年を経て「かつて音楽で社会の危機を警告する者がいた」ことを証明する名作なのですから。



1980X (紙ジャケット仕様)

1980X (紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: 中村治雄,鈴木慶一
  • 出版社/メーカー: インディーズ・メーカー
  • 発売日: 2004/06/23
  • メディア: CD



タグ:PANTA 1980X
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年金という「年寄り天国・若者地獄」 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]



「年金」問題って、本当にややこしい。複雑怪奇でわかりづらい。

 何しろバリエーションが多い。私のようなフリーランスのライターや、商店街の八百屋のおじさんのような「自営業者」には「国民年金」しかないけれど、サラリーマンはそれぞれの会社の「厚生年金」がプラスされる。学校の先生や公務員には「共済年金」がプラスされる。

 と、その人の職業によって受け取る年金の有り様が千差万別なものだから、議論が余計にややこしくなる。

 それに、年金といえば「おじいちゃん・おばあちゃんになった時に受け取るお金」と単純に思っているかもしれないが、障害を負ったときや、死んだ時にももらえる(本人には使い道がないけれど)。

 ここまで複雑になると、新聞やテレビで年金関連のニュースを見ても、それが自分に関係があるのかないのかさえ分からない。

 そこで、議論を思いきり単純化するために、ここでは「国民年金」=「日本国内に住所のある20歳以上60歳未満のすべての人が強制加入する年金」に話を絞る。

 そして、その中でも、老人になったときにもらう「老齢基礎年金」に話を限ることにする。

 これなら、20〜60歳の日本人であれば全員加入しているから、誰にでも関係のある問題になってくるはずだ。なので、以下「年金」といえば「国民年金の老齢基礎年金のこと」とご了解いただきたい。

 年金とは何か。一言でいってしまうと、お年寄りになって退職しても、政府が国民からお金を集めて、その失った所得を補うように分配してくれる制度、と考えてもらえればいい。いわゆる「社会福祉制度」である。

 さて、ここからが本題。この年金、支払った額ともらえる額の倍率が、生まれた年によってひどい格差を生じることが、確実になっているのだ。

 それも、早く生まれた世代の方がトクをして、後から生まれた世代ほど損をするという「年寄り天国・若者地獄」になることを、政府の統計が認めているのである。

 例えば、現在すでに年金をもらっている世代の場合はどうだろうか(年金は60歳から70歳の間で受け取り開始の年齢を選べる)。

1935年生まれ 保険料=230万円 給付額=1300万円(5.8倍)

1945年生まれ 保険料=390万円 給付額=1300万円(3.9倍)

「保険料」とは「年金のために支払った額の総計」であり、「給付額」とは「もらえる額の総計」と考えてもらえばいい(04年の厚生労働省の推計による。どちらも40年間満額で保険料を払ったと仮定。以下同じ)。払った額の4〜6倍弱が返ってくるなら、投資としてはそれほど悪い話ではない。

 ところが、これが現役の働き盛り世代になると、がらりと様相が変わる。

1965年生まれ 保険料=830万円 給付額=1,600万円 (1.9倍)

1975年生まれ 保険料=1,000万円 給付額=1,800万円 (1.8倍)

 なんと、いきなり2倍を切ってしまうのだ。

 これより若い世代だと、85年・95年・05年生まれは、保険料・給付額とも少しずつ上がっていくが、結局倍率はみんな1.7倍である。この推計ですら「甘い」という批判が出ている。実際にいくら支払われるのかは、それぞれの世代が「お年寄り」になってみないとわからない。

 なぜこんなことになったのか。簡単に言ってしまえば「少子高齢化が政府の予想以上のスピードで進んだため」である。

 つまり年金をもらうお年寄りが急激に増え、その年金の財源になる保険料を払う若い世代が急激に減ってしまったから、こういう激しいアンバランスが生じたのである。同じ社会福祉制度の下でかくも大きな不公平が生じるというのは、どう考えてもおかしい。

 リターンが2倍を切るのなら、ちょっと頭のいい人なら「自分で株にでも投資した方がいいや」と考えても不思議ではない。

 実際に、いま国民年金の実質納付率は49.0%(06年度、社会保険庁による)という危険水域まで低下している。これは「国に老後のお金を預けるなんてアホらしい」という、一種のボイコットなのではないかと私は考えている。
(止め/1602字)

タグ:年金
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2009-12-23 [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 いやね、イヤーな予感がしてたんです。六本木の駅を降りて「東京ミッドタウン」に足踏み入れた瞬間から。

 なんせもう、六本木ヒルズとタイマン張るみたいに屹立するピーカピカの再開発ビルざましょ。オッシャレーなカフェーやブティークにレストラーン、その間をよろばい歩く、ズタボロのライダーズジャケット&膝の破れたジーンズを着た、欠食顔のおっちゃん。それが小生。

 もう、どっからどう見ても場違い。勝ち組の城に迷い込んだ負け組プロレタリカット中年に、勝ち組ビジネスメン&ウイメンの視線が刺さる。あうう、痛いよう。

 ほなお前、何でそんなところにおんねん。

 よくぞ聞いてくだすった。

 アラン・トゥーサン見に来たんです。何?ありがとうさん?バッタがかあさん? まあフツー知りませんわなあ。

 トゥーサン氏は生まれも育ちも米国ニューオリンズのピアニスト、ブルースやジャズのみならず、隣接するカリブ海のラテン音楽やフランス植民地時代の音楽をも血肉と化した、その独特のピアノは高い評価を受け、60年代から数々の大物ミュージシャンとのセッションやプロデュースを何たらかんたら、来年70歳の生ける伝説でどうたらこうたら、ああ字数もったいない、要するにやね、そのテの音楽マニアにとってはやね、経絡秘孔を突かれるようなツボ直撃ミュージシャンなの!ひでぶあべし。

 その会場が「ビルボード・ライブ」という東京ミッドタウンの中のライブハウスなんだが、行ってみてわかった。こりゃライブハウスじゃなくて高級クラブだわ。

 立ち見やと翌日腰痛で寝込むし、席はちゃんと予約して、と中年の弱みを祈りに込めてインターネットでチケット買ったら、お代金1万1500円。

 いちまんいっせんごひゃくえん。た、たまらん。

 いや見ろ、これでも安い方だ。フランスの歌姫ジェーン・バーキン(本人はイギリス人だが)なぞ3万円だぞ、さささささんまんえん。がるる。

「ウガヤさま、お待ちしておりました」と席まで案内してくれる上品なフロア係の女性に「いやあ、どうもどうも」とヘコヘコ卑屈になっている自分が情けない。

 メニューを安いものから順番に探している自分が情けない。

 この赤ワイン1本11万円て何や。レミー・マルタン5万4000円て何やねん。いちいち周章狼狽している自分が情けない。

 フォカッチャって、コンビニじゃ350円だったんだけど、なんでここ1200円なの?

 おおお、隣席では勝ち組のミュージシャンかITベンチャー系のユルい服装のにーちゃんがギャルをはべらせスッポンスッポン白ワイン抜いているし。

 ここって中国?ロシア?これがあの、噂に聞いた「格差社会」ってやつ?

 むおお気を確かに持たねば。東京のコンサート代って、高すぎるぞ。

「ぴあ総研」によりますと、「ポピュラー/ロック」公演の「1人当たり単価」は5920円から6072円(2005年)に1年で値上がりしておる。

 ニューヨークに住んでたとき、マジソン・スクエア・ガーデンで「サイモン&ガーファンクル」の再結成コンサート見たけど、チケット代30ドルだったぞ。それでもニューヨーカーは「高すぎる」とブーブー言っておった。アラン・トゥーサンだって今のNYならまあ、高くて30ドルだね。

 いや、ウソじゃありません。NYでの3年間、ライブハウス・コンサートの類いには通い詰めたが「こんなに有名な人が、こんなに安くていいのか!?」と感涙することが何度あったことか。夏にはセントラル・パークでほとんど毎晩無料コンサートやってたし。

 あ、ジャパンのヤングが「夏フェス」好きなのは、結局あれが「一番お買い得だから」って説、ありますな。

 でも阿呆だね、音楽マニアって。アラン・トゥーサンのピアノと歌を1時間半堪能したら、もう感極まっちゃって、オシボリ振り回しながらブラボー叫んで、スタンディング・オベーションやっている自分。

 嗚呼耳に正月が来た。って、1万1500円のことなんかころっと忘れてるんだもん。

 んでまた騙される。


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家からCD棚が消えてなくなる日 [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

 2008年を占えって、週刊金曜日さん、んなご無体な。あたしゃ記者で易者とちゃいますがな。ほんなこと細木数子に聞いてくださいな。オワリ。

 いかん! これでは御原稿料がもらえん。ますますワーキング・プア化してしまうよう。お許しください将軍様じゃなかった編集長様。自己批判して労働します。

 もとい。それにしてもイケ好かないね、iPodってやつは。ホンマに。どもならんのかね。もう辛抱たまらんわ。

 だって、ものスゴク便利なんだもん。

 使い始めてしばらくして、CDをかけるのが面倒くさくなっている自分に気付いて愕然とした。親の愛に背を向け音楽で人生狂って30余年、こんな便利な再生機はかつてなかった。

 もう手放せない。中毒だ。依存症だ。どーすんだ。

 といいますのは、私事にて恐縮ですが、ずぼらの極みである拙宅は未整理のCD(3000枚を超えたあたりで数えるのを諦めた)が地層をなし渦を巻き、直下型地震来襲のおりにはCDにて圧死または脳挫傷死は必至、ぐわわ、こうなると生存権の問題と■十万円を張り込んでCD棚をずらずらと買い、ようやく安眠できるようになったのです。

 そこへiPod発売。これおもろそうやんけと何も考えずに60GBのでかいヤツを買ったんですな。

 そしたらもう、入るわ入るわ。いま約7000曲入れて、まだ60GBの半分しか使ってない。

 7000曲って、小生のバヤイ、だいたい3週間24時間不眠不休ぶっ通しで聞き続けてまだ終わらない曲数だよ。

 つまり、この手の中に入る小さな機械の中に6週間分の音楽が入るってことじゃん。

 あうう、そうすると、同じiPodを4台か5台買えば(ていうか、もっと容量のでかいiPodが出れば)あの壁一面のCDが全部入ってまうやないか!そういえば、最近CD棚からすっかり足が遠のいている。トホー。

 コラ、■十万円のCD棚どないしてくれんねん、スティーブ・ジョブス!

 いや私怨はさておき、iPodとiTuneってすごく楽しいんですよ。シャッフルかけると、ピストルズの轟音の後にショパンのノクターンが流れ、山崎まさよしの鼻声が続く。まさにジュークボックスですな。

 全世界のインターネットラジオも聞けるから、サンフランシスコのアングラテクノ局なんて愛聴してます。こりゃCDの売れ行きも落ちるし日本のFM局なんか聞かんわなあ。

 む。ちょっと待て。こうして音楽を運ぶかたちが「ディスク」から「データ」になってくると、重大な懸念がひとつ出てくるぞ。

 小生のマックのハードディスクがクラッシュしたら、iPodをトイレ(特にくみ取り式)に落としたら、7000曲のデータが全部パアってことじゃん。

 読者諸兄、こんな経験ありません? PCがクラッシュしてメーラーのアドレス帳が消えてしまい、誰にも連絡が取れなくなって仕事もできず、リストラ対象になった。ありますよね。これと同じことが音楽データにも起こりうる。

 賢い人は「ウエブメール」(ヤフーとかGoogleとか)を併用、アドレス帳をヤフーやGoogle側のサーバーに預けます。

 重要なデータベースは、メインテナンスのユルい個人PCじゃなく、管理のしっかりした会社のサーバーに預けちゃう。これ「パソコンちょっといい話」です。

 と、いうことは。はい、もうお分かりですね。■十万円張り込んでCD棚数台を狭い家に置く必要なんかなくなる。iPod数台もいらん。

 どこかの会社が、管理のしっかりしたサーバーを用意して、そこに音楽データの個人ライブラリーを預かってくれればよいのです。つまり音楽データのウエブメールアドレス帳化ですな。

 ブロードバンド回線さえあれば、音楽を聞きたいと思わば、その個人ライブラリーを呼び出し、送信してもらえばよろしい。おうちの中もすっきりさっぱり、お掃除もラクラク手間いらず。

 おお、なんていいアイディアだ。このビジネスモデル、実行する会社は小生にアイディア料払ってくださいね。CD棚代、回収せなアカンから。

 黙ってやったら訴訟起こすよ。わははは。坊主丸儲けだ。


タグ:CD iPod

ウオークマンはなぜiPodに負けたのか ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 かつて「携帯型音楽プレイヤー」の代名詞は「ウォークマン」だった。

 言うまでもなく、これは「ソニー」が1979年に発売した携帯プレイヤーの商品名だ。が、その後もメディアをカセットテープからCD、MDへと変えながら全世界に普及したため、メーカーがソニーでなくても「ウォークマン」といえば「携帯音楽プレイヤー」のこと、というふうに「固有名詞」ではなく「普通名詞」になってしまった。

 ところが、その30年近く続いた王座が、奪取されてしまった。

 そう、2007年のいま「携帯型音楽プレイヤー」といえば、真っ先に思い浮かぶのはアップル社の「iPod」だろう。市場シェアの数字を見てみよう。

 07年5月までの1年間、アップルが一貫して50%前後、つまり市場の半分を独占しているのに対して、ソニーはまだ30%に手が届かない。東芝、松下電器、シャープに至っては10%にも満たない有り様だ(BCN調べ)。

 断っておくが、デジタル・オーディオ・プレイヤーを初めて発売したのはアップルではない。先頭を切ったのは、韓国や米国の中小メーカー。1998年のことだった。

 ソニーも2000年に携帯電話に音楽再生機能を組み込み、すぐ後を追った。意外なことに、アップルがiPodを売り出したのは、このソニーよりさらに遅い2001年なのだ。

 技術的な話に深入りすると途方もなくややこしくなるので、こんな例えで説明しよう。

 軍事史でよく出てくるジンクスである。「一度戦争に勝った国は、その勝因にこだわりすぎて、次の戦争ではその勝因がゆえに負ける」。

 ソニーは、これまでに少なくとも2回、世界の人々のライフスタイルそのものまで変えてしまう、大変革を成し遂げている。

 一つ目は、先ほど述べた「ウォークマン」の発明である。今となっては嘘のような話だが、当時は「録音のできない再生専用テープ機なんて売れない」というのが家電業界の常識だったのだ。

 二つ目は、1982年にCDをフィリップス社(オランダ)と共同で開発し、アナログ盤を駆逐してしまったことだ。CDも「アナログ盤や再生機が普及しているのに、別規格の音楽メディアなど必要ない」という「業界の常識」を破壊してしまった。

 自社で開発した独自の技術と製品で、思い込みをひっくり返し、「世界標準規格」の王座に自らが就く。これがソニーが「戦争」に2連勝した「勝因」である。が、今度はどうやらそれが裏目に出たようだ。

 例えば、アップルが音楽データの記録に使った技術は、当時世界でもっとも普及していた記録技術「MP3」と互換性があった。が、ソニーが使った自社技術「ATRAC3」は互換性がない。つまりソニー系のウエブサイトからダウンロードした音楽は、ソニー製の再生機でないと鳴らせない。これは不便だ(2004年10月になってようやくMP3と互換性を持たせた)。

 私も店頭で聞き比べたことがあるが、確かにソニー規格の方が音はいい。技術的にもMP3より上質だ。が、ここでソニーは「戦勝国のジンクス」にはまった気がする。MP3より自社技術の方が優れているのだから、ウォークマンやCDのように逆転できると読んだのではないか。

 傘下に「ソニー・ミュージックエンタテインメント」(SME)というレコード会社を抱えていたことも逆作用した。必要以上に「著作権保護」と「自社アーティスト主義」に気を遣わざるをえなくなったのだ。

 例えば、レコード会社と関係のないアップル社の「iTune Music Store」(当時)は、当初からどのレコード会社のミュージシャンであろうと揃えていたし、そこからダウンロードした音楽をソフト「iTune」(しかも無料配布)でCDにコピーできた。

 ソニーは、この流儀に出遅れた。SMEのサイトには自社ミュージシャンしかなかった。しかもCDに焼けないから、ダウンロードしても、ソニーの再生機を買うしかない。

 しかし、宇多田ヒカルがどこのレコード会社で倖田來未はどこで、なんて消費者には関心のない話だ。調べるのも面倒くさい。しかも、もし所属がSMEでなければ、ソニーの再生機を買っても聞けないかもしれない。これは生産者の都合であって、消費者にとっては馬鹿げた不便でしかない。

 結局、技術や音質で多少見劣りしようと、「道具として便利な方」に消費者は流れたのである。

 以下、私見。ソニーのライバルは長らく同じ「家電業界」の松下や東芝だった。まさか「ヨソのムラ」から来たアップルに主導権を取られるなどとは思わなかった。案外、現実はそんなものかもしれない。

中村中ってすごくいい歌い手だなあ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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  二十余年前はパンクだデストロイだと若気の赴くまま大暴れしていた小生も、馬齢四十四のおっちゃんとなり、ロケンロー取材にもつらい場面が出て参ります。

 オール・スタンディング・ギグなど観賞しますれば、翌日は腰痛と足の筋肉痛で寝たきり状態。

 炎天下催される「夏フェス」に参加すれば、はしゃぎ回るヤングを横目に脱水状態でぐにゃぐにゃ。ついつい「後でスカパーで見よう」などと怠惰街道一直線となるわけです。

 が今年は行きました。夏フェスです。アジシオじゃなかった味の素スタジアムです。

 それも天下の「エイベックス」が催す「a-nation」です。オールスターです。浜崎あゆみ大明神です。花火ドンパチです。倖田來未観世音大菩薩です。カンカン照りです。ペンが汗でヌルヌルします。ぐわわ。

 あああ意識が混濁してきた。

 そんなおり、メインステージが機材入れ替えの幕間でした。横のサブステージに、黒いノースリーブのワンピースを着たきれいなお姉さんが出てきた。ピアノの前に座ると、涼やかなアルトで歌い始めた。栗色の髪が肩で揺れ、白い指が鍵盤の上を踊るさまが実に優雅です。

手を繋ぐくらいでいい
並んで歩くくらいでいい
それすら危ういから
大切な人は友達くらいでいい
笑われて
馬鹿にされて
それでも憎めないなんて
自分だけ責めるなんて
いつまでも
情けないね

(『友達の歌』)

 不意打ちでした。

 不覚でした。

 電光掲示板に流れる歌詞を読んだ瞬間、両目からぼたぼたと涙が落ちて止まらなくなった。

 何てすごい歌を書くんだ、この人は。

 こんな歌は、愛する人に拒絶され、裏切られ、傷つけられた「愛に絶望した経験がある人」にしか書けない。

 しかし、どう見てもこの人、20代前半だぞ。一体何者なんだ、この「中村中」ってのは?

 インターネットを検索して、やっと思い出した!去年の秋ごろ、性同一性障害(身体は男性で精神は女性)をカミングアウトして、新聞やテレビが大騒ぎしていた「なかむら・あたる」じゃないか!

 しかしこうして検索してみると、イヤラしいね、マスコミってのは。スポーツ新聞やテレビはもちろん、朝日新聞の「ひと」欄に至るまで、判で押したように「性同一性障害であることを公表した歌手・中村中さん」って扱いじゃないの。

 彼女はこれだけすごいミュージシャンなのに、その音楽的才能に言及する記述がほとんどない。

 そりゃヘンだ。おっちゃんに言わせればだね、彼女は「才能あるミュージシャンがたまたま性同一性障害だった」というにすぎんのだがね。

 こういう取り扱いを小生は「正の偏見」(ルビ:ポジティブ・バイアス)と呼んでおります。

「負の偏見」(ルビ:ネガティブ・バイアス)はもちろん、オカマだ、気持ち悪い、イジメちゃえみたいな「負の発想」を指します。

 逆に「正の偏見」は、マイノリティをマイノリティであるという理由だけでゲタをはかせ、甘く評価する。

 これ、一見間違ってないように見えるが騙されちゃいかん。

 何が「ノーマル」で何が「非ノーマル」か、評価者が勝手に決めてしまっていて、自分は「ノーマル」で「非ノーマル」を自分たちと同じとは見なさないという点では、「負の偏見」と同じ発想なのです。

 いや、善人ぶっているだけに余計にタチが悪いかもしれない。

 まあいいや。阿呆は放っとけ。

 ブルースの巨匠マディ・ウォーターズは「ブルースは、欲しいものが何でも手に入る人間にはできない音楽だ」と名言を残しています。

 小生は、中村中の音楽にブルースに通底するものを感じる。

 愛しても愛されない苦しみ、痛み、そして絶望。彼女はそんな「負の感情」を美しい音楽にできるからです。

 性同一性障害だなんて知らんでも、彼女の音楽は小生の魂を揺さぶりましたぜ。


あしたは晴れますように(DVD付)

あしたは晴れますように(DVD付)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: エイベックス・エンタテインメント
  • 発売日: 2009/02/25
  • メディア: CD



友達の詩

友達の詩

  • アーティスト: 中村 中,浦清英
  • 出版社/メーカー: エイベックス・トラックス
  • 発売日: 2006/09/06
  • メディア: CD



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小池百合子はけっこうタフでしたたかでプロフェッショナル政治家だぞ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 もしあなたが小池百合子・前防衛相(1952年生まれ)のことを「二世議員でもないのに努力して大臣まで登り詰めたアマチュア型政治家の星」だと思っているなら、考えを改めた方がいい。

 彼女の政治家としてのキャリアを見れば「人気上昇中の権力者をかぎ分け、その人物に取り入る能力」と「その人物が落ち目と見るや、臆面もなく別の権力者に乗り換える節操のなさ」は、天才的とさえいえる。

 私は彼女を貶しているのではない。そんな能力も、永田町の権力闘争をサバイバルし、さらに権力を求めてのし上がる「プロフェッショナル型政治家」には重要な資質なのだ。

 最近の例を挙げよう。9月12日正午すぎ、安倍晋三首相が「首相を辞める」と自民党幹部に伝え、政権が崩壊した日、小池は何をしていたのか。

 同じ日の夕方に発足した「小泉前総理の再登板を実現する有志の会」(05年9月の『郵政総選挙』で大量当選したいわゆる『小泉チルドレン』らの集まり)に賛同、署名簿にサインをしているのだ。

「自民党をぶっ壊す」と宣言、世論の人気を一身に集めていた小泉純一郎に接近し、03年9月、小泉内閣で初の大臣ポスト(環境大臣。『クールビズ』を提唱して成功させた)を射止め、郵政総選挙では「刺客」までやってのけた彼女にすれば、当然だろう。私はそう思った(結局、小泉は動かなかった)。

 ところが、9月17日の朝刊を開いて私は仰天した。16日の自民党総裁選の街頭演説の写真に、小池が「司会」としてちゃっかり写っているではないか。

 しかも、右側で候補の麻生太郎がマイクを手に熱弁を振るうのをまったく無視するかのように、左に立つ対抗馬・福田康夫の横に寄り添い、視線を重ね、揃って微笑んでいる。メイクは薄く、茶とベージュの服装も地味で、福田と並ぶとまるで上品な夫婦のようにさえ見える。

 そう、この時点ですでに、自民党派閥の大勢は福田支持に回っていたのである。このタイミングで、元ニュースキャスターの小池が、自分がどうカメラにとらえられるか、計算していないはずがない。

「ああ、彼女はまた『相手の男』を乗り換えたな」。私はそう思った。

 ここで小池の「権力者遍歴ぶり」を振り返ってみよう。

 92年7月 テレビ東京のキャスターから転身、元熊本県知事・細川護煕が結成した日本新党から参議院比例区で初当選

93年7月 衆議院・兵庫2区(出身地)にくら替え、当選

同8月 細川連立内閣で総務政務次官

94年6月 日本新党副代表

同12月 新進党副幹事長

98年1月 小沢一郎党首の自由党へ移る

2000年4月 自由党が分裂、保守党へ

02年12月 小泉総裁の自民党へ移る。環境大臣、沖縄・北方担当大臣

06年9月 安倍晋三内閣が発足。内閣総理大臣補佐官

07年7月 「(原爆投下は)しょうがない」発言の久間彰生大臣の辞任を受け、防衛大臣

同8月 安倍内閣改造を前に続投を拒否。

 お分かりだろうか。細川護煕→小沢一郎→小泉純一郎→安倍晋三と、小池はその時々の権力者と「付き合っては別れ」を繰り返しながら防衛大臣まで上り詰めたのである。

 しかし、この後が問題だ。彼女は自民党に移ってまだ5年。党内に権力基盤がない。

 自民党本流議員の権力基盤とは「政治家・官僚・利益集団」のいわゆる「鉄のトライアングル」がもたらす資金と情報、そして票である。そういう議員たちを「族議員」という。

 わかりやすい例は、就任後8日で農水相を辞任したスキンヘッドの遠藤武彦(バンソーコー大臣こと赤木徳彦の次)だろう。山形県という農業地域を票田に、農業共済組合という利益団体の組合長だった遠藤は、絵に描いたような「農水族議員」である。

 小泉政権は、この「族議員」が長年、政策決定の牙城にしていた自民党内の「部会」の意向をほとんど蹴飛ばし、「諮問会議」という首相直属の場で政策を決めた。そして閣僚や党幹部人事でも、派閥のバランスや年功序列をとことん無視した(『自民党をぶっ壊す』とはこのこと)。

 その結果が、女性や若手議員の抜擢人事という現象になって現れた。小池は、そんな小泉の人事手法にうってつけの人材だったのだ。

 その意味では、01年に小泉が外務大臣に選んだ田中真紀子と、小池はよく似ている。

 似ているといえば、官僚機構や族議員と衝突して大臣職を追われたという点でも、二人はよく似ている。田中は、北方領土返還政策や外務省改革などをめぐって、数少ない「外務族」鈴木宗男や外務官僚ともめ事を繰り広げ、更迭された。小池は防衛省の事務次官(大臣に次ぐナンバー2。官僚の最高ポスト)人事に介入しようとして官僚ともめたあげく、更迭される前に自分で辞めてしまった。小泉・安倍という「後ろ盾」を失った瞬間、押さえつけられていた「鉄のトライアングル」が逆襲したのである。

 田中真紀子には、父・角栄から受け継いだ強固な地盤が選挙区にあるので地位は安泰だろう。が、権力基盤のない小池が自民党で存在感を保つには、世論の人気に直接支えてもらうしかない。

 だから彼女はマスメディアによく出る。ワシントンでライス(コメ)国務長官にひっかけて「マダム・スシと呼んでください」とあまりさえないジョークを言ってみたり、環境省の大臣室に手作りのお総菜を並べたりと、小泉そっくりの「ワン・フレーズ」型「テレ・ポリティックス」(テレビ依存型政治手法)を続けていくしかない。

 いま自民党内には「ぶっ壊れた自民党を建て直す」(麻生太郎)という「小泉以前」への揺り戻しが起きている。きっと小池百合子は考えていることだろう。次の「相手」を誰にするのかを(敬称略)。


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行定勲監督、おかえりなさい! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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「週刊金曜日」をご購読されるような善男善女の皆様は、映画をご覧になるときどんな規準で作品を選ばれるのでしょう。

 やはりハンセンとかハンカクとかカンキョーホゴみたいな「テーマ買い」でしょうか。それとも案外ミーハーに「ヨンさま出てるから」みたいな「俳優買い」なのかもしれませんね。

 小生ですか?

 小生は変人ですので「監督買い」です。

「この監督の作品なら大丈夫」という規準で選びます。

 米国なら、史上最年少26歳でカンヌ映画祭パルム・ドールを取った天才、スティーブン・ソダーバーグ(オーシャンズ18だか19だかは嫌いですが)。

 時間軸がメチャクチャな不思議な作品を撮るクリストファー・ノーラン。

 天才と狂気の境界を疾走するデビッド・リンチ。

 スパイク・リーはここでも書きましたね。ベテランではマーチン・スコセッシ、いいなあ。

 英国では「トレインスポッティング」で有名になったダニー・ボイルが好き。

 フランスならリュック・ベッソンやパトリス・ル・コント作品は必ず見ます。

 日本人はおらんのか? おりますとも。

 犬童一心、岩井俊二、三木聡、中村哲也、三池崇史……まだ続けます? 

 中でも敬愛し、ほぼ全作品見ている監督は、一九六八年生まれの俊英・行定勲であります。

 ユキサダて誰やねん。はい、「セカチューの監督」と言えばイッパツでお分かりいただけるでしょう。

 いやいや、馬鹿にしてはいけません。「世界の中心で、愛をさけぶ」の原作小説は、映画にすると破滅的に退屈なストーリーなんですが、行定監督は原作にない「律子」(柴崎コウ)というキャラクターを付け加えて脚本を書き、映画を原作とはまったく違う、起伏ある物語に仕上げた。

 長澤まさみチャンの可憐さにもシビレましたが、行定監督の「ストーリーを自分で書く才能」には敬服したものです。

 そして行定作品はどれも照明が美しい。

 白熱灯のオレンジ色を生かして撮影した「ユキサダ・オレンジ」とでもいうべき色使いは、彼のシグネチャー(署名)になっています。そんな個性を持つ監督は日本には少ない。

 しかし!「北の零年」「春の雪」(〇五年)と、彼はトンデモ駄作を二本続けます。

「北の零年」は、明治維新直後の北海道開拓民の話ですが、吉永小百合の、横にシャ■プの液晶テレビが置いてありそうな絶望的に単調な演技(もしアレが演技と呼べるなら、ですが)が、見るも無残でした。

「春の雪」は三島由紀夫の「豊饒の海」が原作。

 その「人間嫌いの厭世家」の主人公に「爽やかな好青年」しか演じられない妻夫木聡を当てるという馬鹿げたミスキャストのせいでカネ返せ的失敗作に終わっています(竹内結子の超絶演技が唯一の救い)。

 ああ、行定監督は低予算で若者の群像劇(『きょうのできごと』とか『GO』とか、あのへん)を撮っていたころの方がよかったなあ。

 エラくなって大予算作品やるようになって彼もダメになったか。小生、落涙したものです。

 そんな行定監督が、新作「遠くの空に消えた」を公開しました。

 七年ぶりのオリジナル脚本、つまり自分でストーリーを書いた作品だそうです。

 行定さん、やっぱり、こっちの方が断然いいですよ。

 空港反対運動に騒然とする田園地帯を舞台にした、腕白少年たちと、どこか欠損を抱えた大人たちの群像劇。

 その複数のストーリーが、最後に奇跡のようにひとつになる。それもあの「ユキサダ・オレンジ」の「あるもの」によって。ファンタジックな物語ゆえ、アラは山ほどありますが、小生、なぜかは知らねど最後ウルウル来ました。

 もうすぐ次作「クローズド・ノート」も九月末から公開されるとか。

 今度も「大作」じゃなくて小品らしい。うれしいねえ。

 おかえりなさい、行定監督。

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松本人志 生涯汚点の失敗作 [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 関西人というものは、テレビはもちろん学校・家庭と、どこであろうと「笑い」の中で育ちます。

 日常会話でユーモアのない人間は「おもろないやっちゃなァ」と人間失格の烙印を押され、学友や親兄弟にイジメられます。

 そんな文化圏で育った小生ですので、コメディには偏執狂的愛着がある。ありがたや、昨今はDVDが普及したおかげで、世界各国のコメディを観賞できる。おかげで良質のコメディには共通した性質がいくつかあることに気付きました。

1)良質のコメディは違う文化や言語の人間も笑わせる=その意味で英国コメディは強い。「モンティ・パイソン」や「ミスター・ビーン」は誰が見ても笑える。強欲、無知、虚栄といった人類共通のアホンダラぶりを的確に描くからです。米国の「サタデー・ナイト・ライブ」などは彼の国独特の人種、ゴシップネタが多くて異国人にはわかりづらい。

(2)シモネタ、差別ネタ、暴力ネタといった「社会の良識」(タブー)に挑戦する。

(3)「権力もカネもない弱い人間」の視点にいる。権力者を笑い者にする。

 前置きが長くなりました。そんな小生、ダウンタウンの「ごっつええ感じ」(91年〜97年、フジ系列放送)を見たときは、毎回ションベンちびるんじゃないかというほど笑った。頭のおかしな料理講師がお料理番組をメチャメチャにしていく「キャシィ塚本」シリーズのほか「しょうた!」「MR.BATER」などのコントは「コント55号」や「ゲバゲバ90分」「8時だョ!全員集合」に肩を並べる歴史的名作だと確信いたしました。

 その企画や構成を一手に引き受けてきた松本人志が5年かけて構想、監督・主演もしたというのですから、映画「大日本人」が公開されたときは胸が高鳴った。ええ、映画館に走りましたとも。

 しかし何としたことでしょう。チットモ笑えないのです。

 自称・他称天才マツモトの映画なのにこんなにつまらないなんて、小生のユーモア感覚が異常をきたしたかと思いきや、満員の客席(箸が転んでもおかしい女子高生で一杯)が終始クスリとも笑わずシーンとしている。

 ほか、誰に聞いて回っても「おもしろくなかった」という。これはもう、結論づけざるをえますまい。

「『大日本人』は松本人志のコメディアンとしてのキャリアに汚点を残す失敗作」と。

 なぜなんだ。首をひねり続けていたある日、ダウンタウン番組常連のコメディアン・俳優板尾創路(この人も優秀)の著作「板尾日記2」(リトル・モア)にこんな記述があるのに気が付いた。

「松本さん中心のコント番組の打ち合わせを、恵比寿のウェスティンホテルで行った。しかも最上階の1泊18万円強のスイートルームだ」

 これ読んだ瞬間、小生、シラけた。一瞬であほらしくなった。1泊18万円のスイートルームで打ち合わせ?

 何やねん、それ。そんなん「お笑い貴族」やんけ!

 よく考えてみりゃ、松本氏、1993年から2004年まで「高額納税者」のベストテンに必ず入ってるんですな。

 最高納税額は2億6340万円(95年)。同じ年、政治家の最高額は河野洋平氏の6330万円だった。桑田佳祐でも1億5000万円、プロ野球の落合博満選手でも1億6674億円だった。

 はっきり言っちゃえば松本氏は河野も落合も桑田もぶっ飛ばしちゃう大金持ち。その人気がもたらす影響力でいえば、もはや「権力者」そのものといえるでしょう。

 権力者の特徴は、回りに「NO」を言う人間がいなくなることです。チームワークでつくるテレビ番組に比べて、監督の裁量が大きい映画では、それがより露骨に出たのでしょう。

 それに、そもそも権力者を撃つのが「貧者の武器=笑い」なんだから、権力者がつくったコメディなんぞおもろいわけがない。

 松本さん、めげずに次は笑える映画を作ってくださいネ。

「お前なんぞに言われとないわい、やわらかウンコ!」

 そうそう、その意気ですよ。


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日本は移民を受け入れて多文化社会に移行しないと衰退するしかないぞ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 東京で「CCS」という大学生のボランティア・サークルを見学に行ったことがある。

 仕事を求めて外国から日本に移住してきた移民、いわゆる「ニュー・カマー」を両親に持つ子どもたちは、学校へ行っても日本語がよくわからず、授業に付いていけないことが多い。また、塾や家庭教師に付く経済的な余裕のある家も少ない。そんな子供たちに、無料で勉強を教えてあげる。宿題の手伝いをする。そんなサークルだった。

 大久保にある区民センターの「教室」に一歩入って、私は仰天した。

 小学生や中学生、全部で30人か40人くらいの子どもたちがいただろうか。ワイワイと大変なにぎやかさに慣れてくるころ、気付いたのだ。中国系や韓国系など東アジア系の子どもが多かろうというのは予想していたが、よく見ると、ヨーロッパ系や中近東系の顔立ちの子どもが意外に多いのだ。アフリカ系の子どもも数人いた。

「中途半端になっちゃうんですよね」

 中国系のやんちゃな男の子に算数を教えていた男子学生が教えてくれた。

「家に帰っても、お母さんもお父さんも店(飲食店)の仕事が忙しくて、勉強や言葉の面倒を見てやる時間がない。だから、日本語も母国語も、どっちもいい加減なまま育っちゃうことが多いんです」

 「ニュー・カマー」とは、1980年代以降に来日してそのまま定住した外国人のことだ。第二次世界大戦前後に、日本にやって来た在日韓国・朝鮮人と区別するための言葉でもある。

 80年代以降来日する外国人が増えた背景には、83年、当時の中曽根内閣が「留学生受入れ10万人計画」を発表したことが大きい。これは西暦2000年までに日本で学ぶ留学生をフランス並みの10万人にしようという計画だった。その時にやってきた留学生たちがもう結婚し、家庭を持ち、その子どもたちが中学や高校で学ぼうという年齢に達しているのである。

 ニュー・カマーに限らず、在日外国人の社会的プレゼンスはもはや無視できる数ではない。法務省入国管理局が把握しているだけで、その数は約208万人。在日コリアンの約60万人を筆頭に、中国系が約56万人、ブラジル系が約31万人と続く。「不法滞在」も含めると、一体何人くらいになるのだろう? 200万といえば名古屋の人口とほぼ同じだ。

 いよいよ日本も本格的な「ハイフネイテッド・ジャパニーズ社会」に突入したのだ。私はそう思う。

 “Hyphenated”とはアメリカ生まれの言葉である。移民の国であるアメリカでは、その出身国によって”Irish-American”(アイルランド系アメリカ人)や”Japanese-American”(日系アメリカ人)、”African-American”(アフリカ系アメリカ人)というふうに、その出身民族・文化・地域をハイフン(-)で示す。

 それと同じように、「祖先のルーツは外国でも、日本人」という人々が、これからどんどん増えていくと思う。「君、どこ系?」「おれ?インド系」なんて会話が、普通にこの国で交わされる日も近いだろう。

 いや、そういう現実はもうすでに来ていると考えた方がいいのかもしれない。

 7月29日に行われた参議院選挙で民主党比例区の候補者だったツルネン・マルテイ氏(当選)は、宣教師として来日し、そのまま1979年に日本に帰化したフィンランド人である。いわば”Finnish-Japanese”=「フィンランド系日本人」だ。

 球団経営や携帯電話で有名な「ソフトバンク」社の孫正義氏もルーツはコリアだから、”Korean-Japanese”=「コリア系日本人」と呼ぶべきだろう。

 というより、もう日本には「ハイフネイテッド・ジャパニーズ社会」つまり移民を受け入れることを前提にした「オープン・ドア政策」しか選択肢がないのだ。日本人女性が産む子どもの平均数を示す「合計特殊出生率」は05年に1.25にまで落ちた。人口水準を維持するのに必要な出生率は2.07なので、05年から日本は人口の「自然減」が始まっている。つまり人口が減り始めているのである。

 このまま「出生率1.25」が続けば、2050年ごろ日本の人口は1億人を切り、2100年には現在の半分である6414万人になることが政府統計でわかっている。それどころか、西暦3200年には日本人は世界に1人になり、絶滅する。そこまで事態は切迫しているのだ。移民を受け入れていかないことには、日本人は本当に「絶滅」してしまうのだ。

 悪い話では決してない。移民たちが世界からもたらしてくれる多種多様な文化。それは日本を「多文化社会」に変貌させずにはいられないだろう。その姿を、私は今からけっこう楽しみにしている。


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地下鉄・副都心線ができて東京は変わる(はず) ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

ふくとしんせん.jpg いきなりで恐縮ですが、クイズです。東京の五大繁華街、すなわち「新宿」「渋谷」「池袋」「銀座」「日本橋」を、デパートの地域売り上げ高合計が高い順番に並べると、どうなるでしょう? 

 正解→ 1位は新宿の圧勝(6114億円)。2位、日本橋(5023億円)。3位が池袋で3468億円。渋谷は意外に低くて4位の2224億円。これまた意外なことに、名門・銀座はビリの2017億円である。

 中でも、新宿の消費地としての巨大さは圧倒的だ。新宿だけで京都市全域のデパートの売上高の2倍以上の金額があるといえば、その規模の大きさが分かるだろう(『日経ビジネス』07年5月21日号)。

 この新宿を中心に、来年6月に新しい地下鉄「副都心線」が開通する。この「副都心線」、何が恐ろしいかというと、先ほどのデパート売上高1位(新宿)、3位(池袋)、4位(渋谷)をぶち抜きで結んでしまうのだ。

 もちろん、それだけならJR山手線がすでにある。が、副都心線がすごいのは、開通と同時に、後背地の埼玉の住宅街を走る西武池袋線と東武東上線が乗り入れるうえ、2011年には渋谷駅で東急東横線とも直結してしまうことだ。

 これが完成すると、横浜と新宿、渋谷、池袋が直通で結ばれてしまう。この開通で、東京西部の1000万人の人口を抱える巨大な商圏が生まれることになるというから驚くほかない。

 この副都心線の新宿でのターミナル駅、実は「新宿駅」ではない。東京在住以外の方には分かりにくくて恐縮なのだが、スタジオアルタで知られる新宿駅東口から500メートルほど歩いたところにある「新宿三丁目駅」を、この副都心線は交差する。

 こともあろうに、この新宿三丁目駅の真上は、「伊勢丹」「三越」「高島屋」と、名だたる百貨店がひしめき合っているデパート激戦地なのだ。家電量販店も多い。もうすでに、各店とも「副都心線対策作戦」を必死で練り上げている。来年6月以降、「新宿三丁目」が新宿の新しい核になることは間違いあるまい。

 新宿駅をはさんだ反対側の西口にある「小田急」「京王」百貨店にとっては、商機から取り残されかねない困った事態である。

「消費のビッグ・シティ」として不動の地位を保つだろうと思われた新宿でさえ、たった一本の地下鉄の開通でがらりと様相が変わってしまうのだ。

 目を他に転じてみよう。ここ数年の東京の変貌ぶりはすさまじい。02年の「丸の内ビルディング」、03年の「六本木ヒルズ」「汐留シオサイト」に始まり、06年の「表参道ヒルズ」07年の「東京ミッドタウン」と、一体どこが不況なのだという勢いで都市が再開発され、ちょっと目を離すと、古い街や建物がピカピカの超高層ビルに変わっている。

 かく言う私が住む、木造長屋の多い下町・月島の隣、「豊州」というエリアも、だだっ広い造船工場が広がる、煤けてさびれた街だったのに、一年ほどの間に「ららぽーと豊州」という不夜城の如き巨大ショッピングセンターが出現。

 あっという間に、東急ハンズはあるわ紀伊国屋書店はあるわ巨大シネコンはあるわと、まるで新宿か渋谷がチャリンコで五分のところに引っ越してきたかのような大賑わいになった。それに合わせて三十数階建てのタワーマンションがニョコニョコとあちこちに立ち上がり、ホームセンターだアスレティックジムだとまあ、目の回りそうな開店ラッシュだ。以前の工場街の面影はあっという間に消え、おしゃれでこぎれいなベイエリアの新都心に変貌してしまった。

 このトーキョーのスピードに、私は軽い目まいを感じてしまう。

 私事で恐縮だけれど、私は京都市で生まれ育った。あそこもトーキョーとは逆の意味で特異な街である。小野小町が枕草子を書きながら歩いたのと同じ通りを歩き、平家滅亡後に建礼門院が眺めて暮らしたのと同じ山並みを眺めることができる。

 京都の人々は「変わらないこと」を誇りにしていた。
 東京の人々は「変わること」に喜びを感じているかのようだ。

 まあ、どちらが良い悪いの話ではない。私はそんな無定形な都市・Tokyoも好きだ。

 まるで若くて浮気な女のように、颯爽と衣服を着替えメイクを変える姿を眺めているのは、ほほ笑ましくて、悪くない。

 ここはそういう街なのだ。楽しんでしまった方がいい。

 まあ、変身のスピードが早すぎるんで、ちょっとスロウダウンしてくれるとありがたいのだが。

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ハルバースタムが死んだ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 あああああああ悲しい。

 いつもふざけ切った駄文ばかり書きなぐっている小生にも、コレハ居住マヒヲ正サネバと思う時があります。

 自分の職業人生にとって終生倣うべき大切なことを教えてくれた、導師のような人物が物故された。そんなときです。

 小生にとってその「師」とは、アメリカ人ジャーナリストのデビッド・ハルバースタムであります。彼は四月二十三日に自動車事故に巻き込まれ、七十三歳で突然天国へ行ってしまった。

 彼の「ベスト&ブライテスト」という名作をご存知でしょうか。アメリカで最も家柄も頭がよい秀才たちが集まったケネディ政権が、どうしてベトナム戦争という世紀の愚行になだれ込んでいったのか。

 その一部始終を克明に再現したノンフィクションであり、かつて一読した小生は同業者のはしくれとして「どうやったらこんな話が取材できるんだ」と悶絶したものであります。

 そのハルバースタムにインタビューできる!

 そんなすごい仕事を命じられたのは、忘れもしない、九五年四月のことでした。

 当時、小生は三十二歳のガキんちょ雑誌記者。相手は世界的ジャーナリスト。どないすんねんとコーフン状態で前夜、徹夜のリサーチで気が付いた。

 何と、インタビューの当日が彼の誕生日じゃないですか。

 一計を案じた小生、翌日彼の泊まるホテルに行く前に銀座の文具店に寄って、浮世絵バースデイカードを買った。「次の傑作を楽しみにしています」と書き添えて。

 彼の部屋のドアをノックしたら、身長百九十センチのバカでかい白人のおっさんがぬぼーと出てきた。

 ハーバード時代にボート部で鍛えた、モリモリに分厚い胸板をスーツに包んでいる。

 はっきり言って気圧されました。

「まあ、入れや」

 そうは言うんだけど、この人、何とかしてよと言いたいくらい無愛想で無口、にこりともしないだなあ。

 もう、どうにでもなれ!ヤケクソで「ミスター・ハルバースタム、ハッピー・バースデイ!」とカードを渡したら、彼の表情が一変、ニカーと笑った。

「調べてきたな (You knew it) 」

 嗚呼、やはり同じ職業を共にする者同士、彼はぼくが必死で下調べをしてきたことを理解してくれたのです。

 そこからは、六十一歳の先輩記者との、くつろいだ会話になりました。そこで彼は教えてくれたのです。

「ジャーナリストは人気者でなくていい。真実を述べさえすればいい。例えそれが人々の聞きたくないことでもね」と。

「ベトナム介入は間違いであり、アメリカは必ず負ける」。一九六三年という早い段階でそう言った彼は、世間の激しいバッシングを受けたそうです。

「政治家は当選しなくちゃいけないからね。人気者でないといけないんだよ。でもジャーナリストにそんな必要はないね」。

 彼は断言しました。そしていろんなことを教えてくれた。

「真実を教えてくれる友人が十人いたら、百万人に嫌われても俺は平気だね」
「社会の主流の言うことはまず疑え。そして反駁しろ」。

 あのとき、小生の中で後戻りのできない変化が起きました。

「読者のみなさんと共に」とか言って読者や視聴者に媚びへつらうマスコミや、人気取りのために耳当たりの良い事ばかり言ってる自称ジャーナリストなんて、スットコドッコイのトンチキチン、要するにパチもん、ジャーナリズムごっこやんけ。ははははは。

 「おい、真実を書いてるか?嫌われることをためらうなよ」。

 今でも、記事を書くたびに導師の声が聞こえます。

 天上の師よ、小生はちゃんと読者に嫌われていますか?

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ニューヨークはもう最先端音楽の街じゃない ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

070611燃え尽きるニューヨーク
 大学院に2年通い、記者としても長く取材フィールドになったニューヨークは、ぼくの第二の故郷だ。だから一年に一度は「帰省」しないと気持ちが悪い。

 30歳のころ、自分の感性の非常に重要な部分があの街でつくられたので、ときどき帰って「ネジ」を締め直さないと、度数が合わなくなったメガネをかけ続けているようで気持ちが悪いのだ。

「帰省」だから、航空券の一番安い2月ごろがいい。あちらはマイナス20度の厳冬だ。でもそこがいい。観光客がいないから。よそ行き顔のニューヨークは、ない。ニューヨーカーたちのすっぴんの「生活」だけがそこにある。

  大学院時代の仲間やジャーナリストの友だちに会って、メシを食っておしゃべりをする。美術館(MoMAかホイットニーがいい)へ行ってぼんやり絵を眺める。そして夜。安いピザを腹に押し込んで、ライブハウスに出かける。

 なにしろ「世界の音楽の都」である。毎晩なにがしかのビッグ・ネームがコンサートをやっている。「スィート・ベイジル」や「ブルー・ノート」なんて名門クラブにくり出す手もある。けど、そんなことはもう飽きた。

 本当におもしろいのは、誰が出ているのか、何の前知識も持たず、小さなライブハウスにふらりと入ることだ。「CBGB」や「ニッティング・ファクトリー」は、有名になりすぎてつまらない。平日の「トニック」とか「バワリー・ボールルーム」なんかがいい。

 で、今年の2月もそんなふうにライブハウスをハシゴして、愕然とした。出てくるバンド出てくるバンド、ことごとくつまらないのである。マンハッタンに通って10年以上になるけど、こんなことは初めてだ。

 ステージをじっと見ていて、はっと気が付いた。どのバンドも、アップルのラップトップPCをステージに持ち込んでいるのだ。マックでリズムトラックやサウンドエフェクトを鳴らし、それをバックにギターを弾いたり叫んだり。音は大仰だけど、芸がない。個性がないのだ。

 よく考えれば当たり前だ。PCに入っている音なんて、しょせんはどこかで買った既製品程度の音でしかない。どれもこれも似たような音ばかり。退屈で死にそうだ。PCの音なら、世界のどこで聞いても同じだろ? 何でこんなことになったんだ?

 さて、話は変わって。証券会社でアナリストをやっている大学院仲間のクリス(女性)が、中古マンションを買った。

 イーストビレッジに2ベッドルーム(3LDKくらい)というから、70万か80万ドルの高級物件だ。こんな買い物ができるクリスは、マンハッタンでもれっきとした「勝ち組」だ。

 90年代後半の好景気で、マンハッタンの不動産価格はほとんど倍近くに高騰した。ステューディオ(ワンルームマンション)の家賃が2〜3000ドルなんて、今じゃざらだ。貧しいアーティストたちはもうマンハッタンには住めない。

 マンハッタンのマンションには「コーポラティブ」という不動産形態がある。これだと、建物全体が入居者組合の財産になる。マンションは入居者全員の財産なので、誰を入居させるかは住民組合に決定権がある。物件を購入しても、入居の審査にパスするのに数ヶ月かかることもざらだ。

 クリスは、マンションの組合が入居をなかなか許可しないと嘆いた。1億円の預金残高証明書を提出したのに、財産が1億円程度では「入居にふさわしいお金持ち」には該当しないというのだ。

 一体何の冗談なの? ぼくは聞いた。
 この街を見てよ。クリスは言った。

 ぼくがいた90年代に低所得者が住んでいたレンガ造りの古いアパートは、片端から取り壊され、ピカピカのマンションになっていた。家族経営の喫茶店やパン屋は、大資本のチェーン店ができ、消えていった。マンハッタンはいつの間にか、証券会社や銀行員、弁護士といった「勝ち組」ばかりが住む、こぎれいなだけの薄っぺらな街になっていった。

 世界一の金持ちと世界一の貧乏人がすれ違う。そんな多様性が十数年前のマンハッタンにはあった。それがこの街のダイナミズムだった。そんな摩擦から、スリリングンなアートが生まれた。そんな、衝突音のような音楽が好きだった。

 やれやれ。ぼくが愛したニューヨークは、もう死んでしまったのかもしれない。

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老齢団塊 五つの赤い風船コンサートに突入せよ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 小生いやしくもジャーナリストのはしくれ、危険があろうが薄気味悪かろうが、そこにニュースあらば現場を踏む覚悟は常にできております。

 しかし、ぐわわ、「五つの赤い風船 結成40周年記念コンサート」の告知を新聞で見たときはさすがにビビった。

 なんでメンバーが4人やのに5つの風船やねん、とか72年に解散したのになんで40周年やねんとか、細かいツッコミはこの際、なし!

「遠い世界に〜 旅に出ようか〜」って歌、中学の合唱コンクールとかで歌ったこと、ありません?

 あの文部省推薦の名曲「遠い世界に」をはじめ、70年前後に数々の名曲を生み、日本のフォーク・ムーブメントの走りにして中心だった大物、それが「五つの赤い風船」なんです。

(いや、おっちゃんも子どもやったしあまり知らんねんで)。

 恐る恐る会場に行ってみて、またビビった。そこはなんと靖国神社そば、東京・九段会館。

 くわあ、ここ「日本遺族会」の本部やんか。

「戦争を知らない子どもたち」が声を合わせて歌っている隣の部屋で、「予科練乙×期・空の会」「トラック・パラオ諸島慰霊友好親善団思い出の会」なんてやってる。

「死して護国の鬼」となられた英霊のご遺族と、血気盛んなゲバルト団塊の世代が乱闘、なんてなったらどーすんだ。

 いやしかし、蓋を開けてみれば杞憂でありました。ゲバルト団塊も、すっかり枯れておられた。

 なにせリーダーの西岡たかしはコンサート当日の5月27日が63歳の誕生日!

 ゲストもすごいぞ。「走れコウタロー」こと山本コウタロー・元参議院議員候補にして白鴎大学教授が59歳。

「戦争を知らない子供たち」こと杉田二郎は61歳。「帰ってきたヨッパライ」「あの素晴らしい愛をもう一度」を大ヒットさせた、元ザ・フォーク・クルセダーズの北山修・九州大学大学院医学研究院教授にして日本精神分析学会会長(60)。元「かぐや姫」の山田パンダなんか62歳だ! どうだ、参ったか。昔なら赤いチャンチャコ着て長寿を祝う齢だぞ。

 最近はアメリカ文学の翻訳家になっちゃったけど高校生で「受験生ブルース」を大ヒットさせた中川五郎(58)とか、テレビの相撲中継の途中で力士のマワシが落ちたという名曲「悲惨な戦い」を書いたなぎら健壱(55)なんて若い若い。

 ウヒヒ、今出た名前が全部わかった読者よ、貴兄も相当なオールドタイマーですな。

 とまあ、昔はサングラスや口ひげでキメていたみなさんも、今じゃ古本屋のオヤジか老バーテンダーみたいな風貌となり、話し方も何かフガフガしている。

 山本コウタローが「こないだ道で『ムツゴロウさんですか』と言われました」と痛い自分ネタをカマせば、北山教授は「今度会う時はみんな死んでるかもね〜」とお医者さんらしいブラックジョークで応酬。

「いや〜無理矢理脈々と生きとります」

「え〜メンバーが胆石になりまして」。

 おい、MCがだんだん定年退職者の同窓会に似てきたぞ。

 でもやっぱりギター持って歌うと

「力を合わせて/生きる事さえ/今では/みんな忘れてしまった/だけどボク達/若者がいる」

 と、地滑り的にタイムスリップしちゃうんだな。

 嗚呼、永遠の青春に生きる団塊フォークの諸先輩方。おつかれさまです。

 みなさんにはジャズやブルースのように「自然に加齢する」ことは許されんのですね。60過ぎても「明日の世界」を探しに行かにゃならんのですねえ。

 もう「明日」は来てますよ。今ここに。


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ツバル・温暖化で真っ先に沈む国 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

読者のみなさんが使っているメールアドレスの末尾はだいたい「.jp」だろう。言うまでもなく「日本」の意味だ。イギリスなら「.uk」だし、フランスなら「.fr」だ。こういうメールアドレスやウエブサイトのURLの国を示す記号を「国別コードトップレベルドメイン」という。

 「国別コード」が世界各国に割り振られたとき、「.tv」つまり「テレビ」と同じつづりになる国があった。こりゃあきっと世界中のテレビ局が競って使用料を払い、大金持ちになるぞ、ラッキーな国だなあと誰も羨ましがった。しかし、そのほとんど誰もが、それが何という国で、どこにあるのか、知らなかった。

 その国の名は「ツバル」(Tuvalu)という。オーストラリアの北東約2500キロの太平洋に浮かぶ、サンゴ環礁の国だ。無名なのも、無理はない。なにせ島が9つ、国の面積を全部併せても26平方キロ(つまり5キロ四方)しかないというミニ国家なのだ。この島々に、約9700人の人々が暮らしている。

 最貧国にランクされている。少しばかりの漁業のほか、産業はないに等しい。耕作可能な土地はほとんどないし、飲料水にさえこと欠く。わずかながら、ココナッツやバナナが自給のために作られている。2000年に「.tv」のドメイン使用権をアメリカの会社に五千万ドルで売却、やっと国連に加盟できたという有り様だ。が、そんなことはどうでもよくなるような美しい国でもある。エメラルドブルーの海と白いサンゴの浜に抱かれ、人々はおだやかに、平和に暮らしてきた。

 が、とんでもない問題が持ち上がった。地球の温暖化に伴う海面の上昇で、島全体が海面下に沈没、国が消滅してしまうかもしれなくなってきたのである。

 なにせ最高でも海抜3メートルという国である。潮位が高くなる2〜3月がいちばんひどい。潮が満ちてくると、低地の地面からは泡が噴き出し、みるみる水たまりが広がって深さ30センチほどの「池」になってしまう。井戸水は塩辛くなる。サンゴの破片と砂でできた島はもろく、波で削られていく。「次に消える島」と言われるバサファ島は、テニスコート2面もない砂にヤシの木と茂みがへばりつき、点のような島の周りを波が洗っている(07年4月7日付朝日新聞)。

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 なぜ地球が温暖化すると海面が上昇するのか、説明しておこう。自動車や工場などが化石燃料(ガソリン、石炭など)を燃やす→で二酸化炭素が出て、地球の大気を覆う→温室のように熱がこもる→大気温が上昇する→北極・南極の氷や氷河が溶ける→海水が増える→海面が上昇する。こんな仕組みだ。

 このまま行くと、どれくらい温度は上昇し、海面は上がるのだろうか。国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が今年2月にまとめた報告書は、恐るべき数字をはじき出している。

 今世紀末に地表の平均気温は1.8度から4度上昇する。そうすると、21世紀末の海面は、20世紀末に比べて18〜59センチ上昇する。そう言うのだ。「平均」でこれだけの数字が出るのだから、海流や潮の満ち引きによってはもっと大きな差が出るだろう。そのときツバルはどうなっているのだろう。

 いや、ツバルに限らない。最近日本人の旅行先として大人気のリゾート国、モルディブ。この国だって、ツバルよりは観光産業で潤っているが、海抜でいえば最高2.4メートルと大差ない。今世紀が終わるころには、約1200の島々のうちかなりの数がインド洋の波の下に消えているだろう。

 今のペースで温暖化が進めば、2080年には気温は2〜3度上昇、沿岸湿地の約30%が失われる。広範囲でサンゴ礁が死滅。毎年数百万人が沿岸洪水に遭う可能性が増える。海水温が上昇するから、漁業も被害を受ける。農業は低緯度地域ほど影響が大きい。被害はまず貧しい地域から広がるだろう。「報告書」は不吉な予言に満ちている。

 つまり、工業の恩恵なんてほとんど何も受けていないツバルやそのほかの国々が、どこか遠く離れた「先進国」の自動車や工場がまき散らすCO2のせいで沈んだり、洪水や干ばつで破壊されていくのだ。もちろん日本も、その「先進国」のひとつだ。

 ところで、あなたは、自動車を運転しますか?ついタクシーに乗ってしまったりしますか?





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ボネガットさん、映画「ドレスデン」見てから逝かれました? [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

070423カート・ボネガットと映画「ドレスデン」

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 1945年2月13日から3日間で2万5000から4万人の市民が命を落とし、「ヒロシマ・ナガサキに次ぐ連合軍による非戦闘員の大量殺戮」と呼ばれたドイツ・ドレスデンの無差別爆撃(わたしゃ東京空襲の方がひどいと思うけど、『残酷比べ』しても無意味なので深入りはやめときます)をドイツ人自身が映画にしたというので、こら見に行かなあかん、と四月二十一日の公開を心待ちにしておりましたら、わわ一体何としたことでしょう、アメリカ人作家のカート・ボネガットが十一日に八十四歳で死んでしまいました。

 ううむユング先生、シンクロニシティ(必然性のある偶然)ってホントにあるんですね。

 何のこっちゃわからん? すんません。

 ボネガットは、ドレスデン空襲の生き残りなんです。

 一九四四年十二月、米陸軍の歩兵だった彼は、ドイツ軍が連合軍をメタメタにやっつけた最後の戦闘として有名な「バルジの戦い」で捕虜になり、ドレスデンに送られます。ドレスデンは十六世紀以来の古都、パリにも似た優美な街で、まだ空襲にも無傷でした。

 が、彼らの住まいは屠畜場のブタ小屋。しかし運命というのはわからんもんで、大空襲の夜、ボネガット青年は地下の冷蔵倉庫に飛び込み、皮を剥がれぶら下げられたウシに囲まれ(文字通り)皮肉にも自分の友軍が繰り広げる猛爆撃から命拾いします。

 戦後母国に戻った彼は新聞記者をやったりセールスマンをやったりのあと、一九五〇年作家としてデビュー。

 そして六九年に発表したのが、ドレスデン空襲をヒントにした代表作「スローターハウス5」(彼が生き延びた屠畜場の名前)でした。折しも世はベトナム反戦運動華やかなりしころ、この小説は反戦平和小説として拍手を持って迎えられます。

 んでまあ、小生も読んでみたことがあるんですが、これはそんなおめでたい小説なんかじゃない! 

 時間の流れの束縛から解放された主人公ビリー・ピルグリム(巡礼者の意味)が、何と自分の人生を未来から過去へ行ったり来たり。

 大富豪の娘とシヤワセに結婚したかと思うと、なぜか突然UFOが現れ拉致誘拐、トラルファマドール星人の動物園に収容されすったもんだ、そして最後にドレスデンで無差別爆撃が炸裂。

 おい、一体何やねん、これは。

 あぐぐ、ヒョーロンカ風にいえばですね、自由奔放な空想力の圧倒的な爆発。

 まあここだけの話、もうムチャムチャ、支離滅裂の一歩手前ですな。ははは。

 小生も最初、一読したときは「これはアッチ側へ行てもうた人の書いた話やな」と思いましたよ、正直言って。

 だが。よくよく読むと、あちこちに人間の残虐さ、偽善への諷刺や憎悪がちりばめられている。

 支離滅裂なのは、それをユーモア、ギャグで表現しているからなのです。

 そのせいか、ボネガットのファンは「爆笑問題」の太田光や、不条理まんがの天才・榎本俊二など、ねじれたユーモリストが多い。

 映画「ドレスデン、運命の日」で我々は、ボネガットが目にしたであろう大量破壊・大量殺戮を追体験できます。焼け焦げた石くれの砂丘になった街。かつては生きた人間だった炭人形の山。涙。絶望。

 これを見て小生、はっと思い当たった。”Slaughter”には「屠畜」のほかに「大虐殺」という意味があることを。

”Slaughter House”=「虐殺の家」。これ、地球のことちゃうんか。彼が描いたあほな人間どもは、今も破壊と殺戮を一向にやめないではありませんか。

 ボネガットさん、この映画、見てから逝かれました?


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  • 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1978/12
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