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3.11 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


最初に結論を言ってしまおう。

2011年3月11日午後2時46分を境に、この国は新しい時代に突入した。

後世の歴史家は、日本の歴史を「3.11以前」と「3.11以降」に分けて記述するだろう。

「何もかもが、これまでとは違う」。

そんな時代が来た。

いま私たちはそんな歴史的な大事件を目撃している。

「大地震」「大津波」「原子力発電所事故」と、ひとつだけでも「国難」級のクライシスが三つ束になって襲ってきたのだ。

これ以上深刻な危機は「戦争」しかない。

いや、戦争は人間が相手なので交渉可能だが、地震や放射能はそれもできない。もっと厄介かもしれない。

少しだけ立ち止まって、この最大級のクライシスから学べる教訓を考えてみた。

たくさんあった。

そのひとつは、私たちの政府、官僚、政治家、マスコミといった、この国の「ベスト&ブライテスト」たちの振る舞いだ。

最大級のクライシスに対処する中で彼らが見せる実績こそが、この国のトップたちの「ベスト記録」であることを覚えておいてほしい。

どんなにがんばったって、彼らには「これ以上の力」は出ない。

いま私たちが見ている政府や官僚、マスコミ報道の姿が彼らの全力の実力なのだ。「次はもっとがんばります」と言い訳しても「次」はもうない。

そんな「最終実力テスト」で見えた問題はあまりに多い。

市民を混乱させるだけだった政府の秘密主義。
「想定外」といいながら「原発の全電源喪失も水素爆発も想定していなかった」と「無想定」だった東京電力。
そんな政府や電力会社を問う意志や能力に欠けた報道の無能ぶり。

被災地で唯一の情報源だったかと思えばデマが嵐のように吹き荒れ、信じていいのかどうかもわからないカオスだったインターネット情報。

ここで指摘しておきたいのは、政府が露骨な「new speak」政策を堂々と展開したことだ。

「ニュースピーク」とは ジョージ・オーウェルが小説「1984」の中で使った言葉だ。「政府にとって都合の悪い事実を、耳当たりのよい言葉を造語してすり替える」行為を指す。

アメリカ政府や軍はこうしたニュースピークの常連である。「collateral damage」(付随的被害)とは「軍の攻撃に非戦闘員の市民が巻き込まれて殺傷されること」。

「friendly fire」(友好的攻撃)は「間違って味方を爆撃してしまうこと」だ。

そういえば、旧日本軍が「撤退」「敗退」を「転進」と言い換えたのもニュースピークの古典例だ。

3.11クライシス以降、日本政府が「ニュースピーク」をあまりに堂々とやり続けるのには愕然とする。

例えば、もう流行語というかジョークにまでなっている「計画停電」という言葉。

これは地震と津波、原発暴走という東京電力にとって制御できない事態によって多数の発電所(火力含む)がダウンし、発電量が電力需要に追いつかなくなった事態を指す。

つまり「制御不能」が実態なのだ。

ところが東京電力と政府は「停電区域を計画的に回す」という最後の一部だけをピックアップして「計画停電」と強引な造語を流布してしまった。

これは「首都圏停電」という最悪の事態を招きながら、それでもなお「秩序は保たれている」「制御下にある」と事実をごまかす「プロパガンダ」以外の何物でもない。

また福島第一原発の建屋が水素爆発で粉々に吹き飛ぶ映像がさんざん流れたあと、枝野幸男官房長官が使った「爆発的事象」という言葉も悪質だ。

あの映像はどう見ても「爆発」だった。当時は、同原発が「炉心」→「圧力容器」→「格納容器」→「建屋」と三重の防御があることすらほとんど報道されていなかった(吹き飛んだのは一番外側の『建屋』だけ)。

「原子炉そのものが爆発したのではないか」「チェルノブイリ原発事故のような放射性物質が大気中にまき散らされるのではないか」というパニック寸前の恐怖が充満していたさなかである。

そこにあえて「爆発」ではなく「爆発的事象」という薄めた言い方をすれば、不安は倍増する。

「なぜそんな聞いたことのない言葉を使うのか」
「事態を軽く見せたいのではないか」
「何かもっと悪いことを隠しているのではないか」
「現実はもっと悪いのではないか」
という疑心暗鬼が飛び交った。パニックが起きなかったのは奇跡だ。

こうした政府や東京電力のニュースピークに「なぜ?」と問いかけることをしなかった報道も罪が深い。

結局ニュースピークを拡散させることに力を貸しただけだった。

3.11における政府、官僚、マスコミ企業の行動も、後々じっくり追求しなくてはならない。

謙遜文化の衰退 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

以前にこの欄で「インターネット出会いで結婚する人が増えている」という話を書いたら、けっこうあっちこっちで反響を呼んだらしい。

しかも妙齢の女性の間で。

「えっ!そんなにいいものがあるの!」ということだそうです。

はい、そうらしいですよ。

しかも、交際から結婚に至るまでの時間が短いとか。

それはインターネットが「内面の個性を可視化する」という機能を持っているからではないか、という話を書いた。

インターネットがなかったころ、交際相手の好みの音楽、映画、趣味、価値観など「内面の価値観=個性」を知るには、時間がかかった。

古い世代だと、相手の内面を知るのに一生をかけていた。

その「相手を知るプロセス」こそが「交際」であり時には「結婚生活」だった。

それがブログやミクシィ、ツイッターなどで一気に可視化された。それが私の推論だ。

「内面の個性の可視化」といっても、難しい話ではない。ちょっとミクシィでも開けてみてほしい。

参加しているコミュニティが「ハーレーダビッドソン」なのか「くだらないことで頭がいっぱい」なのか「ペ・ドゥナを讃える」なのか「カーミット」なのかで、その人の「好み」「趣味」「嗜好」「価値観」がわかる。それが公開されている。

コミュニティでもブログでも同じなのだが、ネット上で可視化された「内面の価値」は、全部フラットに等価である。

写真、文章、ビデオ、イラスト、デザインなど、あらゆるビジュアル要素が動員されるので「地味」だったはずの趣味嗜好でも、非常に魅力的に提示されるのだ。

例えば、私が20歳代前半だった25年前、「お城」「新撰組」「百人一首」など「歴史もの」の愛好家といえば、地味な人たちだった。「鉄道」「オーディオ」などのマニアもそうだった。

異性に人気のある趣味嗜好といえば「スポーツ」とか「クルマ」とか「かっこいいことがそのまま見てわかるもの」=「アナログに可視化されていたもの」だったのだ。

それが今では、かつての「地味な内面」も「派手な内面」も、ネットの上ではフラットにイコールである。

昨年、坂本龍馬を福山雅治が演じたNHKドラマの大ブームは、こうしたネットで「可視化・イコール化された歴史マニア」の成果だったように思える。

さらにネットには「コミュニティ」を形成する機能がある。

つまり「同好の仲間」を見つけることができるのだ。

スポーツやクルマといった旧来型の可視的嗜好には、部活動とか暴走族とか伝統的なコミュニティがあったが、地味な趣味嗜好は仲間を見つけることがまず難しかった。

地味な趣味は目立たず、仲間も少なくひっそりと営まれていたのだ。

それが一気に転換、地味な趣味でも仲間は集まる。

数まで明示されるから「少数派」なのかそうでないのかも数値化されてしまう。

「バスケットボール部のキャプテン」と「天守閣マニア」と、どちらが存在感があるのかといえば、昔のように「バスケ」と即断はできない。

ちょっと視点を変える。

こうしたインターネットの持つ「可視化」の機能が、日本の伝統的な価値観とは真逆の方向性を持っていることにお気づきだろうか。

例えば「謙遜」は日本の伝統的な精神文化として長く価値を保ってきた。その核心は「自分の力をひけらかさない」=「内面の価値は他者によって発見されるべきもので、自ら外部に露出させるのはみっともない」という発想だ。

この定義からわかるように、この価値観は元々「自己表現」とは正反対のベクトルを持っている。

ましてインターネットがもたらした「内面を可視化して掲示する文化」は、こうした「秘めてこそ花」の謙譲/謙遜の文化からすれば、まったく異質以外の何ものでもない。

かくして、これまで「ひっそりと目立たなかった集団」が、インターネットのブログやSNSでその存在をそれぞれに主張し、まさに百花繚乱の有様である。

これは悪いことでは決してない。

これまで「日陰者」だった価値集団もが、ネット上ではフラットにイコールな集団として存在感を放つからだ。

例えば、性的少数者。ネット上では動画、写真、イラストなどをふんだんに用いてその内面の個性(性的指向、性同一性障害など)を美しく掲示している。

こうした「非差別者が日陰から飛び出す現象」も「謙遜の衰退」も、実は「インターネットというメディアが起こした社会文化の変革」という点では同じものなのだ。

女子会はなぜ流行る ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


女性だけの「女子会」って飲み会とか温泉旅行とかプライベートな集まりだけの話かと思ったら、実は異業種交流会だとかけっこうプロフェッショナルな場にも広がっているのだそうだ。

まあ、ポジティブに考えることもできる。

様々な「異業種」に「女性キャリア職」がいるから「交流」できるのだ。

キャリア女性の層が厚くなり、円熟してきたということだ。いや「キャリア女性」など当たり前すぎて、言葉そのものが死語かもしれない。

とはいえ、そこまで楽観的にもなれない。

職業の世界に「性差」を軸にしたグループができるという現象は、まだ「性別」を「差」として意識せざるをえない現実があることを意味する。

男性の職業団体は成立しない。

なぜなら、日本では女性はまだ「差別される側の集団」だ。少なくとも女性たちはそう認識している。そうではないのか。

思い出してほしいのだが、女性はついこの間まで(あるいは現在でも)日本社会最多数の被差別グループだった。

能力が同じでも、女性であるというだけで、雇用はおろか、昇進や昇級まで男性より劣った待遇をされ、それが社会的にも法律的にも許されてきた。

それが「違法」になったのは男女雇用機会均等法が施行された一九八六年のことにすぎない。

私はその年に大学を卒業したので、個人的経験としてはっきり記憶している。

それまでちょっと上の世代では「オンナに(高等)教育はいらない」「大学や会社に行くより花嫁修業」などなど、タリバーンの支配国のような「常識」が堂々と通用していたのである。

こうした「被差別者」としての社会的地位はアメリカの「マイノリティ(少数派)グループ」(女性のほかアフリカ系、アジア系など非白人、同性愛者など)に似ている。

アメリカに行くと「東アジア系法律家」「ゲイの経営者」といったマイノリティグループごとの職業団体があり、ネットでリアルでネットワーク作りと情報交換に励んでいる。

差別問題が持ち上がれば政治圧力をかけたり寄付金を集めたりもする。

つまり経済や政治権力を握っている「主流派」(アメリカなら白人男性。日本なら成人男子)に対抗するためには「差別される側」は団結するのが資本主義国の現象なのだ。

日本でも、女性が職業人として早くから活躍した分野では「プロフェッショナル女子会」が昔からあった。

弁護士、裁判官、検事など女性法曹職が集まる「日本女性法律家協会」が設立されたのは一九五〇年のことだ。法曹家は試験にさえ合格すれば、男女の差別がない「資格職」の古典的な例である(他には公務員、教師、記者・編集者がある)。

その雇用機会均等法施行の1986年に大学を出て就職したのが、まさに私の学年。「均等法一期生」である。

私は48歳だから、企業なら課長や部長くらいだろうか。

つまり今も50歳弱から上の世代は均等法を知らない世代なのだ。

中間管理職以下は「ポスト均等法世代」なのに、社長や取締役などデシジョンメーカーは「プレ均等法世代」。「女性を働き手としてどう迎えるか」という感覚では、旧世代と新世代が混在しているのが日本の企業の姿なのである。

こうした環境では、キャリア女性は成功したとしても、ある疑念に悩まされ続けることになる。

どんなにがんばっても「自分から女性という要素を取り除くと、どれくらい働き手としての実力があるのだろう?」と評価が定まらないのだ。

「企業が女性差別をしていないと見せたいから、私は昇進したのか?」
「女性管理職が必要だから私は昇進したのか?」
など「オンナだから××できたのだろうか」というノイズが自己評価に絶えず混入するのだ。

これは悩ましい。

女性であることを取り除いて勝負することは不可能だからだ。

つまり、その簡単な解決法が「同じ性別だけの集団に入ってみる」つまり「女だけの職業グループ」に参加してみることなのではないか。

「女性同士だと評価が情け容赦ない」とよく言われるのは、案外そんな理由なのかもしれない。

ポスト均等法世代が定年を迎えるのは12年後だ。

ということはあと10年余りで企業の中はポスト均等法世代だけになり、社長や役員も新世代だけで固められるかもしれない。

その時には「女子異業種交流会」などする必要もないほど、性差別がなくなっているといいのだけれど。

ネット結婚、世界的に増殖! ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

二月にアメリカに取材に行ったとき、 インタビューした60歳の女性社会学者が「最近、カレシができたの」とうれしそうに話すので「へえ、どこで出会ったんですか」と聞いた。

すると躊躇なく「インターネットよ!」と笑顔で答えた。

「日本じゃ、まだ『ネットで出会った』とは言えないみたいですよ」
「まだ社会的に恥ずかしいことなの?」
「アメリカは違うんですか?」
「今じゃ、もうスタンダードね!」

最近、私の周囲ではネット、特にソーシャルネットワークサービス(SNS)で知り合った相手と結婚する人が増えている。

私のフェイスブック友達アメリカ人女性アイラは、やはりフェイスブックで出会ったイギリス人のスティーブと結婚、オクラホマからイギリスのバーミンガムに引っ越してしまった。

どこで知り合ったんだと聞いたら「フェイスブックで」という。

メッセージを交換するうちに、音楽や映画、ジョークのセンスが合うので仲良くなり、電話(もちろんスカイプ)で大西洋をはさんで話し合うようになった。

そして彼女がイギリスに旅して対面した時にはもう、恋に落ちていた。

古城で赤のウエディングドレスを着て、ヒュー・グラントみたいなスティーブの隣で微笑むアイラのウエディングフォトもフェイスブックで見た。

「できすぎ」な話だが、二人は仲良く暮らしている。

アメリカ人だけではない。私の友達のライター日本人男性は、ミクシィのコミュニティで出会った女性と結婚して、この間子どもが生まれた。

アメリカ発の「まじめな」出会いサイト「match.com」(その名も『出会いドットコム』だ)で知り合った日本人同士が三ヶ月でつきあい始め、一年後に結婚してしまった例も知っている。

そのうちにネット結婚もごく当たり前になり「新郎新婦はヤフーで巡り会われました」と結婚式でアナウンスされる日本人夫婦も増えるだろう。

ネットで出会って結婚したカップルを見ていると、みんな出会ってから結婚するまでの日がものすごく短い。

一体どうしたことかと思って聞いてみると、だいたい話が一致している。

フェイスブックでは大好きなアニメやコメディ、写真をYouTubeからのリンクで見せ合うことができるし、好きな音楽を鳴らして教え合うこともできる。

ミクシィなら「エルモ」のファンコミュニティで知り合った、「くだらないことで頭がいっぱい」というギャグコミュで等等。

要するに最初から「共通の趣味/感性/価値観」というのがウエブ上に掲示されているのだ。

私はこういうウエブサイトが可能にした自己表現を「内面の個性の可視化」と呼んでいる。リアルの世界での外見からはわからない内的属性が、ブログやSNSではわかりやすく見えるようになっているのだ。

昔ならこういう「個性が可視化されている」のは運動部系やバンド系だった(だから、そういう人はだいたいモテた)のだが、

歴史マニア女性=「歴女」だとか
「鉄道マニア」=「鉄ちゃん」だとか、

昔は「地味」でモテなかった個性までが市民権を獲得してしまった。

これは「歴史マニア」や「鉄道マニア」がブログなどで自分の個性を美しく可視化できるようになったことが大きな原因だと思う。

もともと「social network」は「友達づくり」という意味だ。

日本語では”society”は「社会」と翻訳されるが、英語では「社交」「人付き合い」「仲間」に近い。

現実のパーティーやサークル活動から恋に落ちる男女が生まれるように、SNSが「出会いサイト」になっても、ごく当然かつ自然である。

そのSNSに「個性の可視化」という特性が加わった。

デジカメやビデオカメラ、そしてその受け皿である写真ブログやYouTubeが世界規模で普及し「個性の可視化」が急速に大衆化したせいである。

昔なら、つきあい始めた相手が「どんな内面の持ち主か」を知るには時間がかかった。

相手の部屋に遊びに行き、昔のアルバムを見たり、一緒に音楽を聴いたり、カラオケを歌いに行ったりという「内面の個性」を知るプロセスこそが「恋愛」「交際」「デート」だった。

今の高齢者世代の見合い結婚夫婦などは、相手の内面を知るのに「一生」をかけていた。
結婚生活そのものが「内面の個性を知る」プロセスだったのである。

しかし、ネットで出会ったカップルはまったく逆のプロセスをたどる。

まずは内面の個性を先に知り、それからリアルの交際を始めるのである。

だから、リアルに出会った瞬間には「昔からあなたのことを知っていたような気がする」という感覚を味わう。

おおネット結婚万歳! いやいや、まだわからない。

そういうカップルが一緒になってまだ日が浅いので、何年か経つとどうなるのか、まだサンプルがないのだ。

インターネットの不自由元年 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


今年2010年は日本のインターネットにとって暗い年になりそうだ。

インターネット上での発言に刑法の「名誉毀損罪」が適用され、逮捕・起訴される人が続いたからである。

つまり、ネットに書いた内容が原因で留置所(あるいは拘置所)にぶち込まれ、家を捜索され、法廷に立たされる時代が来たのだ。

一人はブログを書いた65歳男性、

もう一人は2ちゃんねるに書いた大学生だ。

私は二つの事件を取材して裁判も傍聴している。

「これで逮捕されるなら、もっと逮捕者は拡大するだろう」と思った。

ブログで逮捕されるなんて、何だか戦前の思想統制時代のような話だ。

65歳男性の方は、勤めていたマンション会社の経営批判をブログで書き続けていたら、その会社が警察に被害届を出し、逮捕された。

「給料のピンハネ」とか「偽装請負」とか多少言葉遣いは乱暴だし、イラストその他デザインは悪趣味だ。

確かにそれはそうだが、それが逮捕しなければいけないような「犯罪」なのだろうか。

しかも、その人が批判している内容というのが、その企業が労働基準監督署から是正勧告を受けた話や、新聞が報道した話だ。「根も葉もない話」ではない。

もう一人の23歳の男性大学生は「2ちゃんねる」に参議院選挙の候補者(とその家族)の悪口を書いて逮捕された。

しかし、その悪口というのが「売春婦」とか「鬼畜」とか「変態」とか、下品すぎて逆に「子供のイタズラ」か「落書き」程度だとすぐにわかる。

書かれた本人は不愉快だろうが、ばかばかしすぎて第三者は真剣には取らない。

裁判を取材に行ったら「被告」は野球少年みたいな丸刈り・眼鏡に紺ブレザー、白スニーカーの「男の子」で、どんなにおかしな悪人かと思ったら拍子抜けもいいところだった。

裁判官や検察官を前に「まさか逮捕されるとは思っていませんでした」と縮み上がっていた。

これまで刑法の名誉毀損罪で逮捕されるというと「浮気をした愛人の裸の写真をビラにして自宅の周辺に撒いた」とか「私人同士のトラブル」が多かった。。だが、上場企業や国会議員候補者は自ら名前が知られる活動をしている「公の存在」だ。

批判や検証、あるいは「落書きのネタ」にされるのは避けられない。逮捕・起訴するにしても根拠が薄弱すぎるのだ。

どうして今年になって、ネット発言で逮捕などという危険な領域に警察や検察は踏み込むようになったのか。

そう考えて思い当たったのが、今年3月に確定した最高裁判決だ。

「あるラーメンチェーン店の経営陣がコリアンや同和系に差別的なカルト団体とつながりがある」。あるブロガーが調べてそう書いた。

書いてあることはほぼ事実なのだが、ラーメン会社は民事と刑事両方でブロガーを訴えた。

一審無罪、二審有罪と攻防が続いたあと、最高裁で罰金30万円の有罪判決が確定。

ブログの発信による誉毀損罪有罪が最高裁で確定したのは初めてだ。

地裁・高裁の判決は最高裁判例の拘束を受ける。

つまり「刑法の名誉毀損で逮捕・起訴しても、有罪に追い込める」というお墨付きを警察や検察に与えてしまった。

上記のマンション会社事件が摘発されたのが二ヶ月後の5月。

2ちゃんねる事件の摘発が同じ7月だ。

これは偶然ではないだろう。

匿名なら、誹謗中傷や脅迫を書いたりいじめや「炎上」を起こしてもバレないという誤解がネットユーザーにはある。

が、ネット専門家の弁護士に聞いてみると「いまネット上の匿名は事実上存在しないのと同じ」という答えが返って来た。

02年に施行された通称「プロバイダ責任制限法」で、ブログのコメントやBBSに書き込まれた匿名発言者の身元を調べることができるようになったからだ。

プロバイダが拒否して裁判になったときの判例も蓄積ができて、今では、身元を隠すための特殊な技術的偽装をしない限り、発信者の住所氏名は遅かれ早かれわかるようになっている。

インターネットがらみの事件が急増しているため、警察や裁判所は事件を抑止したがっている。被告の扱いは厳しい。告訴・告発されると、まず助からない。

そもそも、逮捕・勾留・家宅捜索など強制捜査を発動できる「名誉毀損罪」が今でも必要なのか。

問い直した方がいい。

刑法の名誉毀損罪は、戦前の旧刑法から「堕胎罪」(刑法の上では今でも妊娠中絶は犯罪)などと同じように横滑りしてきた条文だ。

コピー機すらなかった時代にできた法律なのだ。

現在のようなマスメディア、特にインターネットなどまったく想定していない。

そんな法律が放置され、ネットユーザーはその恐ろしさを知らないままになっている。あまりに危険だ。

音楽はタダになる ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

8月22日にレコードストア「HMV」渋谷店が閉店したのはニュースでご存知かと思う。

私もテレビ局のインタビューを受けたので「個人的には寂しいですね」などと社交辞令を言っておいた。

が、正直言うと、リアルの店舗ではもう何年もCDを買っていない。

ほしいCDは家のパソコンからアマゾンで買うし、

買うほどでもないものはYouTubeで無料で聞く。

同店で「渋谷系」が生まれた90年代前半の「青春の思い出」を別とすれば、閉店しても特に不便はない。

「リアルの店舗でCDを買う」という習慣が死滅していく原因は、間違いなくインターネットのせいだ。

しかし、それはレコード業界が言い張るような「違法ダウンロード」のせいではないし「ファイル交換ソフト」のせいでもない。

簡単にまとめてみよう。

(1)「CD不況」ではあるが「音楽不況」ではない。

CDは売れなくなったが、音楽業界に入るお金はまったく変わらないどころかむしろ増えている。着メロ、iTuneなどインターネットによって音楽業界に流れるお金は増えている。JASRACの統計を見れば一目瞭然だ。

(2)いま音楽を無料で消費者に届けている最大のメディアは「違法ダウンロード」や「ファイル交換ソフト」ではない。YouTubeである。

いまYouTubeを検索すれば、ビートルズやエルビスのテレビ画像から由紀さおり、AKB48に至るまで、私のような音楽マニアでも「出てこない画像」はないと感じるくらい豊富なコンテンツが流れ出す。
その種類の多さ、検索の精密さ、家にいながら未知の音楽に触れることができる便利さ。CDストアどころか、どんなラジオやテレビも太刀打ちできない。
「世界中よってたかってつくる巨大なリクエスト式音楽図書館」が家にあるようなものだ。
ここまで来ると「音楽のオリジナルを所有し、消費者にそのコピーを売って料金を取る」という現在の音楽ビジネスはもう終焉に近づいていると考えるのが自然だ。
早い話「音楽は間もなくタダで聞くのがコンセンサスになる」というのが私の正直な予測だ。

こういうと音楽業界の人たちはカンカンに怒るのだが「技術革新の結果、それまでは生活必需品だったものがある日突然無価値になる」という現象は、技術史的には珍しいことではない。

自動車が発明されたときの馬、電気と電球が発明されたときのランプやロウソクなどを思い起こしてほしい。

かつて電気や電球が普及するまで、家庭に「灯り」を点していたのはランプやロウソクだった。家庭の近くにはランプ・ロウソク店、ランプ燃料店があって「灯り」は家庭の近くで買うものだった。

しかし「電気」という新しい技術が普及した結果、電気は「どこか遠くの発電所でまとめて発電して送られてくるもの」になり「どこの発電所でつくられたのか」など誰も気にしない。

つまり「照明」というエネルギーの供給源は「それぞれの家庭近くに散らばっている」(ランプ油店)から「どこか遠くの一カ所に集中している」(発電所)に状態を変えたわけだ。

かつて世界にいくつくらいのランプ油店があったのかわからないが、それが「電力会社」に取って替わられ「照明エネルギー販売会社」の数が劇的に減ったことは間違いない。

この産業構造の転換を音楽に当てはめてみればいい。

音楽は「どこか遠くの」「数の少ない」「発電所のような集中型の貯蔵所から」「インターネットという送電線を経由して」消費者に送られてくるものになる。ランプ油への需要そのものがなくなるので「ランプ油店」(レコード店)も消滅するし「ランプ油生産者」(レコード会社)も廃業である。

音楽は、どこかアメリカかヨーロッパにある巨大なサーバーコンピューターに貯蔵され、こちらから注文すると送信されてくる。少数の「電力会社」が「電気料金」で収益を上げる。そんなビジネスモデルになるだろう。

こうして見ると、音楽のインターネット流通は限りなく「ネット放送局」に近づくのにお気づきだろうか。

数千~数万枚というレコードライブラリー(今まではラジオ局や家庭にあった)は、発電所のように世界に何カ所かあればよい。一般家庭は、送電線で電気を受け取るように、インターネットで音楽を聞く。

このビジネスモデルに近い動きをしている代表がYouTubeだ。インターネットという電気に匹敵する技術革新に鈍感な日本企業は、悲しいほど出遅れている。

ネット監視社会 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

待望のiPadが発売になった当日、東京・銀座のアップルストアに飛んで行った。

だが甘かった。まったく完全に売り切れ。

予約してもいつ入荷するか分からないという。

紺のシャツの店員に食い下がる。

「きょう予約したら、いつごろ入荷しますか」。

が、お兄さんはまったく取りつくシマもない。

「確かなことはいえません」
「1週間くらいですか」
「言えません」
「1ヶ月くらいですか」
「それもわかりません」。

これでは何が何だかわからない。「いえ、正確な日付でなくていいから、どれくらい待つのか、週単位なのか月単位なのか知りたいだけなんですが」と言うと、彼はふうとため息をついて「何もわかりません」と突き放した。

イライラしてふと振り向くと、後ろの壁際にiPadを受け取りに来た客が並んで待っている。手にiPhoneを握り、一心不乱に入力している画面がちらりと見えた。

Twitterだった。みんなiPad発売初日の様子を実況中継しているのだ。

なるほど。アップルストアの店員が東京地検みたいに秘密主義的な理由が分かった。

何か不用意なことを言うと、すぐにtwitterで(場合によっては写真や動画付きで)流れてしまうのだ。

それが本社の発表の公式見解と食い違えば、彼はたちまち呼び出されて叱責されるのだろう。

「銀座のアップルストアでは××だと言っていた」とクレームが入ったりするかもしれない。

これは要するに群衆の中にテレビの取材クルーが常時覆面取材しているようなものだ。

私たちは知らないうちに、携帯端末機(それも高解像度の写真・ビデオカメラ付き!)とインターネットという速報マスメディアで武装した「マスコミ記者」たちに包囲されてしまったのだ。

特にブログやtwitterが普及してから、この傾向は加速しているように感じる。

もちろん、いいこともある。

いや、いいことの方が多い。

1999年「東芝」のカスタマーサポート担当者の暴言がネットで公開されて大問題になってから、あきらかに企業の顧客への態度はよくなった。

〇八年には、渋谷の街頭で、何も違法行為をしていない麻生太郎邸の見学者を警察が突然逮捕する一部始終が録画され、YouTubeで配信された。

秘密のベールに包まれてきた公安警察のムチャクチャな捜査手法が天下に知られてしまった。

いつ、どこにマスメディア発信者がいるかわからない、という状況では、警察(=権力はすべて)も慎重にならざるをえない。

白バイや職務質問のオマワリさんがずいぶん礼儀正しくなったように思えるのは気のせいではないだろう。

しかし、と敢えて言う。

これは裏返せば「監視社会」ではないのか。

私たちはいつの間にか、いつどこで自分の姿が記録され、大多数に公開されるか予測ができない世界に生きている。

そうなる可能性を念頭に置いて行動せざるをえない。

この世界を「自由なバラ色の世界」と呼べるのだろうか。

「マスメディアへの発信」という「権力」を手にした人々がどういう行動に出るのか。

接客態度だかお勘定だかが気に入らないとか言って、客が店員の顔を携帯カメラで撮影し、YouTubeにアップした画像をいくつも目撃したことがある。

「権力」は弱い者に牙をむくのだ。

もうひとつ暗いシナリオがある。

いま猛烈な勢いで増えているのはブログなどネットでの情報発信への民事提訴、刑事告発である。悪徳商法を告発するブログを運営していたら、民事訴訟を起こされたブロガーがいる。

「あるラーメンチェーン店の経営者と人種差別的なカルトはほぼ重なっている」とブログに書いた「平和神軍観察会」ブログは、刑事と民事両方で訴えられ、今年二月に最高裁で罰金15万円の有罪判決が確定した。

新聞も一斉に「中傷書き込み、有罪」とネット発信者を非難する論陣を張った。

新聞や裁判官といった保守層は、ネットの言論には敵対的であり、冷酷である。

「裁判沙汰」になったら、こんな世界が待っている(私はこうした発信は憲法が保障する言論の自由の範囲内だと考えている)。

そのリスクを理解したうえでネット発信している人はまだ少数だろう。

だが、いま私たちが「加害者」として裁判に巻き込まれる可能性がもっとも高い世界は交通事故とネット発信だ。

私は、いまインターネットが日本の社会に起こしている変革を心から喜んでいる一人だ。

だが、原子力エネルギーが核兵器を生み、ロケット技術がミサイルを生んだように、あらゆる技術革新には正負両方の顔がある。

インターネットも、例外ではない。その単純な事実を忘れてはならない。

現実の行動規範がネット化する ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

この夏新発売のケータイのカタログを見ていたらauは全機種が防水だった。

若い世代はお風呂に入っていてもずっとケータイでネットしているからだそうだ。

学校やサークルの友達でも、リアルに対面で話している時のコミュニケーション量より、メールやチャット、SNSで交流しているときのコミュニケーション量の方が多い。

もう驚きもしない話だ。

私は10年以上、マスコミ志望の大学生に作文や面接のコーチングをしている。

大人数ではやりたくないので、紹介で知った3、4人に自宅まで来てもらい、居間で文章の添削をしたりする。

「作文」をはさんで、間近に若者と話し合って気付いたのは、彼らがどんどん「感情表出」に抑圧的になってきていることだ。

「何にでも挑戦していきたい」「私は明るく前向きだと言われます」的な、無難な「決意表明」はスラスラ書くのだが、それでは個性も独創性もないから、入社試験では生き残れない。

そこで「自分の一生を変えた体験を書いてごらん」と課題を出すと、例外なく戸惑う。

ずっとクールな表情で「サークル活動で学んだこと」を書いていたギャルが「中学生のときに先輩に仲間はずれにされて死のうと思った」と書いた。

読んでもらったら、眼前でオイオイ泣き始めた。

そういう体験こそ個性だと私は思ったが、本人は「感情的になってすみません」と恐縮し切っている。

いろいろ聞くうちに気がついた。

家族や友人といった対人関係の中で「感情表出」をほとんど許されてこなかったのだ。

悲しいからワンワン泣く。
悔しいから、腹が立つから怒る。
楽しいからアハハと笑う。

感情表出は人間の自然な行動だ。

感情の抑圧が心身の健康を害しさえする事実は、臨床心理学が証明している。

古来、日本の社会文化はそんな感情表出を「人情」として社会的に受け入れていた。

「義理」(理性的な社会規範)と対等の行動原理として「感情」を認めてきたのである。

他者と怒りや悲しみ、悔しさを共有することは、それだけで他者を「特別な存在」として認知する行為でもある。

もともと日本の教育文化(学校、家庭、社会すべて含め)は感情に抑圧的(勉強中に笑うと不真面目と見なされるのはその例)なので、安直にその原因が何だとは言えない。

その前提で敢えて言うのだが、若い世代の対人関係の構築の中でインターネットの比重が増えるに従って、ますますこの傾向は加速していると思う。

当たり前のことだが、メールやブログ、SNS上のやりとりで感情を正確に伝えることは非常に難しい(だから顔文字や絵文字が発明された)。

よってネットでのコミュニケーションで感情を表現することはリスクが大きい。

正確に理解され、伝達されることは不可能に近い。

誤解と悪意、ミュニケーション不全が重なって爆発した最悪の結果がブログの「炎上」であり、ネットいじめ、バッシングである。

こういう現象を見ている若い世代が、ネットでの感情表出に抑制的にならない方が不思議だ。

ここで問題なのは、こうしたネット上での行動規範が、リアルな大人関係にもそのまま無意識に持ち込まれることだ。

冒頭で述べたように、リアルな友達であっても、交換される情報量の大半がネット経由だと、その人間関係はネット上での規範をそのまま反映することが多い。

分かりやすくいえば「リアルの世界で対面していても、怒り、悲しみ、悔しさ、喜びなど感情を表出し、共有することを知らず知らずのうちに遠慮してしまう」という現象だ。

これは「現実の行動でもインターネット空間の規範に従ってしまう」=つまり「現実世界のインターネット化」だ。

過去にこの欄で「テレビアバター」の話を書いたとき、現実の行動がテレビという仮想現実の行動規範を模倣し始める「現実のメディア空間化」が起きているということを指摘した。

これにインターネットというもうひとつのマスメディアを加えてみるといい。

現実は「テレビ空間化」し「インターネット空間化」している。

つまりダブルで「メディア空間化」している。メディアと現実の関係はますますねじれ、逆転しつつあるのだ。

テレビアバターの膨張 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

ジェームズ・キャメロン監督の映画が大ヒットしたおかげで「アバター」という言葉が広まって話がラクになった。

これまではインターネットのヘビィユーザーぐらいしかこの言葉を知らなかったから。

チャットやオンラインゲームで自分の「代理」としてネット空間で行動するキャラクターのことである。

実はこのAvatarという言葉、元々はサンスクリット語だ。

「アヴァターラ」と発音する。

日本語にすれば「化身」「権現」。ヒンドゥー教の救済神ビシュヌが天からこの世に降り下り、姿を変えた魚やイノシシ、亀などのことを指す。

教典によって十か二十五のアヴァターラがリストアップされている。実は非常に宗教的な言葉なのだ。

つまり「アバター」という言葉には元々「抽象的で形のない崇高な存在が具体的な姿を取って別世界で代理として動く」というニュンスがある。

キリスト教のイエスも「人間の姿で神の言葉を代行する」という意味ではアバターだ。

日本には古来「動植物、自然物が霊性を宿す」というアニミズム信仰(=原始神道)があるので、アバターという言葉を知らなくても「神様のお使い」「神様の化身」といった言葉でアバターの概念を理解している。

「お稲荷さん」信仰のキツネは分かりやすい例だ。

だから、現代の日本人が日々の生活の中で知らず知らずのうちにアバター的な存在を設定していたとしても、それは不自然なことではない。

現にメディア空間ではアバターたちが活躍している。

例えばテレビのワイドショーやバラエティ番組を見てほしい。

「コメンテーター」という、何をするのが職業なのかよくわからない人たちがぞろぞろ登場する。

なぜよくわからないのかというと、コメンテーターという職業はテレビというメディア空間にしか存在せず、現実世界にはいないからだ。

その役割は文字通り番組中で「コメントする」(言葉を述べる)ことが仕事なのだが、その発言が「誰も思いつかなかった斬新な発想や情報」だとは誰も期待しない。

むしろ「誰もが思いつく範囲内」つまり「社会の最大多数が合意可能な」内容が視聴者に好まれる。

つまりコメンテーターは「自分が考えていることを自分に替わってはメディア空間で発言してくれるアバター」だと視聴者は無意識に了解しているのではないか。

そう思ってバラエティ番組をよく見てみると、司会者の後ろのひな壇に、老若男女ちりばめた「ゲスト」たちが時には十人以上並んでいる。

なぜこんなにも多数のゲストが必要なのかと言うと、彼らは視聴者の全年齢・全性別グループを代表するアバターだからだ。

ボケた発言を繰り返して知性が低いかのように振る舞うギャルタレントも、頑迷固陋な保守的意見を振りかざすオッサンタレントも、視聴者のアバターなのだから、視聴者の価値観(発言だけでなく容姿やファッションも含む)を代行する限り、非難されない。

もちろん「視聴者を教え導く権威」をマスメディアに求める視聴者(保守層やリテラシーの高い層が多い)は「視聴者とフラットリー・イコールなアバター」たちにいら立ちを感じる。

しかし、全部の年齢層・知識・性別を代表するアバターが揃わないと、対応した広い層の視聴者を集めることができないのだ。

こうしたテレビアバターたちが別のメディア空間に送り込まれることも多い。

文字通りテレビ番組で視聴者の代理として意見を述べることで視聴者に知られるようになった橋下徹弁護士が、大阪府知事として「政治」という我々の日常空間とは違うある種の仮想現実に送り込まれたことは象徴的な出来事だった。

橋下氏が私たち大衆のアバターである事実はずっと変化がない。

ただその送り込まれるメディア空間が「テレビ」から「政治」に変わっただけである。

どちらもコメディアンだった青島幸男氏が東京都知事に、横山ノック氏が大阪府知事になった1995年あたりで、この「政治家のアバター化」は明確になった。

ちなみに、二人がアバターの座を追われたのは、青島氏は都官僚への隷属、横山氏はセクハラという「アバター逸脱行為」をしたからである。

これは「現実世界における人間の行動規範」が「メディア空間の行動規範」に似てくるという意味で「現実のメディア空間化」と呼べる。

現実がどんどん仮想現実の価値観で動くという、ねじれた現象である。「現実のテレビ化」と言ってもいい。

さてこの現実世界に、ゲームやチャットであふれかえるインターネットアバターの行動規範がなだれ込んでくるのはもはや避けられない。

どんな世界がそこには待っているのだろう。

行き詰まる日本語ネット ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

久しぶりにアメリカ全土を取材で回ってきた。

3週間ほどかけてサンフランシスコからワシントン、フロリダと3万キロ近くを旅してみたのだが、仕事用にと思ってMacBookを持っていったら、ホテルも空港もカフェも、場合によっては飛行機の中まで無線LAN完備が当たり前、ラジオみたいにどこでもネットオンできる。

あまりに快適でびっくりした。

テレビも新聞も必要ない。

もうすでに「インターネットがメインメディア」という前提で社会が動いているのだ。

まさかと思って旅の間ずっと空港や地下鉄、街頭でカフェでと必死に探したのだが、新聞を読んでいる人は十人も見かけなかった(いまアメリカの新聞社は次々に倒産している)。

いても老人ばかり。後は老いも若きもノートパソコンかスマートフォンを一生懸命いじっている。

ちなみに携帯端末は「パーソナルユースではiPhoneの圧勝、ビジネスではBalckberryが圧勝」だという報道を、これもネットで読んだ。

取材で友だちになったアメリカ人に、撮影した写真を見せたい。が、メールでは面倒くさい。

いいチャンスだと思って「あなたが使っているネットワーキングサービス(SNS)は何か」と片っ端から聞いてみた。

すると例外なく「メインはFacebook。次はMyspace」という答えが返ってきた。

日本では大ブームのTwitterも、アメリカでは使っている人に会わなかった。

そう思って調べてみると、Facebookの1ヶ月の訪問者数は約1100万人、Myspaceは約600万人もいるのに、

Twitterは180万人程度でしかない(2010年1月9日ニールセン社調べ)。

じゃあ、とFacebookを使い始めて驚いた。

名前で検索してみると、アメリカ人の友人はほとんど登録していたのだ。

16年前に卒業したコロンビアの大学院仲間を名簿でリストアップ、片っ端から検索してみたら、半分以上とFacebookで連絡が取れた。

しかもよく見るとインドやイギリス、フィリピンなどなど世界中に散らばっている。うれしくなって世界の音楽仲間、仕事仲間など検索してみたら、いるわいるわ。

「友だちの友だち」「友だちの友だちの友だち」とみるみる紹介が広まり、使い始めて1ヶ月で世界150人のネットワークができてしまった。

つまりFacebookはアメリカにとどまらず世界の標準ネットワーキングツールになり始めている。

ごくありふれたある日、私はパリのフランス人女性ジャーナリストと「きょうは吐き気がする」「心と体はひとつですよ」とチャットし、ニューヨークの画家とその作品を眺めながらアニメの影響について議論し、インドネシアのデザイナーにウエブ写真のオフロードバギーが排気量何CCか尋ね、フィリピンのキーボード弾きのお姉さんの背中のタトゥーをほめ、ベルギーの舞踏家に初メールの挨拶をしている。

土曜日の昼下がり、キッチンテーブルでのんびりメールしていたら、ガザのパレスチナ人青年(知らない人)から「ハロートウキョウ、元気ですか?」とメッセージが来て、1時間半チャットに熱中、最後はガザのラップグループのネット音源を教えてもらったこともある。

起きていることが現実とは思えないくらいパワフルな現象だ。

ひとつ注意してほしい。私はFacebookを全部英語でやりとりしている。

世界のインターネットの標準言語が英語であることは、もはや否定できない。

アメリカや欧州だけではない。アジア人やアフリカ人でも、旧宗主国が英語国だと英語を使える人が多い(人数の多さではインドが代表)。そんな人たちは次々にグローバルネットワークにつながり始めている。

いくらツィッターが盛り上がろうと、日本語を使っている限り、インターネットはグローバルメディアでも何でもない。

日本語を使える人だけの内側で終る「島国メディア」にすぎない。

つまり、世界中の人々にインターネットが普及し尽くしたとしても、英語を使える人と使えない人のラングエージ・ギャップは最後まで残るということだ。

当分の間、世界のネット標準言語一位は英語だろう。

それに続く言語が出てきたとしたも、まず間違いなく北京語だ。

リアルの世界と同じように、日本語は非日本人には使われない特殊言語のままだろう。

今はジョークでしかないオンライン翻訳がもっと賢くなってくれればいいのだが。そうでないと、日本人は世界の情報メインストリームから仲間はずれになってしまう。

学校化社会の英語熱 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


80年代から90年代にかけて帰国子女や留学経験者が増えたため、英語で仕事をこなせる人は珍しくなくなった。

日本に住む英語系外国籍の人も増えたし、国際結婚も増えた。

日本人の英語コミュニケーションスキルはここ20〜30年でずいぶん向上した。個人的にはそう感じる。

それでもなお日本人の「英語勉強好き」は変わらないどころかヒートアップしているようだ。

「NOVA」が破綻した直後を除けば「英会話学校•語学学校」の市場規模はここ数年安定している。

少子化に平成大不況が加わって、教育産業が軒並み市場縮小に苦しむ中、これは奇跡的なことである。

幼児•子供向け、シニア向け英語教育の需要も増えつつあるそうだ。

さらに、ちまたでは「日本人は英語が下手」という俗説が今も根強い。繰り返し話題になるのは「日本人のTOEFLの平均点はアジアでも最低レベル」という話である。

「言語構造が似た中国や韓国よりはるかに下」「北朝鮮と同じくらいの点数」と、日本人の誇りをズタズタにするような話が追い打ちをかける。

最近では「アメリカ留学をいやがる草食系世代」という新たな神話も報道されている。

とはいえ、この比較は何だか変だ。

そもそも、日本国内で日常生活を送る限り、高度な英語のスキルは必要がない。

また沖縄を除けば、日本はシンガポールやフィリピン(TOEFLの点は日本より上)のように外国に植民地化された経験がない。

さらに人口増加を満たすだけの急激な経済成長があったので、韓国や中国のように貧困層が職を求めて海外に移民する必要もほとんどなかった。

つまり、教育にせよ就労にせよ、社会上昇の手段として英語をマスターする理由がほとんどなかったのだ。

「英語ができれば就職や職探しで有利」といっても、それで所得階層が格段に変わるわけでもない(日本では学歴の方が所得階層を決定する)。

つまり英語をマスターしても、日本人にはほとんど何の実利もないと言っていい。

1950〜60年代の高度経済成長期なら、まだ実利的な理由があった。貧乏な日本の製品を買ってくれる最大の金持ち国はアメリカであり、学ぶべき先端技術(当時は鉄鋼、機械、石油化学など重化学工業)もアメリカから来た。英語ができてアメリカの情報を早く知ることができれば、ビジネス競争で有利だったのだ。

しかし、そんな時代もとっくに終わってしまった。

今や中国が世界最大の経済大国になるのは時間の問題なので、若い世代の将来の仕事での有利不利を考えるなら、英語のほかに北京語の人気が急上昇してもいいはずだ。が、そうはならない。

相変わらず親たちが子供に習わせたがるのは英語である。

外国語をめぐる環境は激変したのに「英語ができなければならない」というオブセッションだけが亡霊のように一人歩きしている。

「日本人は英語が下手」なのではなく「日本人は英語が下手だと認識したまま変えることができない」と考えた方が正確なのではないか。

この社会を覆う「英語信仰」は一体どこから来たのか。

社会学者の上野千鶴子は「サヨナラ学校化社会」(太郎次郎社)の中で「学校化社会」という説を紹介している。

元々はイリイチというアメリカ人思想家が1970年ごろに提唱した言葉だが、日本では宮台真司が日本社会の特質として「学校化」という概念を使った。

つまり「学校の中の価値観が学校の外に溢れ出し、社会全体を覆うこと」を指す。

学校は「数学」「英語」「美術」「国語」など、人類の知の蓄積が「教科」というカテゴリーで分類され、人間の資質が「成績」という数字で計測される特殊空間である。

この「成績」(偏差値、学歴も成績の一種)が日本人にとって学校卒業後も有力な人間評価軸であることは、みなさんのごく日常的な経験でおわかりいただけるのではないか。

ゆえに、学校化社会で育った親は、自分が学校で叩き込まれた学校的価値をそのまま社会に持ち込み、他人や子供、そして自分自身の評価の基準にする。これが学校的価値観の社会への拡大、つまり学校化である。

ここで「英語」が学校の「教科」の一つであることに注目してほしい。

「教科」であるがゆえに、英語の「成績」は学校化社会での人間の評価に序列を与える。

「英語ができる」ことは、人間の資質として価値がある。「競争」という軸に置けば「優越」の材料になる。

ロシア語でもフランス語でも北京語でもなく英語が信仰の対象になり続けるのは、それが「中学や高校の教科にある唯一の外国語」だからではないか。

女性が武装解除する儀式がない ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

職場の中で、どこまでくつろいだ素顔をさらけ出していいものか。

働く女性にとってこれは悩ましい問題である。

いつもフォーマルな堅苦しいつきあいばかりでは、打ち解けたチームワークなどできない(まして、あわよくば職場でカレシをゲットしようなどという野望はかなえられない)。

男性社員同士はすぐ仲良くなっていくのに、自分はいつまでも距離が縮まらず、何となく仲間はずれにされているような気さえする。そんな女性は多いのではないか。

じゃあ実際どうするといえば「競争原理の中で勝って認められる」「飲みにいく」「一緒にゴルフをする」「カラオケをする」など、悲しいほど古くさい。

昭和の高度経済成長期、男性サラリーマン社会から何の進歩もないではないか。

つまり今の日本の企業共同体では、女性が「よりよい労働者」になろうとして組織文化を受け入れていくと「文化的に男性になる」しか選択肢がないのである。

この有様を指して「日本の資本主義社会は成人男子しか想定していない」という名言を放ったのは社会学者の上野千鶴子だ。

女性の企業進出が本格化した1990年代初頭、漫画家の中尊寺ゆつこが描いた「オヤジギャル」はまさに「文化的に男性になった女性たち」だった。

その後、こうした女性サラリーマンはごく当たり前の存在になり、中尊寺が描いた「駅で立ち食いソバを食う」「疲れたらユンケル黄帝液を飲む」「電車でスポーツ新聞を読む」女性は、20年後の今では驚きの対象にならない。

本欄でも何度か書いているように、女性が日本の企業社会に男性と対等の労働者として参入したのは、たかだか1986年のことにすぎない。

それまで明治維新以来、日本の企業共同体はずっと「男性純血主義文化」であり、組織の構成員に女性が入ることを想定していなかった。そこに参加してまだ24年なので、女性が企業共同体の構成員としてくつろいだ関係を同僚と構築する(例えて言うと『武装解除』する)儀式がまだ確立されていないのだ。

例えばの話。私がかつて勤務していた新聞社はおそろしく古風な会社で「部ごとの一泊温泉旅行」というのが年に一回あった。お金を積み立てて伊東温泉だ伊香保温泉だと半日かけて繰り出し、昼間はハイキングにテニスにゴルフにとリクリエーションに精を出し、大浴場で揃って汗を流したあとは、部長もデスクも浴衣に着替え、大広間にずらりと並んでお膳に並んだ温泉料理を食うのである。もちろんみなさん飲酒酩酊、コントあり福引きありと笑い歌い踊り騒ぎ、さらに二次会はカラオケに突入、部屋に散って徹夜で麻雀と、毎年飽きもせず狂騒状態だった。

最初は一体何のために休日を犠牲にして会社のオッサンどもと宴会旅行に行かなアカンのじゃと怒っていた私も、次第に「これは文化人類学的におもしろいのではないか」と思うようになった。

騙されたと思ってスポーツに興じ、スッポンポンで風呂に入り、浴衣一枚パンチラの酔っ払いオヤジと猥談などして騒いでいると、不思議だが確かに仲良くなっちゃうのである。

「上司/部下」「先輩/後輩」というフォーマルな心理的障壁が崩れる。なるほど「裃を脱ぐ」という精神的儀式はまだ生きているのだなと思った。

こういう「社員旅行」という儀式が、かつての日本企業にはどこにでもあった。

旅行に限らず、運動会とかサークル活動だとか、従業員同士がインフォーマルな関係を結んでいくための「儀式」があちこちに用意されていた。

日本の企業が単なる「労働をして賃金を得るための組織」ではなく「インフォーマルな人間関係を含んだ全人格的な共同体」として機能したのは、こうした儀式のためである。

だが、先ほどの温泉旅行の例でもわかるように、こうした儀式には女性構成員が想定されていない。

リクリエーションはまあいいとして、一緒に風呂に入るわけにはいかないし、浴衣姿でパンチラするのもいかがなものか。

同僚の女性たちも困ったようだ。浴衣を着ずにTシャツ・ジーンズ姿だった。

では、どうすればいいのか。もうさすがに温泉旅行の時代じゃないだろう。女性も男性も参加できて、全員が「武装解除」できるような儀式を、日本の企業文化は生むのだろうか。

答えはノーだ。

日本の企業文化の男性純血主義はおそろしく頑迷固陋な様子だ。それならいっそ「職場にインフォーマルな関係などいらない」という方向に状況は進んでいるように思える。

読者のみなさん、「女性の武装解除儀式」で成功している例があったら教えてください。

ナビゲーター文化はなぜ生まれるのか ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

情報の流通量が増えると「情報の海」を案内する「ナビゲーター」(navigatorの原義は『航海士』『水先案内人』の意味)が重要な職業になる。

情報のカオス(無秩序状態)の中で「あなたにはこういう商品・消費形態が良いのでは」とパーソナライズした情報を提案してくれる職業だ。

音楽の例が分かりやすい。日本では1年に1万9445点(2008年)の新しいレコードが発売される。

年約2万点だから、一日に換算すると約53点が洋楽・邦楽ジャンル問わず発売され続けている計算になる。

この「新譜約2万点」というペースは1970年代からほぼ一貫して変わっていない。

当然、市場に流通するレコードの点数は増えるばかりだ。

私が大学を卒業した1986年には、市場に流通するレコードの「カタログ数」は10万4703点だった。

それから22年後、08年には15万4582点に膨れ上がっている。

つまり若者だったころの私と比べると、08年時点の若者は聞く対象が1.5倍に膨れ上がった計算になる。

冗談でも皮肉でもなく「最近の若い人は大変ですね」と言いたくなる。

この数字は日本レコード協会の統計なので、協会に加盟していないインディーズを合算すれば数字はもっと膨らむだろう。

CDは出していないがインターネットで話題、などという新しい形のミュージシャンも増えているから、もはや普通の人には付いていけない。

カタログ数が増え、メディアも複数併存する状態では、そこさえ見れば「何が流行っているのか」を教えてくれる情報の中心(ヒットチャート、音楽番組、雑誌など)ももはや存在しえなくなってしまった。

そのカオスの中から登場したナビゲーター職が「クラブDJ」だ。かつて人前で音楽を実演するために必要な能力は演奏力や歌唱力だった。が、音楽情報のカオスの中では膨大なアーカイブから「選曲する力」=「カタログ知識」も音楽家として重要な能力になりうる。

また「音楽を聴く」というマーケットも大衆化して非常に分厚い。だから今ではクラブDJは「クラブ」だけではなく、ごく身近な結婚式にまで進出している。

よく考えてみると「ナビゲーター職」は昨今始まった現象ではない。「カタログ数が膨大」で「消費者の数が急増」(大衆化)した商品にはナビゲーター職が発生している。例えば、ワインのソムリエは「膨大なカタログの中から客の要望に合ったワインを選ぶ」という業務内容がナビゲーターそのものだ。

おもしろいのは、最近市場がビッグバンを迎えてナビゲーターが登場した商品だ。意外な顔ぶれだが「金融」と「書籍」がそうだ。
金融市場が自由化されたので、かつてはせいぜい「銀行預金を普通にするか定期にするか」くらいしか選択肢のなかった個人資産の運用手段が無数に増えた。また、終身雇用制度や企業年金が崩壊したので、需要=マーケットも分厚い。銀行や証券会社は個人の資産運用をアドバイスする「パーソナル・ファイナンス」を重要な業務に据え始めた。

株・債券・銀行預金・不動産・先物取引や保険など、金融商品を組み合わせて顧客に合った資産運用を提案する仕事。ちなみにパーソナル・ファイナンスでのナビゲーター職は「ファイナンシャル・プランナー」と呼ばれる。

書籍の世界では、読者の要望に応えて「こんな本を読むといいですよ」と提案する「ブック・ディレクター」という職業が登場した。

「本のクラブDJ」とでもいえばいいだろうか。そう思って、さきほどの音楽と同じ数字を調べてみると、一年に出版される新しい書籍の数は7万6322もある(08年、出版科学研究所。1万7644点の1968年から4倍に増加)。レコードの4倍近い「本の洪水」だ。

加えてアマゾンなどインターネット書店が普及したため、本の買い方も激変した。

かつて本を書店で買うしか流通経路がなかったころは新刊本を扱う「書店」と古書を扱う「古本屋」は店舗も客もまったく別々に分断されていた。ところが、ネット書店上では新刊本も古書もフラットリー・イコールで、商品としては違いがない。

読む対象は「過去すべてのアーカイブすべて」に膨れ上がってしまった。消費者は混乱する一方である。

こうして、インターネットがマスメディアとして普及すればするほど、無加工の一次情報が洪水のように消費者に流れ込む。

しかし普通の消費者には情報の判別ができない。かくしてグルメ情報、コスメ情報、美容情報などが錯綜する中「グルメライター」「コスメジャーナリスト」「美容評論家」等々、これまで聞いたことのない「専門家」が続々に登場している。さらに細分化して「ラーメン評論家」まで職業として成立しているからおもしろい。

消費者がこうした「専門」に本当に判断力や見識があるかどうかを問うことはあまりない。

自分たちが情報洪水の中にいて、日常的に迷子のような不安感の中で暮らしている消費者にとっては「専門家が情報の洪水を整理して提供してくれている安心感」にこそ需要があるからだ。

通信カラオケという自己表現ツール ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

カラオケが都市部に住む女性たちの娯楽になったのはいつごろか、ご存知だろうか?

それが意外に最近。1992年暮れに「通信カラオケ」が市販されてからのことなのだ。

それまでのカラオケは音源にレーザーディスクやCDを使っていたため、店先に置けるディスク数はせいぜい数百枚。曲数にすれば二~三千曲だ。そこからリクエスト曲を手作業で選び出すのは骨が折れた。

また、お客が歌いたい新曲が出ても、レーザーディスクやCDをプレスして店頭に配布するには、どうしても一ヶ月はかかった。最新の流行歌を少しでも早く歌いたい若者層には物足りない。
というわけで、カラオケはそれまでは盛り場のバーやスナックで懐メロやフォークを歌う「オジサンたちの娯楽」に止まっていたのだ。

ところが、ミシンメーカー「ブラザー工業」(現在もパソコンプリンターやコピー機メーカーとして有名)の子会社「エクシング」がつくった「通信カラオケ」は、そんな欠点をすべて吹き飛ばしてしまった。

カラオケボックスに置いてある通信カラオケの端末機は、実はハイテクの塊である。

中身は、シンセサイザーなみの楽器の音色が詰まった音源ボードとパソコンレベルのCPUを積んだ「音楽自動演奏専用コンピューター」。そこに電話回線でデジタル信号に変換された「楽譜データ」を送り込むと、曲の演奏が始まる。原理は現在の音楽ネット配信に似ているが、当時は54キロビットのアナログ電話回線しかない時代(現在のブロードバンドは数十メガビットが普通)だ。譜面データは「MIDI」というデジタル信号に変換して送った。これだと、1曲が数十キロバイトとメール並みの軽さだったから、飲み屋のピンク電話の回線でも曲を送ることができた。
いったん送った曲データは、端末内部のハードディスクに貯蔵される。

こうして発売当初3000曲を内蔵して発売されたエクシング社の通信カラオケには、今では約六万曲が内蔵されている。今ではレコード会社が新譜の発売日とカラオケの配信日を揃えるのも当たり前。それでも大きさはミニコンポくらい。レーザーディスク時代には冷蔵庫並みにかさばったことを考えると画期的なサイズだ。

この通信カラオケと二人三脚で普及したのが「カラオケボックス」である。

それまでは郊外のロードサイドにだけ展開していたカラオケボックスが都心部に進出したのは、90年に「ビッグ・エコー」の商標で有名な「第一興商」が東京・渋谷に近い三軒茶屋に出店したテナントビルが第一号だった。
92年には前述の通信カラオケがカラオケボックスに置かれるようになり、都心部ビル型カラオケボックスは爆発的に広まった。

ちょうどバブル景気が崩壊した直後。カネのかからない娯楽としてカラオケは貴重だった。

昼間=学校帰りの中高校生が「レンタルリビングルーム」代わりに使う。
夜=サラリーマンや学生の二次会。
深夜~未明=終電を乗り逃がしたので始発まで時間潰し。
そんなライフスタイルが始まったのも、この「通信カラオケ+カラオケボックス」以降の現象である。

かくして「レジャー白書」06年版によると、過去1年間に一度でもカラオケに参加したことのある日本人は4540万人で外食、国内旅行、ドライブに次いで堂々の4位。

ところがその一方で「音楽鑑賞」は4040万人しかいない。

つまり「うたは歌うが、音楽は聞かない」という人が500万人もいる計算になる。

CDには3333億円(07年、出荷額)しか払わないのに、カラオケには7431億円を払う。

日本人にとって音楽は「聴くもの」よりは断然「うたうもの」なのだ。

通信カラオケ普及期の90年代前半から中頃にかけて「カラオケでよく歌われる曲」と「よくCDが売れる曲」の間に相関関係ができたのも、そんな現象のひとつと考えればわかりやすい。

安室奈美恵、華原朋美、trfといった「小室哲哉プロデュースもの」の全盛期といえば思い出してもらえるだろうか。

こうして、おもしろい現象が起きた。カラオケを通じて日本のポピュラー音楽は「自己表現消費」の商品のひとつに組み入れられていったのだ。

聴くだけなら、ライブにしろレコードにしろ、プロの演奏家や歌手の奏でる音楽を受け取るだけだが、歌うなら、自分から進んで曲を選び、声を出してメロディと詞を歌わなくてはいけない。そして歌うのが浜崎あゆみなのか北島三郎なのかAKB48なのかで歌い手の内面の個性が外部(カラオケボックスに同席している人間)に伝達される。

この「自己表現商品に音楽を使う」という手法は、そのまま携帯電話の着メロや着うたに引き継がれている。

「自己表現消費」の重要な要素が「その商品を使う自分を自分で承認できるか」という「自己承認」(ナルシシズム)であることは本欄でも何度か書いた。

ここで詞や曲は、歌い手の名前、容姿、ファッション、ライフスタイルを含めた一連の商品の一部でしかなくなる。

消費者にとって重要なのは「そのうたを歌うことで、歌手××がシンボライズする価値観を身に付ける」という行為だからだ。

安室奈美恵や浜崎あゆみがそういったファッションを含めたライフスタイル(生き様という意味もある)を積極的にマスメディアに載せることで、歌手としても人気を高めたのは、まさにその代表例である。

「うた」は相対的に重要度が低い。

だから、人気のある歌手でも「その代表曲は」と問われる、と意外に思い出せなかったりする。

シブヤはいかにして全国を覆ったのか〜全国総シブヤ化現象 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 90年代初頭、私が東京に住んで初めて知ったのは、渋谷〜原宿〜表参道が、歩いて回れるひとつながりのゾーンだということだ。

 それまで私が東京の外から「東京発の最先端文化」と認識していたファッションや音楽、ダンスといった若者文化(ルビ:ユース・カルチャー)のほとんどは、実はこの「渋谷〜原宿〜表参道ゾーン」から出ているということもわかった。

 それは「ニューヨーク発の最先端文化」と世界で呼ばれる音楽やファッションの大半が、マンハッタン南部の「グリニッジ・ビレッジ〜ソーホー〜トライベッカ〜チェルシー」というひとつながりのゾーンから出てきたのと似ている。

 この「渋谷〜原宿〜表参道ゾーン発文化」を指す名称として「シブヤ文化」という言葉が成立するのは1980から90年代にかけてだ。JR渋谷駅周辺を指す固有名詞(地名)としての「渋谷」ではなく「渋谷〜原宿〜表参道ゾーンから生まれる若者文化すべて」を指す普通名詞「シブヤ」が流通し始めたのだ。

 例えば、オリジナル・ラブ、ピチカート・ファイブなどの一群のミュージシャンが「渋谷系」と総称され、隆盛を極めたのは90年代前半である。今や”SHIBUYA”という言葉は国外にも広がり、外国人観光客が「クール・ジャパン」をシンボライズする場所としてまず訪れたがるのは「シブヤ」だ。

 実は70年ごろまで、若者文化の発信地は新宿だった。渋谷一帯を「流行最先端の街」に変貌させる最初の種を蒔いたのは、西武・セゾングループが1973年にオープンした「パルコ」である。

「百貨店は駅ビルに出店する」のが常識だった当時に、駅から坂道を500メートル上がり、渋谷区役所しかない殺風景な「区役所通り」にパルコを出店するというリスキーな戦略を同社は取った。

 パルコが斬新だったのは、この駅から遠いというハンディを逆手にとって「パルコ周辺の街」そのものを広告空間にしてしまったことだ。開店から1ヶ月、原宿駅(渋谷駅ではなく)からパルコまでクラシックな馬車が客を送迎した。街頭には「VIA PARCO」(パルコ通り)のバナーが街灯に連なり、ウォールペイントが街を飾った。パルコパート2、スタジオパルコが完成した80年代初頭には、公園通り(パルコとはイタリア語で公園のこと)一帯は「パルコ空間」に変貌、渋谷一帯の人の流れは激変してしまった。

 当時のパルコの広告コピーは「すれちがう人が美しい 渋谷=公園通り」である。

 地方のショッピングモールをはじめ「街」そのものを消費空間にしてしまう手法は、今ではごくありふれた戦略だ。が、街そのものを「ステージ」にして「ファッションを見せる場」にする手法は、パルコが元祖だったのである。

 このパルコの大成功をライバル社が黙って見逃すはずがない。

 東急が、終戦直後の焼け跡街の雰囲気を残していた渋谷駅直近の「恋文横丁」を再開発し、ファッションビル「109」をオープンしたのが1979年。「109-2」「bunkamura」がそれに続いた。

「マルキュー」こと109が後に90年代の「ギャル文化」の発信地として果たした巨大な役割はもう説明するまでもないだろう。

 こうして渋谷全体が「パルコ空間化」していた前後、今度は隣接する原宿に森ビル系列会社が「ラフォーレ原宿」を1978年にオープンする。

 パルコやラフォーレ原宿は、大都市圏だけでなく宇都宮、松山、新潟、熊本、大分といった地方都市にも積極的に出店を展開した。その内部には「シブヤ文化」を代表するファッションブランドや、音楽テナント(HMVやタワーレコード、クラブクアトロなど)が入っていたので、90年代には全国の地方都市に「疑似シブヤ空間」が出現、「シブヤ文化」を全国に伝播する「伝道所」として機能した。

 だから90年代以降、地方都市で生活する若者でも、音楽やファッションのセンスは東京圏とそれほど差がない。私はこれを「全国総シブヤ化現象」と呼んでいる(拙著『Jポップとは何か』岩波新書)。

 ところが、こうして「シブヤ」が全国に飽和し、大衆化し切ってしまうと、本家のシブヤはそこから一歩先に変貌する必要に迫られた。そうでないと「最先端」から転落するからだ。

 ところが不幸なことに90年代後半から「シブヤ文化」の主役だった「音楽」はCDの売り上げが急落して失速してしまった。その代わりに主役に座ったのが「ファッション」だった。

 が、その舞台は以前と変わらず「渋谷〜原宿〜表参道ゾーン」であり、その「表通りから一歩入った裏通り」に若いクリエーターたちが始めたブランドやショップが「裏原系」だった。

 ファッションでは主役の「ウラハラ」という名称も、まだ「シブヤ」を蹴落とすほどの言葉の流通力はない。

 一方、アニメ、まんが、ゲームが日本発若者文化の王座に就いたため「アキハバラ」が国際的な知名度を広めている。

 2010年代、日本の若者文化を象徴する地名はどこになっているか楽しみだ。

なぜあながは買い物がやめられないのか?個性崇拝とナルシシズム消費 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 例えばあなたがケータイの機種変更をしたとしよう。最初にやることは何だろう? 

 自分好みのストラップを付ける。シールを貼ったり、ラインストーンを貼ったりして、自分なりのデコレーションをするかもしれない。そこまで凝らない人でも、待ち受け画面をひこにゃんやEXILEのイラストや写真にするくらいはあるんじゃないかな。

 携帯電話は同じ機種が何十万台と作られる画一的な大量生産品だから、基本的には大量の他人の持ち物と同じだ。「他人と同じじゃイヤ」と思う人ほど、自分なりのデコレで「パーソナライズ」(個性化)をしてケータイを「自分だけのもの」に改造するのだ。

 さて、ここでケータイを買う人に「持ち物が他人と同じじゃイヤ」という心理が働いていることにお気付きだろうか。

 こうした「他人と違う自分だけの特性」のことを「個性」という。個性は本来、外からは見えない人間の内面だ。ケータイを持つ人は「携帯電話」というモノが、その個性が見えるように改造する。つまり他者に「自分の内面を伝える」という表現手段としてケータイが機能しているのだ。

 例えデコレしなくても、カシオのGショックケータイを使うのかiPhoneを使うのか等々、機種選びだけでも個性は伝わるはずだ。

 ちょっと難しい言葉だが、こういう「自分の内面を他者に伝えるモノ」のことを社会学や心理学で「シンボリック・メディア」という。

 クルマなんかもそうだ。赤いBMWに乗っている人と、白い軽トラに乗っている人とでは、その職業や性別、価値観、収入など他者に伝わる個性が当然違う(それが事実かどうかは別として、だが)。

 つまり2009年の日本人にとって「お買い物」とは個性の表現、すなわち「自己表現」なのだ。

「そんなの、当然じゃないの? お洋服だってアクセだって個性を表現するために買うだし」と思うあなた。いえ、この現象が始まったのはごく最近なのだ。

 1980年代前半まで(特に高度経済成長期)日本人は「世間並み」「よそ様並み」に豊かになりたい、つまり「他人と同じになりたい」と呪文のように言っていた。

 だから隣の家がクーラーやクルマを買えば、負けじとウチも買っていたのだ。国民の七割が「ウチは中流」などと経済統計上の所得格差とはかけ離れた自己認識を語っていたのも1970年代のことだ。

 ところが、バブル景気前後になってモノの豊かさが飽和点に達すると、クーラーやクルマは普及し尽くしてしまう。そこで出てきたのが「個性信仰」だった。「人と違う自分がいい」と言い出したのだ。

 例えば文部省が政策を大転換して小学校に「個人差教育」を導入したのは1984年。この前提にあるのは「誰もが表現すべき自己=個性を持っているはずだ」という「個性信仰」である。

 結果「自己表現ブーム」が起きた。若者はギターを買ってバンドブーム。中高年は競ってワープロで「自分史」を書いた。これに便乗してワープロ、自分史講座、バンド雑誌等々、「自己表現の商品化」が始まった。つまり自己表現=消費行為になったのだ。

 1984年に小学校に入った新入生は、今年31歳のはずだ。この前後から下の世代は「自分には人と違う個性がなければならない」という個性信仰を学校と家庭教育で叩き込まれている。そこを狙って「大衆が自己表現をするための商品」が次々に開発された。

 1992年に登場した通信カラオケが好例だろう。北島三郎を歌うのかAKB48を歌うのかで、はっきり個性は表現できる。最近では、ブログやプロフをネット上に立ち上げることも自己表現消費のわかりやすい例だ(無料でも、みなさんを含む消費者が商品を売ったおカネで企業がネット会社に広告費を払っているのですから間接的にカネを払っているのと同じ)。

 自己表現消費で大事なことは「その消費をした自分を承認できるかどうか」である。つまり関心はモノそのものではなく、そのモノを所有した自分に焦点がある。

 例えばあなたが、機能やデザイン、価格がまったく同じ女性服を見つけたと仮定しよう。

 表参道のセレクトショップで買うのと、ジャスコのワゴンセールで買うのと、どちらを選ぶだろうか。表参道でしょうね。

 つまりあなたを満足させるのは「洋服のデザインや機能」というモノではなく「買い物を表参道でする」という「自分の姿」なのだ。

 これを社会経済学では「ナルシシズム消費」という。ここでナルシシズムとは「自己陶酔」ではなく「自己承認」=「そういう自分を自分で認められるか」と理解しておいてほしい。これをみなさんは無意識に「自分らしいかどうか」という言葉で表現しているはずだ。

 あるいは「自己満足」という素朴な言葉でこの行動を説明していることもあるだろう。「自己」を「満足」させる行為とは、自己承認に他ならない。みなさん無意識に正確な表現をしている。

 その意味で、今の日本では、すべての消費行為は自己表現であり、そういう自分を自分が承認できるかどうかが意思決定の規準になっている。

モノに限らない。どこに旅行に行こう? どの学校で英会話を習おう? すべての消費の場面であなたは「その消費をした自分を承認できるかどうか」を自分に問うているはずだ。

カネさえあれば、自分を表現してナルシシズムも満たしてくれる。それがショッピングなら、依存症になるのは道理かもしれない。学校も家庭も「あなたには個性があるはずだ」「それを表現しなくてはならない」とずっと呪文のように説き続けていたのだから。


「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

  • 作者: 佐伯 啓思
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 新書



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縁結び機能を共同体があきらめた=「婚活」の正体 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


「婚活」という言葉が出てきたとき、これはうまい言い換えだと感心してしまった。

「婚活」つまり「結婚活動」の厳密な定義は一定しないが、雑ぱくにくくってしまうと、インターネットの「真面目な出会い系サイト」や「ツヴァイ」など結婚紹介所に登録する、お見合いパーティーに参加するといった結婚相手ハンティング。および、より良い相手と結ばれるための「自分磨き活動」。そんなところらしい。

「結婚相手も、こちらから能動的に探し求めないと、待っているだけでは来てくれない」という意味で「就職活動=就活」から派生した言葉である。

 本欄で何度も強調していることだが、日本人女性のライフスタイルを根本的に変革したのは1986年の男女雇用機会均等法である。

 この法律で、女性の男性の就業・賃金・待遇上の差別は禁止された。女性は男性と企業従業員、つまりサラリーマンとして同等の地位を手に入れた。ありていに言うと女性も男性と「経済的地位=おカネの力」ではまったく対等、もはや女性は男性におカネのために従属する必要がなくなったということだ。

 かくて激変した女性のライフスタイルのために、様々な「言い換え」の言葉が作られた。

 男に奢ってもらわなくても一人で外食や旅を楽しめるだけの財力があるから「おひとりさま」。この言葉をエッセイストの岩下久美子が世に送り出したのは1999年だ。

 結婚しなくても子どもがいなくて経済的にはまったく困らないから、30歳独身・子ナシ女性を明るく「負け犬」と酒井順子が呼んだのが03年。もはや経済的「死活問題」ではないからこそ、酒井は独身女性を「負け犬」と堂々と呼ぶことができたのである。

 こうした「かつてはネガティブとされた対象をポジティブに言い換える」行為は、アフリカ系アメリカ人が”nigger”(クロンボ)という蔑称でお互いを呼び合い、侮蔑のニュアンスを薄めていったり、”black”(黒人)を”African”(アフリカ系)と言い換えたりした経過によく似ている。

「婚活」という言葉もそれに似ている。

「ワタクシ、夫とはお見合いパーティーで出会いまして」「カレとはヤフーで出会ったの〜」と堂々とカミングアウトできる人はまだ少数派である。実際、隠している人が多い。

 これは、女性が経済的に自立したという現実とは裏腹に「重要なパートナーとは、所属する共同体(ルビ:コミュニティ)の人間関係の中で出会うべきだ」という伝統的な価値観がまだ深層心理に、あるいは少なくとも社会の保守層には生き残っているからだ。

 だから「ネットで出会った相手とお試しデートしまくってます」というより「婚活中です」と言う方が「恥かしい」という感覚は薄い(念のために言っておくと、『共同体』とは家族や地縁といった伝統的なものだけではない。勤務先の会社、友人、学校の同窓生、サークル、バイト先も共同体だ)。

 雇用機会均等法以前はどうだったのか。「結婚適齢期」(これも死語だが)の女性が独身でいると、お母さんや親戚、近所の世話焼きオバサンが「いい男性がいるわよ」と縁談を持ち込んだりした。共同体が「結婚相談所」や「ネット出会い」の原型にあたる機能を果たしていたのだ。

 ところが、この共同体の機能が崩壊してしまった。

 そもそも娘は遠い都市部で働いていて実家には盆暮れくらいしか帰らないから縁談の持ちかけようがない。

 世話を焼いても「自立した女性は結婚相手くらい自分で探す」という社会的合意があるので拒絶される。こうしてコミュニティは「縁結び」の機能を放棄しつつある。

(今でも保守的な共同体では生き残っている。都市部から帰省した女性がしつこく縁談を押し付けられて激怒するのは両者に認識ギャップがあるから)。

 ところが女性の側にも困った事情が発生した。経済的に自立したはいいが、今度は仕事が忙しくてプライベートな時間が激減してしまったのである。

 かつて「花嫁修業中」と呼ばれた「相手待ちの待機時間」が消えてしまった。ゆっくり相手を探す時間がない。かといって実家のお見合い話に乗るのも嫌だ。ちなみに、こうした女性の典型的な嘆きは「仕事が忙しくて出会いがない」である。

 かくして、かつては共同体が担っていた「縁結び」という作業はインターネットだとか結婚相談所だとか、企業の手に委ねられることになった。

 これは突飛なことなのだろうか? 

 答えはノーである。

 かつて「家でつくるもの」だった衣服は、「外で買うもの」になった。

 今では一家の食事ですら「家で料理するもの」ではなく「お総菜を買ってきて食べるもの」になっている。

 女性のライフスタイルが変化し、その居場所が家庭から外へと軸足を移すにつれ、共同体が持っていた機能が企業化されていくというのは、実はずっと前から始まっていることなのだ。

おひとりさま

おひとりさま

  • 作者: 岩下 久美子
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/09
  • メディア: 単行本



負け犬の遠吠え (講談社文庫)

負け犬の遠吠え (講談社文庫)

  • 作者: 酒井 順子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/10/14
  • メディア: 文庫



「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)

「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)

  • 作者: 山田 昌弘
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2008/02/29
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北朝鮮ミサイル実験の本当の狙い ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 戦争を仕掛けるなら、奇襲に勝るものなし。

 これは軍事の初歩中の初歩だ。

 つまり、本気で敵を軍事的に叩きたいのなら、相手が気付かないうちに準備し、向こうが迎撃態勢を取る前に最大限の打撃を与える作戦が王道。

 だから、多少でも軍事の心得がある人間なら、4月5日に北朝鮮が「テポドン2」改良型のミサイルを発射しても、本気で日本を軍事攻撃するつもりなどまったくないことはすぐわかる。

 事前に「×月×日に発射します」と通告、落下区域まで予告した発射が、軍事攻撃のはずがない。本気で日本に打撃を与えるつもりなら、人口・産業が希薄な秋田や岩手の上空など飛ばさず、抜き打ちで東京の中心部に一発撃ち込むはずだ。

 ちなみに、1950年に北朝鮮が38度線を突破して韓国を奇襲した朝鮮戦争は戦史上もっとも成功した奇襲作戦のひとつだ。その北朝鮮が軍事のイロハを知らないはずがない。だから、北朝鮮がテポドンの発射実験などしても、脅える必要は全然ない。軍事攻撃以外の何か別の目的があってやっていると考えるのが常識だからだ。

 そもそも今回のミサイル実験は日本の領土を侵していない。つまり「領空侵犯」ですらない。

 国の主権が及ぶ「領空」の定義は「領土・領海の上22.224キロ(12海里)」である。ミサイルは、今回衛星ロケットだと主張する北朝鮮の発表で490キロ、軍事用弾道ミサイルなら600キロから1000キロの「宇宙空間」にまで飛び上がる(『大気圏』は上空約100キロ)。「領空」を平屋家屋とするなら、弾道ミサイルは30〜50階建ての超高層ビルの高さを飛んでいくわけだ。宇宙空間は1967年の「宇宙条約」で領有を主張できないことになっているので、北朝鮮のミサイル実験は「信義違反」ではあっても「侵略行為」はおろか「国際条約違反」ですらない。

 だからギャンギャン北朝鮮を非難しても、根拠がないのだからまったく無駄。アメリカ、ロシア、中国が冷静というより冷淡なのは、このへんの常識を分かっているからだろう(ちなみに、長距離ミサイルには『弾道ミサイル』と『巡航ミサイル』の2種類がある。巡航ミサイルは、自動操縦でエンジンを噴射しながら水平に飛んでいく。弾道ミサイルは、放物線の頂点までエンジンで上昇し、後はエンジンを切って落ちてくる)。

 となると、北朝鮮は何のためにミサイル発射実験などやったのだろうか。

 健康不安が報じられる金正日体制の権力誇示。オバマ・新米国大統領への存在感のアピール。このへんは軍事オンチの日本のマスメディアも報じている。

 だが、もっとも見過ごされているのは、この実験そのものの軍事的な意味だ。

 それは「交渉相手国の危機対応能力を実験してみる」、つまり「害のない程度に脅かして相手の反応を見る」ことだ。

 日本はまんまとワナにかかった。

 政府は「ミサイル発射」の誤報を2回も繰り返し、危機対応でもっとも重要な情報収拾・伝達の能力がお馬鹿レベルであることを北朝鮮に教えてしまった。

 初めて自衛隊法の「弾道ミサイル破壊措置命令」をにぎにぎしく発動、迎撃ミサイルを配備したはいいが、マスメディアはバカ騒ぎを演じたあげくその「パトリオット3」の配置場所までがんがん放送。これでは相手にこちらの迎撃能力を教えてやっているようなもの(弾道ミサイルは発射から30分以内に秒速2〜7キロで落ちてくるので迎撃はほぼ不可能)。

 そんな政府や報道の無能ぶりを見て、北朝鮮は「こいつら軍事常識ゼロだな」「危機対応能力ないな」と思ったことだろう。

 北朝鮮と50年以上軍事的に対峙する韓国は「そんなもん無視するに限る」とまったく冷静、核兵器保有国であるアメリカ、中国、ロシアも冷淡だった。

 あにはからんや、その後北朝鮮は「(北朝鮮の核問題を話し合う)6カ国協議から脱退する」「国際原子力機関(IAEA)の核監視要員を追い出す」「核燃料の再処理を再開する」とムチャクチャなことをやり出した。

 ちゃぶ台ひっくり返す大暴れである。要するに、足下を見られてしまったのだ。6カ国のうち重要なプレイヤーである日本が、かくもお粗末な危機対応能力しかないこと(特にたかがミサイル実験で世論がパニックすること)がバレてしまったから、足並みが乱れることを見透かされているのだ。

 というわけで、政治的な目的を達するという点で、今回の「ミサイル実験」という軍事行動では、北朝鮮が一人勝ち。韓国、アメリカ、中国、ロシアは何も損も得もしていないので、勝ち負けなしの引き分け。

 ただ一国、勝手にコケまくってズタボロの惨敗を食らったのがわが日本である。



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サブプライムローン危機でビジネススクールメルトダウン ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 私がコロンビア大学の修士課程に留学した1992年、同じキャンパスのbusiness schoolには日本人留学生がうじゃうじゃいた。全学生の1割はいたと思う。

 その大半は企業が派遣した「社内留学生」だった。勤務時と同じ給料をもらい、当時年2万ドルの学費も会社持ち。マンハッタンの最高級住宅街アッパーイーストまたはウエストサイドから通学する姿を見て、一日5ドルの赤貧生活をしていた私(自費留学組)はため息をついたものだ。

 私が通った学部はビジネススクールと共通の科目も多かったので「Bスクール」(実際そう呼ぶ)の学生と友だちにもなった。それで分かったのは、「××証券」「●●生命」「△△銀行」といった名だたる日本の金融会社がBスクールに多額の寄付金を積み、毎年社内留学生を送り込む「指定席」を確保しているということだった。

 一体どうして、日本企業はアメリカのビジネススクールにそんなに熱心に社員を送り込んでいたのだろうか。

 ビジネススクールのような「即戦力となる専門職を養成するアメリカの大学院修士課程(master course)」を「professional school」と呼ぶ。

 私が卒業した「School of International and Public Affairs」は外交官、国際機関やNGOの職員を養成する学校だった。その他、Law School(弁護士や裁判官、検事など法曹職)やJournalism School(ジャーナリスト)などのプロフェッショナル・スクールもある。

 Business Schoolは金融やマーケティング、PRのプロを養成する学校だ。ここでの学位がMBA(Master of Business Administration)と呼ばれるのは言うまでもない。

 アメリカのプロフェッショナル・スクールのカリキュラムは、日本なら企業が「社内教育」として社員にだけ教えている実務を、授業料さえ払えば誰でも習得できるように「商品化」して開放したものだ。

「カネさえ払えれば、名門企業の社員でなくても、誰でもエリート実務教育が受けられる」という点では、ある意味民主主義的で実力主義的である。だから、終身雇用制の下で生きる日本の社内留学生には、本来あまり利得がないはずなのだ。

 私が留学した1992年ごろの日本企業には、まだバブル景気崩壊前の社員教育が残っていた。日本国内から「カネ余り」で流出した資金が世界の資産(金融資産や不動産)を買いあさっていたのが、1980年代のバブル景気である。多くのBスクール社内留学生たちは、卒業後は海外の市場で資産運用(当時は『財テク』などと呼ばれた)をする役目が待っていた。

 実はそのころ、国際経済にはもうひとつ重要な動きが始まっていた。

 1986年、ロンドン証券取引所で「金融ビッグバン」と呼ばれる大幅な規制緩和が始まった。証券会社と銀行は相互に業務乗り入れができるようになった。その結果、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、メリルリンチ(three kingsと呼ばれる)などのアメリカ系巨大投資銀行がロンドン市場を席巻、「ウィンブルドン現象」(開催地はイギリスだが有力選手にイギリス人はいない)というジョークが生まれる状態になった。

 少し目の利く日本企業は、Bスクールで「金融自由化」向けの人材育成をしようとしていた。

 この「金融ビッグバン」という規制緩和が日本でも実施されたのは1996年から2001年にかけてである。今では当たり前になったインターネット証券会社や個人向け外貨預金が認められたのは、この「金融ビッグバン」のおかげなのだ。

 そしてロンドンと同じように、東京にも先ほどのスリー・キングスが乗り込んできた。ここにインターネットという情報通信革命が加わって、東京、ロンドン、ニューヨークはほとんど「ひとつの市場」として機能するようになっていく。これが「金融のグローバル化」と呼ばれる現象の基本である。

 こうした「市場から政府の規制を排除し、自由市場を最大限尊重する」という経済政策の流れを「新自由主義経済」という。

 1980年代、米国ではレーガン政権、イギリスではサッチャー政権下に始まった。それ以来、共和・民主党、保守・労働党と政権交代はあっても、経済政策においては、どの政党も新自由主義という点で大差はない。

 遅れてこの潮流に乗った日本も、もちろんそうだ。「小泉改革」を思い出してほしい。郵政事業の民営化や派遣労働の規制緩和は「新自由主義経済政策」の最たるものだ。

 つまり、過去20年余りMBAがもてはやされたのは、米国のビジネススクールが新自由主義経済下のビジネススキルをもっとも手っ取り早く叩き込んでくれる場所だからなのだ。

 例えば、私の周囲には、デリバティブ(金融派生商品)を専門に学んできたMBAホルダーが多い。

 だから、2007年から08年にかけて爆発したサブプライムローン危機で「新自由主義経済」がこっぱみじんに吹き飛んでしまったいま、ビジネススクールが何を教えているのか、私は是非見てみたいと思っている。

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平成大不況のなかなぜ「アラフォー」は消費が活発なのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

「アラフォーが元気」なんだそうだ。

「アラフォー」といっても「40がらみのおっさん」はアラフォーとは呼んでもらえない。女性専用である。

 じゃあ何歳から何歳までが”around fourty”(40歳前後)なんだ、とネットや新聞記事で調べてみると、だいたい40歳プラスマイナス5歳(35〜45歳)が共通理解だということがわかってきた(私はまだアラフォーじゃない!という数字に厳格な女性はプラスマイナス3歳説を唱える)。

 民放テレビとか雑誌とか、広告がらみのマスメディアがある特定の性別・世代を「元気だ」と言うとき、それは「消費行動が活発だ」ということを指す。他の世代に比べてエベレストに無酸素登頂できる人が多いとか、優れたトライアスロン選手が多いとか、そういう意味ではない。

 この「消費行動が活発な層」の条件は二つある。「一人あたりの購買力が大きいこと」=「お金持ちであること」。かつ「マーケットボリュームが厚い」=「人数がたくさんいること」である。つまり「お金をジャブジャブ使ってくれる人がたくさんいる」ことだ。

 企業にすれば、ここをターゲットに商品を開発すれば、モノがたくさん売れて利益がたくさん出る。「いいお客さん」なのである。

 折しも世は平成大不況にサブプライムローン危機が重なった泥沼の不況地獄。かくして、百貨店はアラフォー用オシャレな老眼鏡(いや『リーディンググラス』というらしい)を開発。化粧品会社は12万6000円のスキンクリームを、ホテルは2万円のバレンタインチョコレートを発売。果ては家電メーカーは「料理を作り置きすることが多い30〜40歳の独身女性をターゲットにした大型冷蔵庫」まで売り出した(9万円)。「アラフォー」は乾き切った不況砂漠最後のオアシスのようなもてはやされぶりである。

 アラフォー向け商品を売り出した企業は、マスメディアで宣伝する。スポンサー企業というお客様が広告料を払ってくれるので、マスメディアはアフラフォーが好むコンテンツを考えてCMの受け皿にする。

 テレビドラマはわかりやすい例だろう。「SCANDAL」「Around 40~注文の多いオンナたち」(TBS)「四つの嘘」(テレビ朝日)など、08年は「アラフォードラマ」の花盛りだった。

 天海祐希、鈴木京香、永作博美と実物のアラフォーを揃え「アラフォー視聴者が共感できるテーマ」(選択肢が増えすぎた現代女性の不安とかなんたらかんたら)を演じさせればOK。

 こう言ってしまうと実もフタもないようだが、そもそも「アラフォー」のように人口集団を「性別」と「年齢階層」という縦軸・横軸で切る考え方そのものが、マーケティングの発想であることをお忘れなく。

 ひとつだけ疑問が残る。じゃあなぜ、アラフォーはこの大不況の時代にそれほど「いいお客」なのだろう。まず、アラフォーの生まれた年を逆算してみよう。冒頭の例だと1963〜73年になる。

 ちょっと視点を変えてみる。雇用における性差別を禁止した「男女雇用機会均等法」が施行されたのは1986年だ。

 この法律以前、「女子学生はキャリア採用なし」とか、タリバーンみたいな性差別が日本でも当たり前だったのは、この欄でも書いた。

「女性と男性の給与待遇が同じ」つまり「女性の経済力=購買力が男性と同じ」時代が来たのは、86年からだ。つまり一般企業にとって女性が重要なお客様の仲間入りをしたのは、この年からだったといっていい。

 何を隠そう、この年に大学を卒業した女子学生が1963年生まれなのだ。86年といえば、バブル景気の真っ盛り。就職も楽勝だった。筆者はまさにこの世代。「地方私大文学部卒」の女性たちがロクな就職活動もなしに給料の高い企業にボコボコ就職するのを目撃した。

 この「就職楽勝期」が終わるのは、バブル景気が吹き飛んだ翌年、1993年からである。つまり逆算すると、アラフォー世代のうち1963〜69年生まれまでの層は「就職は楽勝。しかも男性と同じ購買力あり」ということになる。それで独身なら扶養家族もいないのだから、可処分所得が大きいに決まっている。これが「アラフォー」の「オーバー40」組の正体である。

 では「アンダー40」はどうだろう。

 日本が少子化を迎える前、最後の人口的膨らみである「団塊ジュニア」の定義は様々だが、広めに年齢層を取ると「1971〜79年生まれ」である。はい、もうおわかりですね。71〜73年生まれの団塊ジュニアこそ「アラフォー・アンダー40」のことなのだ。彼女たちはもちろん均等法世代だから購買力は男性並み。就職難だったとはいえ、人数が多いからマーケットとしては大きい。

 かつて90年代前半「F1層」(20-34歳の女性)が大きなマーケットとしてもてはやされたのをご記憶だろうか。

 あれは均等法で豊かになった女性が、重要な購買層として姿を現した初めての現象だった。さて「F1」に15歳足してください。きっちり「アラフォー」になりませんか?
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小室哲哉逮捕に思う CD売れなくても音楽不況じゃない! ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 オバマ大統領就任式のはれやかな記事で一杯の夕刊(1月29日付)を開いたら、その隣に、やつれた小室哲哉が大阪地裁に入っていく記事が出ていた。

 詐欺罪で起訴された小室の裁判が始まったのだ。

 白髪が浮き、顔色の悪い小室、50歳。

 力強い笑顔のオバマ、47歳。

 多重債務者&詐欺犯と、初の非白人米国大統領。つい7年前までは小室も高額納税者に名を連ねる権勢の絶頂にいただけに、まるで日本のレコード業界の沈没を象徴するようで、このコントラストは残酷だった。

 1990年代、TRFや安室奈美恵、Globeを送り出した小室は、間違いなく「Jポップ」成功の功労者だ。

 日本のレコード市場が成長のピークを迎えたのは1998年だった。

 「オーディオレコード」(CD,アナログ盤、カセットなど音楽ソフトの総称)の生産金額は戦後最大の6075億円と、それまでの約10年で市場規模は2倍に急成長したのだ(日本レコード協会による)。
 この時期は、小室が人気の頂点へと上っていく時期と一致している。

 そして、小室が借金地獄に転落していくのに合わせるかのように、日本のレコード市場も急激な不況に見舞われ、08年はとうとう最大時の半分以下(2961億円。前年比89%)にしぼんでしまった。「Jポップ景気」は終わったのだ。

 しかし! と、私はあちこちで強調して回っているのだが、いまの日本は「CD不況」ではあるが「音楽不況」では決してない。「CDが売れない」からといってミュージシャンや作曲家が不景気に苦しんでいるかというと、そんなことはない。むしろ実態は逆なのだ。

 もっとも雄弁な証拠として「著作権使用料」の増減を見てみよう。

 音楽のレコードが売れたり、テレビで使われたり、カラオケで歌われたりすると、必ず「著作権使用料」が著作権の保持者・管理者に支払われる仕組みになっている。この著作権使用料、CDの売れ行きがダウンしていったその間にも、むしろ増えているのだ。

 例えば、先ほどのオーディオレコードの生産額がピークだった1998年には985億円だった著作権使用料(日本音楽家著作権協会=JASRAC調べ)は、2007年には1156億円に増加している

 つまり、作曲家やミュージシャンへと流れるお金はむしろ増えているのだ。CDの売れ行きが激減しているのに、一体なぜだろう。

 簡単に答えを言ってしまえば「CD以外の新しい音楽メディアが続々と登場したから」だ。

 確かに、CDの売れ行きが減ったためCD関連の著作権使用料収入はガタ減りである。

 が、一方で通信カラオケやインターネット経由の音楽配信、音楽DVDといった新興メディアが次々に登場、CD関連が減った分を埋め、それどころか著作権料全体を押し上げた。

「ネットの音楽配信って、いつの間にそんなに大きくなったの?」と不思議に思われるあなた。

「iTune Store」のようなPC端末型インターネットストアだけが「ネット音楽配信」ではないことにどうぞご注意を。日本には「着メロ」「着うた」「着うたフル」という、携帯電話をメディアとする巨大な音楽ネット配信市場がある。

 そういう意味では、携帯電話は1億583万台(08年12月)も普及した、莫大な数の「音楽再生機」なのだ。おかげで、インターネット音楽配信としては、ネットストアより携帯を端末とする「着うた」系の方がはるかに大きな市場を誇っている。

 アナログにせよデジタルにせよ、音楽を運ぶメディアがレコードだけだったころは話が単純だった。「レコードの売れ行きをカウントしたヒットチャート=人気の指標」だったからだ。

 しかし、音楽を消費者に運ぶメディアがこれだけ入り乱れると、「着うたダウンロード数チャート」「iTune Storeチャート」「音楽DVDチャート」等々、様々なメディアごとにヒットチャートが成立してしまう。

 そして、それぞれの楽曲の売れ行きを見てみないと「誰の何の曲に人気があるのか」が、さっぱりわからない。音楽メディアが違えば「人気曲」がちがうことだって当然あるだろう。複雑だ。

 いま著作権使用料全体に占める「オーディオディスク」(CDなど)の割合は18.7%にすぎない(07年。JASRAC調べ)。

 DVDやビデオは14.6%、インターネット配信は7.2%だ。近い将来、CDと他の音楽メディアの比率は、並ぶか、逆転する可能性が高い。

「レコードの売れ行き=人気の高さ」という伝統的な「ヒットチャート」は終わるだろう。

 そして何が人気曲なのかわからない、ものすごく多様で、ものすごくややこしい時代が来る。

(文中敬称略


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平成大不況唯一の成果は優秀な人材が企業からNPOに流出したこと ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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「勝ち組vs負け組」「正規雇用者vs非正規雇用者」「ワーキング•プア」「ネットカフェ難民」「貧困問題」などなど。

 言葉は違えど、結局指し示すところはみんな同じだ。日本が「一億総中流社会」から「貧富格差社会」へ、はっきり変化したという事実である。そして、この変質はもう元に戻ることはないだろう。

 日本企業は平成大不況にすったもんだ苦しんだあげく、かつて「日本的経営の美徳」と言われた「終身雇用制度」(同じ会社が新卒入社から定年退職まで雇用を保障すること)を破壊するという、昔なら「やっちゃいけないこと」に手を染めた。つまり「リストラ」という美名でごまかした、従業員の「首切り」「解雇」だ。英語でいうlay offである。

(1)正規雇用者をクビにする(2)人件費の安い非正規雇用者(『派遣社員』『契約社員』『アルバイト』『パート』など)で補充する(3)新卒採用を減らす(これは若年失業者を増やす原因になった)(4)業務をコストの安い外部企業に委託する(アウトソーシング)(5)生産部門など業務の一部を人件費の安い海外に移す。

 どれも「人件費」というコストを削減しようとしているという点では同じだ。「人件費」とは給料だけを意味しない。医療保険、年金、家賃や通勤費補助など、正規雇用者なら当然の権利として認められている金銭的支出が徹底的に削られる。

 少子高齢化で、国内市場の拡大など絶望的だ。売り上げが伸びないなら、コスト(支出)を削るしかない。

 この首切りという「やっちゃいけないこと」、やってみると「意外においしい」ことを経営者は覚えた。みんなが一斉にやったので社会的非難も拡散してしまった。コストダウンで経営が改善されると経営者や企業は株価で評価アップされるし、製品やサービスを値下げできれば消費者にも喜ばれる。

 というわけで、一度「やっちゃいけないこと」をやって味をしめた経営者が、昔の終身雇用制に戻ることなど、もうありえないだろう。

 困ったことに、労働者と、安価な商品を求める消費者は、往々にして一枚のコインの裏表だ。場合によってはネット株や401K(年金ファンド)の株主かもしれない(こういうふうに市民が株主でもあり企業従業員でもあるという状態をロバート・ライシュは『スーパーキャピタリズム』と呼んでいる=『暴走する資本主義』)。

 こうして、貧困に陥った消費者は安価な製品を求める→企業はコストダウンに励む→またレイオフが増える→自分の首を絞めると、日本社会はとんでもないネガティブ•スパイラルにはまり込んでしまったのである。そこにサブプライムローン危機まで襲いかかってきたものだから、もう地獄だ。

 明るい材料はないのか? 申し訳ないが、まったく見えない。

 長らくの雇用慣行を捨てて冷静に考えてみると、企業は慈善組織ではないことを経営者は悟ってしまった(終身雇用制度下の日本企業は福祉組織的な性格を帯びていた)。

 利潤を上げ株主に利益を最大限還元するのが彼らの仕事だから、今のコースを変更する経営上の理由はない。好き嫌いや善悪は別にして、それが資本主義の現実だ。日本でも、いつの間にか認識がそういうふうに変化してしまった。

 唯一の希望ではないかと私が思うのは、こうした貧困•格差問題に取り組む新しい世代の人材が、NPOを舞台に次々に誕生していることだ。

 例えば「自立生活サポートセンター•もやい」は、住所不定状態にある人たちにアパート入居時の連帯保証人の提供や、生活困窮者への生活相談を活動の二本柱にしている。その事務局長•湯浅誠は、1966年生まれ、東大法学部の博士課程修了という経歴を持つ(筆者注:09年に民主党/鳩山政権が誕生して国家戦略局参与になった)。

 私もインタビューしたことがある。穏やかで心優しく、かつ頭の切れる人だった。

「貧困は自己責任」という言説に反論し、人々が滑り台を落ちるように貧困に陥っていく原因を分析した「反貧困」(岩波新書)で大佛次郎論壇賞を08年に受賞している。

 NPO「コトバノアトリエ」を主宰する山本繁は1978年生まれ。慶応大学環境情報学部を卒業後、02年からNEETや引きこもり、不登校の若者のための自立支援活動をしている。

 インターネットラジオ「オール•ニート•ニッポン」、漫画家や芸術家志望の若者のためにグループホームを借り上げる「トキワ荘プロジェクト」など、アイディアと行動力が豊かだ。何より本人が明るく元気なので、見ていて楽しい。

 湯浅や山本のような若い世代のアクティビストたちは、これまでの団塊の世代の「市民運動家」とはまったく違う。まず「政府は何かして解決しろ」とは言わない。政府に要求せず、自分たちの手で解決策をつくる。政策提言をする。政府に要求しないから、政党とつながりがない。

 マルクス主義や社会主義とも無縁のポジションから出発している。だから政治色も政党色もない。非常に現実的かつ実務的である。インターネットを組織の要にしている。たまにリアルの世界で示威行動もするが、ラディカルなところがない。

 一昔前なら、おそらく湯浅や山本のような「高学歴」な人材はNPOに「就職」したりはしなかっただろう。「いい大学出て、いいカイシャに入って、定年まで安泰」という終身雇用制を基盤にした

「ジャパニーズ•ドリーム」がこっぱみじんに破壊されて良かったことといえば、NPOに有能な人材が流入していることくらいだろうか。(文中敬称略)
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オバマ大統領が象徴する「アメリカの世紀」の終わり ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 世界を支配する超大国(super power)の条件「三つのM」とは何か、ご存知だろうか。

 Military(軍事力)、Media(マスメディア)、そして Money(通貨)の力である。

 1991年にソ連が崩壊•消滅してから、この三つのMを兼ね備えている国は世界にアメリカしかない。日本はマネーでは強いが、軍事やメディアの海外での影響力がゼロに等しいので、大国にはなれても超大国にはなれない。

 米国の軍事力の強さは言うまでもないだろう。人類を破滅させることができる量と輸送手段を持つ核兵器はもちろん、世界のどこで何が起きても対応できる通常兵器と兵力、輸送力を、他国に頼らずに行使できるのは米国だけだ。

 米国のマスメディアの世界的な優位は、時代が変わっても一貫している。1980年に開局したCNNの影響力は今も健在だし、インターネットという新しいマスメディアも米国生まれ。マイクロソフト、ヤフー、グーグルと、インターネットメディアの新しい主役たちはどれも米国から登場している。

 そして国際基軸通貨としてのドル。

「基軸通貨」の定義はいろいろあるが「国境を越えたモノや資本の決済に使える信用」=安心感が一番大事だ。

 外国と商売をしてドルで代金を受け取っても、それが突然紙くずになった、自国通貨に交換したら大損した、なんていうことがない。こういう安心感を「通貨価値が安定している」という。「通貨価値が安定している」ためには「米国の政府や金融システムが安定している」ことが必須だ。

 政府が崩壊状態になり、1ヶ月のインフレ率が279京%(1京=10の16乗)なんてジンバブエ•ドルは、絶対に基軸通貨にはなれないのだ。

 ただひとつ問題なのは「安定しているかどうか」は主観的な判断だということだ。つまり世界の人々が米国政府や金融システムを「信用」しなければ、ドルは基軸通貨として機能しない。「ドルは危ないから受け取りません」と人々が言い出せば、基軸通貨としてのドルは崩壊する。

 ここまで説明すれば、過去8年のブッシュ政権の愚策がいかに米国の「信用」を破壊したか、お分かりだろう。

 まずイラク戦争。9.11テロでパニックしたブッシュ政権が、「イラクに大量破壊兵器がある」というウソ情報に飛びつき、9.11テロには何の関係もないイラクをムチャクチャに破壊してしまった。逆立ちしても正当化しようがない阿呆な戦争である。

 これで「米国政府」への信用はぺちゃんこ。

 そしてサブプライムローン危機。「グローバル•スタンダード」などといばっていた米国の金融システムの正体が「金融工学」(ルビ:デリバティブ)で膨れ上がったモンスターのような「バブル」にすぎなかったことがバレてしまった。

 20世紀の100年間に、人類は2度の世界戦争を経験した。そしてどちらの戦争でも勝敗を決定したのは米国だった。

 特に1945年以降、米国の軍事力とドルが、安定した平和と貿易を保障したため「先進国」と呼ばれる資本主義国は平和と経済繁栄を享受できた。

 この時代を歴史学や政治学では「Pax Americana」と呼ぶ。ラテン語で「アメリカ支配による平和」の意味だ。(歴史上ローマ帝国支配による平和のことをPax Romana、英国の世界支配による平和のことをPax Britanicaと呼ぶのにならう)

 戦後、米国の軍事力の保護下で経済発展を遂げた日本は(お礼の意味かどうかわからないが)、米国債をせっせと買った。

 実は、米国政府が赤字をジャージャー垂れ流しても、ドルの信用崩壊を気にせずに済んだのは、チョー友好的な日本が「国債を買う」という形でいくらでもおカネを貸してくれたからなのだ。

 だから歴代の大統領は「日米関係は世界でもっとも重要なパートナーシップ」とヨイショしてくれたのである。

 ところが、経済発展した中国がいつの間にか米国債を買いまくり、08年9月、とうとう日本を抜いて世界最大の米国債保有国になってしまった(中国=5850億ドル/日本=5732億ドル)。

 日本に比べると、中国はどう見ても米国に友好的な国とはいえない。そんな国にサイフを握られたら、米国の信用は、ドルの信用はどうなるのか。

 それを見透かしたかのように、サルコジ仏大統領は08年11月の金融サミット直前「ドルはもはや唯一の基軸通貨とは言い張れない」と演説している。

 では、ドルに代る基軸通貨があるのか? 見当たらない。

 政府も金融システムも信用を失ったまま「代わりがないから」という消極的理由でドルが基軸通貨に居座り続けると、どうなるか。

 米国=ドルはますます不安定になり、世界はぶんぶん振り回され続ける。オバマは「パックス•アメリカーナ」の最終章を飾る大統領になるかもしれない。


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オバマ大統領誕生は人種差別の克服なのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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バラク•フセイン•オバマ。留学生だったイスラム教徒のケニア人、バラク•オバマ•シニアを父、白人のアメリカ人文化人類学者アン•ダナムを母に、ハワイで生まれる。母がインドネシア人と再婚したためジャカルタで10歳まで過ごす。母方の白人家庭で育ち、コロンビア大学、ハーバード大学ロースクールという、白人が圧倒的多数の東部アイビーリーグを卒業した優等生。人種的には「アフリカ系」だが、奴隷を祖先に持たない。宗教はプロテスタント。

 この第44代アメリカ大統領の生育歴をたどるだけでも、もはや「アメリカ人」は日本人が想像するような「黒人vs白人」などという単純な図式では理解できないことがわかる。

 私の周囲でも、コロンビア大学院や記者の仲間には「インドネシア人とコロンビア人のハーフ」「ハンガリー系ユダヤ人とアイルランド系のハーフ」「イラク系ユダヤ人」と、想像を超えるエスニック•バックグラウンドの友人がごろごろいる。

 私がジョークで「あなた一体、何人?」と聞くと、彼らはいたずらっぽく笑って「『アメリカ人』としか言いようがないな」と答える。

 ところが日本のマスメディアのオバマ報道は、実に古くさい。「キング牧師の夢がかなった」とか、まるで40年前の公民権運動時代で時計が止まったようなステレオタイプな図式のままだ。

 自らもアフリカ系のコラムニスト、エリス•コースは「バラク•オバマの偉業は、ある意味それほど大したことではない」と言い切っている。「共和党の現職大統領がのけ者扱いされ、また現政権が主導してきたアメリカの金融が崩壊した年、つまり民主党候補の勝利が当然の年に勝ったまでだ」(ニューズウィーク誌08年11月19日号)。

 その通りだ。コリン•パウエル、コンドリーザ•ライスと、日本の報道では「マイノリティに冷たい」はずの共和党(ブッシュ)政権でさえ、アメリカ外交の最高責任者(国務長官)を務めたのは揃ってアフリカ系だったということをお忘れなく。キング師は天国で「私の夢はとっくの昔に実現しとる」と言っているだろう。

 キング師時代の公民権運動から生まれた「Affirmative Action」(AA)という制度をご存知だろうか。「少数派優遇政策」などと訳される。アフリカ系、ラテン系、女性など社会的に不利な立場に置かれているマイノリティを積極的に優遇し、多数派の白人と同じスタートラインに立たせるという制度だ。大学入試や企業の採用に人種、性別、宗教、出身国などの「枠」を設け、地域の人口と同じ構成比になることを求める。有り体に言えば「ゲタをはかせる」のだ。

 この言葉が初めて使われたのは1965年、ジョンソン大統領が発した大統領令である(念のため。アメリカ以外の国にもAAはある。日本の『障害者の雇用の促進等に関する法律』が定める義務雇用率はその一種。女子特別枠を設けている大学や企業も日本にちゃんとある)。

 この制度が生まれた1960年代以降、アフリカ系の大学進学率が上がったことは間違いない。1970年に6.7%に過ぎなかったアフリカ系の大学進学率は20年で倍になった。1990年。医師、弁護士、教師、エンジニア、官僚など様々な専門職にアフリカ系が進出するドアを開いた。

 働き盛りの主要所得者(35-44歳)を持つ既婚家庭に限ると、平均所得は同じ20年の間に年2万7000ドルから4万3000ドルへと増加。「アフリカ系中産階級」が急増、白人家庭との格差は縮まっている。カルフォルニア州立大学のように「AAの役割は終わった」と廃止する動きさえ出ているほどだ

(それでも『AAは逆差別だ』『いや、まだ差別は解消していない』と全米で訴訟や論争が続いていることは強調しておく)。

 その結果、アフリカ系の中でも中産•富裕層と貧困層が分離している。白人、ラテン系内でもそうだ。私が大統領選のため全米を取材した1996年(クリントン政権2期目)の時点ですら、これは明白だった。こうして見ていくと、1961年生まれのオバマを理解するのに「アフリカ系→奴隷の子孫→差別の被害者→貧困」といったステレオタイプがいかにピント外れか、おわかりだろう。

 断言するが、人種問題に拘泥していると、いまアメリカ社会の本当の対立軸になっているものを見失う。それはレーガン大統領以来、共和党•民主党政権問わず続いた新自由主義経済(政府の経済への介入を極端に嫌う自由市場原理主義)が悪化させた、経済格差である。それは日本の「格差社会」と、原因も結果もまったく同じだ。そして、状況はサブプライムローン危機でいっそう悪化している。オバマはそんな最悪の時にアメリカ大統領になるのだ。



マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝

マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝

  • 作者: バラク・オバマ
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2007/12/14
  • メディア: 単行本



Numero TOKYO (ヌメロ・トウキョウ) 2009年 02月号 [雑誌]

Numero TOKYO (ヌメロ・トウキョウ) 2009年 02月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2008/12/26
  • メディア: 雑誌



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地球温暖化には原発しか選択肢がないってホント!? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 この夏「地球温暖化防止のため」と、エアコンの設定温度を28度にして汗だくで我慢したエコ派のみなさんにはショッキングなお知らせです。

 みなさんの努力は無駄でした。それどころか、いま世界で原発が建設ラッシュです。そう、エコ派が「環境保護派」と呼ばれた90年代、彼らがあれほど忌み嫌った原子力発電所が、です。

 今回はこの壮大な皮肉についてご説明しましょう。

 まず、基本的な事実から押さえておこう。エコ派の涙ぐましい努力にもかかわらず、日本の家庭用電力消費量はバブル期の80年代から一貫して増え続け、まったく減る気配がない(エネルギー資源庁による)。

 その大半は「照明•エアコン•テレビ•冷蔵庫」である。

「え?ウチは節電型使ってるのに?」なんて言っているあなた、食器洗浄機だとか大型液晶テレビとかパソコンとか、新しい家電製品、買ってません?それじゃだめです。

 個人消費が衰え、泥沼の平成不況でもがく日本ですらそうなのだから、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)など工業化が進む国々の電力需要は伸びる一方である。

 中国には13億人、インドには11億人の巨大な人口がいるのだ。特に中国は過去5年、2ケタの勢いで電力需要が伸びている。つまり、世界を見渡すと電力需要は衰えるどころか、増えるばかりなのである。

 さらに21世紀に入って、二つの問題が発生した。ひとつは「地球温暖化は世界の危機だ。その防止のため、CO2排出量を削減しよう」という合意が先進国で生まれたこと。

 ドキュメンタリー映画「不都合な真実」はご覧になっただろうか。あの中でアルバート•ゴア元米副大統領が力説していた話だ。

 CO2を大量に発生させる元凶は、化石燃料(石油、石炭、LNG=液化天然ガスなど)を燃やして動く機関である。例えばガソリンで走る自動車はその代表。そして、言うまでもなく火力発電もそのひとつだ。

 日本の場合、発電電力量の60%が火力発電によってまかなわれている(ちなみに水力は9%、原発は31%。いずれも06年)。

 電力需要は増える一方なのに、「地球温暖化の元凶CO2を出すから、火力発電の稼働は減らしていきましょう」という無理難題が持ち上がったのである。

 風力発電もソーラー電池も、日本や欧米のような電力大量消費社会を支える主軸としては、まったく歯が立たない。じゃあ、仕方ない。原子力発電しか選択肢がないですね。政府はそう判断するわけだ。

 エコ派には皮肉なことに、原子力発電はCO2をほとんど発生させないのだ。

 もうひとつの問題は、石油価格の暴騰である。1年前にはリッター90円代だったガソリンが08年夏には180円代が当たり前というメチャクチャな上昇ぶりで、これはみなさんご存知のとおり。

 これでますます「火力発電は燃料コストが高すぎて割に合わない」という状況になってきた。さらに01年の同時多発テロ以降、イラクやアフガニスタンでの戦争、テロや誘拐の多発と、中東情勢が不安定になってきたため、エネルギーの中東依存度を下げようという動きが先進国で始まった。

 かくて、まずアメリカが2005年に「包括エネルギー政策法」で約30年ぶりに原発推進に方向転換したのを皮切りに、世界中で「脱原発はもうやめた」という動きが始まった。

『週刊エコノミスト』08年6月24日号によると、世界でいま439基の原発が稼働中であり、36基が新たに建設中、93基が計画中だそうだ。

 反原発運動はなやかなりし01年、連邦議会が「脱原発法」を可決、19基の原発を2021年をめどに閉鎖することを決め、環境保護派から聖地のように絶賛されたドイツでさえ、世論は激変している。

 世論調査によると、原子炉の稼働継続賛成派は54%にも上っている。今年8月の原油価格は、脱原発法が可決されたころ(1バレル20ドル)の6倍。おかげでドイツ国民は電気代の値上がりに泣かされている。そんな「財布の事情」も背景にあるようだ(『Newsweek』08年9月3日号)。

 地球温暖化に抵抗すると、原発が激増する。エコ派にとっては悪夢のようなアイロニーである。この矛盾をどう解決するのか。かつての環境保護派は沈黙している。誰か答えを知らないか?

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デイ・トレーダーなんて簡単だ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


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 ここだけの話だが、株の売買でもうけるのなんて、簡単だ。

 株を買い、その買い値より高い値段で売ればいいのだ。その差額があなたの利益になる。

 もし買ってその日のうちに売ったなら、あなたは「デイ・トレーダー」と呼ばれる(昔は『日計り商い』と呼んだ)。

 いや、差益さえ出れば、一日で売ってもいいし、何年か寝かしてもいい。

 空港の免税品点で安く買ったコスメやフレグランスをネットオークションで売る(やったこと、あるでしょ?)のと同じ。

 オークションも株式市場も「売る人と買う人の出会いの場」=「マーケット」という点では同じだから、似るのは当然なのだが。

 難しいのは、あなたが買った株が、これから値上がりするのか、値下がりするのか、誰にもわからないことだ。

 買い値より下がれば、あなたは損をする。「いつ売ればいいのか」も、わからない。昨日までバンバンに利益が出ていたのに「明日まで待てば、もっと値上がり」と欲張ったせいで、次の日には大暴落、ということもよくある。

 この「買った値段より値下がりすること」を「元本割れ」という。ここが銀行などへの「預貯金」と違う点だ。つまり損するリスクはあなたが引き受ける。「自己責任」だ。

 もちろん、あなたにそこそこの経済知識があれば、経済の動向や、企業の財務を分析して「この会社なら成長して株価値上がり間違いなし」と「合理的な根拠」に基づいて株を買えば、値上がり有望株を見つけることは可能だ。

 例えば「液晶ケータイが爆発的に普及する」と読んで、安値で液晶部品の会社の株を買っておいた人は、今ごろ大もうけしているだろう。

 これから団塊の世代が高齢化するから、老人用オムツ会社の株を買っておくなんてのもいい(かも)。

 だが、株のケッタイなところは、ある企業の成績が絶好調でも、全然関係ない、予測不可能なリスクが発生して値下がりすることだ。

 例えば悪徳企業「うがやまんじゅう」の産地偽装がバレて、うがや株が暴落したとする。

 すると正直経営の「ヌメロまんじゅう」株まで「まんじゅう関連」というだけの理由で投げ売り状態になり、暴落したりする。ヌメロ株が売られる合理的な理由はない。単なるとばっちり。「株式市場は合理性ではなく集団心理で動く」と言われる由縁だ。

 ちなみにイギリスの経済学の重鎮ケインズは「株式市場は美人コンテストみたいなものだ」と喝破している。

 もっと不可解なことも起きる。あなたが何年も大切に成長を見守ってきた企業の株主だとする。株価も順調に上昇、含み益もばっちり。

 ところが、あなたの知らないどこかのヘボ投資家もその株を大量に持っていたとしよう。そのヘボ投資家が他のどうしようもない会社に投資して大損。

 すると、損を埋めようと、先の健全会社の株を大量に売って利益を確保しようとする。当然、健全なはずのその企業株は暴落。経営はまったく健全、何の落ち度もないのに、顔も知らないどこかの阿保がヘマをしたために、あなたも地獄に引きずり込まれる。しかもなぜ暴落したのかさえわからない。そんなことが起きる。

「そんなややこしてく危ない世界、足を踏み入れたくないわ」。そう思うあなた。ごもっともです。

 じゃ、銀行に貯金しますか?いま公定歩合は0.75%(08年8月)とチョー低金利のままピクリとも動きません。100万円預けて年7500円の利息です。ちょっと豪勢な晩メシ代レベルですね。

 80年代のバブル時代には、利率6%の5年もの複利定期預金があって、100万円預ければ寝てても5年後には30万円以上もうかった、なんて話は何だったのでしょう。

 一方、企業は年金(いわゆる厚生年金)への出資が重荷になってきたため「401K」という「株式・債券パッケージ(ファンドという)のアラカルト年金」に飛びついた。

 2001年に導入されたこの401K、いま加入者は250万人いるという。が、401Kも「元本割れアリ」の自己責任商品なのだ。案の定、その後の株式市場の停滞と低金利で401Kはひどい状態に陥っている(『讀売ウィークリー』08年3月23日号)。

 一方の公的年金がメルトダウン寸前であることは以前に本欄でも書いた。これが老人福祉の行く末とは、残酷で無責任な話だ。

 つまり、私たちにはもう選択肢がほとんどないのだ。

「デイ・トレーダー」を「ゲーム感覚の不労所得収入者」などとステレオタイプな偏見で見てはいけない。欧米では「個人投資家」などありふれた存在だ。

 年金も銀行も頼りにできないのなら、市民が自己防衛することは至極当然である。少なくとも、ネット株取引のような身近な場所で学習した、ファイナンス・リテラシーが高い市民が増えるのはいいことなのだ。企業も株主には弱い。「IR」という名前で情報開示を積極的にするようになったのがその証拠である。

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インターネットに自由の危機が来ている ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 3回ほど前の本欄で、検索エンジン「ヤフー」や「グーグル」が中国政府の情報統制に協力している疑いがある、という話を書いた。中国で「チベット独立」「天安門事件」なんてキーワードで検索しても、政府寄りのサイトしかヒットしないのだ。

 インターネットで市民が手に入れる情報を、政府が自分の都合のいいようにコントロールしようとしている例として覚えておいてほしい。

「でも日本は中国とちがって政府が検閲なんてやらないし、やっぱり自由な民主主義国はいいよね」。

 そう思いますか? ちょっと待った。

 日本ではインターネットでどんな情報でも自由に手に入る権利が保証されているのだろうか。

 そんなに事態は楽観的ではない。実は、日本でもインターネット規制の動きは始まっているのだ。

 気をつけた方がいいのは「総務省」の動きだ。

 総務省はかつて「郵政省」と呼ばれたころから、テレビ・ラジオ局の免許発行や電波の割り当てを一手に引き受けてきた、強力な権限を持つ官庁である。

 そう、郵政省=総務省は郵便屋さんの親分じゃない。その正体は、マスメディアに強力なコントロール権を持つ『情報産業省』なのです。

 その最高責任者である総務大臣は内閣総理大臣が任命する。つまり与党政治家の直轄領だ。

 その政治家の直轄領官庁が、放送やインターネット上での自由を規制する法律を作ろうとしている。そんな妙な動きがあるのだ。

「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」という研究会が総務省にある(名前がややこしいのは、それだけで国民の関心が低下するという官僚がよく使う作戦なのでご辛抱を)。

 総務省が「インターネットを含めたマスメディアに流れるコンテンツを規制する法律案の下ごしらえをする集まり」と考えてもらえればいい。

 07年12月、この研究会が背筋の寒くなるような最終報告を出した。

「憲法上の『表現の自由』との関係では、名誉毀損、わいせつ物、犯罪のせん動など、表現活動の価値をも勘案した衡量の結果として違法と分類されたコンテンツの流通は、そもそも表現の自由の保障の範囲外であり、規制することに問題はない」

 驚くほかない。報告書は「名誉毀損、ワイセツ、犯罪をあおるコンテンツなんか、憲法が保障する言論・表現の自由の対象外だ」と言い放っているのだ。

 ムチャクチャな暴論である(日隅一雄著「マスコミはなぜ『マスゴミ』と呼ばれるのか」現代人文社)。

「どこがおかしいの? わいせつ物って、ポルノでしょ?ポルノは規制されてもしょうがないんじゃない?」と思うあなた。

 米国の写真家ロバート・メイプルソープの写真集を見たことはありますか? ゲイだったメイプルソープは、男性の裸体を美しいオブジェとして撮影しましたよね。

 当然そこにはペニスも写っている。そのメイプルソープの写真集を「わいせつ物」と最高裁が判断したのは、1999年。

 ところが、9年後の08年2月には、同じ最高裁が「わいせつ物ではない」という判決を下している。

 そう「わいせつ」と「芸術」の境界線なんて、時代によって刻々変動するものなのだ。

 それをばっさりとひとまとめに「ワイセツだ!」と政府が非合法化し、インターネットやマスメディアから追放してしまったら、どうなるか。第二、第三のメイプルソープが永久に私たちの目に触れないまま葬られてしまうかもしれない。

 こっそり「名誉毀損」なんて項目が挿入されているのも怪しい。

 13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を朝日新聞のコラム「素粒子」が「死に神」と揶揄した事件など、鳩山大臣がこのコラムの筆者を名誉毀損で訴えたらどうなるか。総務省の思惑通りの法律が成立した暁には、インターネットでは「言論の自由の範囲外」として法律違反になってしまう。

(注:このコラムを書いたあと、鳩山邦夫は総務大臣になった)

 規制の網がかけられるのは、プロのジャーナリストだけではない。ブログの筆者にも同じ扱いが待っている。

 匿名ブログだろうが、ISP法の開示請求で筆者が誰かを特定できるから、同じだ。

 政治家批判だけではない。軽いノリで「Pってコンビニの弁当、腐ってたぞ!」「Qの化粧品を使ったらジンマシンが出たの〜」「Rホテルのサービス、マジ最悪」なんてことをブログに書いたら、そのP社やQ社やRホテルから名誉毀損訴訟を起こされるかもしれない。

 いや「訴えられるかも」「法律違反になるかも」という恐怖が伝染するだけでいい。それだけで普通のブロガーたちは足がすくんで自主規制するだろう。

 気をつけてほしい。言論・表現統制は必ず「わいせつ物」だとか「犯罪をあおる」だとか、いわゆる「有害コンテンツ」から始まる。誰も文句を言わないからだ。

 そして、気付いた時にはすでに遅し。政治家や大企業、官僚、役所といった「力のある者」を批判する自由がごっそりと奪われているだろう。そんな日本に、あなたは住みたいですか?


Mapplethorpe

Mapplethorpe

  • 作者: Robert Mapplethorpe
  • 出版社/メーカー: Random House
  • 発売日: 1992/10/27
  • メディア: ハードカバー



Robert Mapplethorpe, 1970-83

Robert Mapplethorpe, 1970-83

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: Inst.of Contemporary Arts
  • 発売日: 1983/08
  • メディア: ペーパーバック



Robert Mapplethorpe und die klassische Tradition

Robert Mapplethorpe und die klassische Tradition

  • 作者: Germano Celant
  • 出版社/メーカー: Hatje Cantz Verlag
  • 発売日: 2004/08
  • メディア: ハードカバー



世界中でオールドメジャーメディアが臨死状態 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 2007年から今年にかけて、長年「クオリティ・ペーパー(高級紙)」の名を誇ってきた欧米の名門新聞が次々と身売りや経営危機に陥っている。

 中でも世界を驚かせたのは、07年7月、メディア王ルーパート・マードック氏率いる「ニューズ・コーポレーション」社が「ダウ・ジョーンズ」社を総額56億ドルで買収した事件だ。

 その結果DJ社が発行しているアメリカの名門経済新聞「ウォールストリート・ジャーナル」がマードック氏の手中に落ちたのだ。

 同紙といえば世界の経済エリートから最も信頼されている新聞であり、世界経済への影響は極めて強い。

 そのWSJ紙が、これまで英国の「サン」「タイムズ」、アメリカの「ニューヨーク・ポスト」などの「タブロイド紙」(日本でいえばスポーツ新聞)ばかりを買収し「タブロイド紙の帝王」のように揶揄されてきたマードック氏の手に落ちたことの衝撃は大きかった。

 マードック氏はさっそく08年4月からWSJの紙面を刷新、経済専門だった同紙を、国際、文化、スポーツニュースで多角化した。

 これは米国の知識層に絶大な信頼がある高級新聞「ニューヨーク・タイムズ」への挑戦だと言われている。

 現在のNYT紙は、広告収入をインターネットに奪われ、赤字続きで経営はヨロヨロ、金融情報会社ブルームバーグ社による買収説が囁かれる有り様だからだ(『ニューズウィーク』08年4月30日/5月7日号)。

 フランスではすでに高級紙の多くが他業種に買収されている。

 保守系高級紙「フィガロ」は、04年にミラージュ戦闘機を製造する兵器メーカー「ダッソー」がオーナーになった。

 WSJのフランス版ともいえる高級経済紙「レゼコー」は07年に高級ブランド大手企業「モエヘネシー・ルイビトン」に買収されている。これらの大企業はどれもサルコジ政権に近い。これでは自由な政府批判など無理だ。

 フランス語圏では知識層の厚い信頼を誇る「ルモンド」紙ですら、販売部数減と広告減で減収のダブルパンチを食らい、経営は危険な状態にある。

 すでに雑誌・書籍部門は身売りされた。さらに記者の4分の1以上にあたる89人をリストラする経営改革案を提示したところ、編集現場が猛反発。今年4月には、1944年の創刊以来初めて、1週間に2回もストで休刊するという前代未聞の事態に陥った。

 こうした苦境に名門紙が陥った理由は、欧米ともよく似ている。

 インターネット媒体と、広告収入だけで発行される無料紙が急激に勢いを増し、新聞経営の生命線である販売収入と広告収入を失ったのだ。

 これまで、フランスなら記者が株式を持ち合ったり、アメリカなら富裕な資産家(例えばDJ社はバンクロフト家、NYT紙はサルツバーガー家)が株式を非公開のまま所有、外部からの買収を防いできた。

 こうした「新聞社株の非公開」は「紙面の言論の自由」と「経営と編集の分離」を守る防波堤の役割も果たしてきた。それが今、音を立てて崩れ始めているのだ。

 こうした「経営の論理」が新聞編集の現場に持ち込まれると、どんなことが起きるのか。

 自らも記者である下山進は、1995年にアメリカ各地の新聞経営を取材し、予言的な本を書いている(『アメリカ・ジャーナリズム』丸善ライブラリー)。

 それは簡単に言ってしまえば「不採算部門の切り捨て」だ。

 真っ先に血祭りに挙げられたのが「調査報道」(investigative report)だった。下山はその一例として米インディアナポリス市の地方紙「インディアナポリス・スター」紙のケースを書いている。同紙は、2人の記者を1年間潜行取材させて「医療界不正キャンペーン」を1ヶ月連載。1991年のピューリッツアー賞に輝いた。

 ところが、その2ヶ月後に調査報道取材班は上層部に解散させられてしまう。同紙がマードック氏のニューズ社に似たメディア企業に買収され、株式を上場してから、全てが変わってしまったという。

「記者を長時間投入してもたいした増益にならない調査報道などやめてしまえ」というコスト計算らしい。

 こうした調査報道は、議員、裁判官、警察・検察、大企業といった「権力」を監視する、ジャーナリズムにとっての生命線なのだが、損益でいえば「無駄」と判断されてしまう。これは「報道の死亡宣告」に等しい。

 冒頭のマードック氏のように報道の内容に介入したがる経営者が上に来ると、現場の記者としてはさらに厄介なことになる。「あれを書け」「これは書くな」という「社内検閲」が必ず始まるからだ。

 DJ社の買収の際、バンクロフト家に対してマードック氏は「DJ社が長年培ってきた社内規範には介入しないし、介入を示唆することもしない」と約束したと報道されている。

 が、英国「タイムズ」紙を買収した時には「人事に介入しない」という約束を「え?そんな話、全部マジに思ってたのか?」とあっさり反古にしたという逸話を他ならぬWSJ紙(07年6月5日付)が報じている。

 また、ロンドン市立大学の調査によると、2003年のイラク戦争開戦時、マードック傘下の新聞175紙が軍事行動を支持した。

 調査したロイ・グリーンズレード教授は「マードック氏の意向を反映したもの」と指摘している(07年8月12日付毎日新聞)。

 こうなると「経営と編集の分離」もへったくれもない。「経営者によるマスメディアの私物化」だ。かくして、政府や大企業といった権力を監視するジャーナリズムは世界的に絶滅寸前の状態にある。

 おっと、マードック氏はソフトバンクの孫正義氏と組んで1996年にテレビ朝日の買収を仕掛けた「前科」があることをお忘れなく。日本のメディアだって安泰じゃないのですよ。


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エルメスのエールバッグは「シンボリック・メディア」なのです ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 多少古い話。新聞記者を経て大学教員をしている絵に描いたようなインテリキャリア女性が、あっさりと「冬のソナタ」にハマったと聞いて、その魅力を尋ねたことがあります。

 おもしろいことに彼女、登場人物のファッションを観察するのが楽しいんだそうです。

「ユジン(女主人公)の持っている鞄がエルメスのエール・バッグって設定がいいね。あれが同じエルメスでもバーキンだったらリアリティないもん」

 ブランドものに絶望的に無知な私は何のことかさっぱり分からず、家に帰ってインターネットでにわか勉強しました。

 なるほど!バーキンは80万円とか100万円とかするんですね!

 そりゃ小さな事務所に勤めるインテリアデザイナーのユジンにゃ無理だわ。

 おお、エール・バッグは20万円ちょっとか。鞄にしちゃ高いけど、ユジン、奮発して自分にご褒美あげたのかな?軽いし、モノをがばっと突っ込めて実用的だね。現場仕事の多いユジンにはちょうどいいわ。仕事に一生懸命だし、エルメスだし美的センスもさすがだね〜。

 などと想像が膨らむというわけです。

 ここで大事なポイントです。エルメスのエール・バッグは「ユジンの内面を他者に伝える情報伝達物」として機能しているってこと、お分かりかな?

 ユジンがどんな価値観や人格の持ち主なのか、鞄が情報を運ぶ。

 こういうふうに所有者の内面を他者に表現するモノを「シンボリック・メディア」などと申します。

 分かりやすい例でいえば、クルマ。BMWに乗っているのか、白い軽トラックに乗っているのかで、乗り手の内面はイヤでも他者に伝わってしまうでしょ? つまり鞄もクルマも、単なる「持ち物を運ぶ」「移動する」という「機能」だけでは語れないのです。

 もっと踏み込めば「消費=モノやサービスを買うこと」は、シンボリック・メディアを手に入れることです。つまりお買い物は「自己表現」なんです。

 いえいえ、私はブランド鞄のショッピングなんて低俗なことには興味がありません、英会話学校に通い、将来はアメリカのビジネススクールでMBAを取得して自分のキャリアを磨きたいと思います。とおっしゃるあなた。

 ご立派です。でもちょっと考えてください。

 英会話学校には授業料を払わないといけませんね。ビジネススクールだって、学費が必要でしょ? 

 そう、英会話学校とかビジネススクールといった「教育」だって、おカネを払わなければ手に入らない「商品」なんです。

 こういうふうに、ありとあらゆるモノやサービスに価格がつき、商品として流通する社会を「高度消費社会」と申します。

 さて、もしショッピングが自己表現なら、一番大切なことは何でしょう。その商品が自分の所有物となったとき、それを所有する自分を肯定できるかどうか、です。

 例えばあなたが二酸化炭素の増加による地球温暖化に心を痛める人なら、ガソリンをバカスカ食うクルマではなくハイブリッドカーに乗ることでしょう。

 よーく注意してください。ここで購入者であるあなたがより強い関心を持つのは「そのモノを身に付けた結果表現される自分自身」であって、商品そのものではない。

 最終的な関心はあくまであなた自身なのです。こういう商品の選び方を、社会経済学者の佐伯啓思という人は「ナルシシズム(自己愛)消費」と名付けました。

 さらに!1980年代中期以降に初等教育を受けた世代の日本人は「人間には必ず一人一人ちがう個性がある」という「個性信仰」を学校で叩き込まれています。文部省がそういうふうに指導の舵を切ったからです。

 いま、その世代が三十〜四十歳代、収入たっぷりの「消費盛り」の年齢に達している。

 だから、みなさん個性を表現しようと一生懸命ショッピングする。「自分の個性を表現しなくてはならん」「他人と同じではいかん」というオブセッションに取り憑かれているわけです。

 でも、この高度消費社会では、限られた既製品の範囲内で「個性を表現」するしかない。つまり、みんな選んでいるようで選んでいない。これは決して解決することのないジレンマです。

 この傾向は女性に特に顕著です。いつぞや本欄でも書きましたが「日本の企業社会は成人男子しかお手本を用意してこなかった」からです。

 日本女性にはまだ「標準ライフスタイル」が確立していない。だから、企業はありとあらゆる手段を使って「これがあなたの個性です。どうぞわが社の製品でそれを表現してください」と誘ってきます。

 お手本のない女性は「おお、こっちか」「いや、あっちだ」と右往左往するしかありません。それはまるでおもちゃ売り場ではしゃぎ回る子供のようでもありますが「自己愛消費=個性表現」という無限地獄に落ちてもがいているようにも見える。

 息苦しくないですか、ビッグ・ガールのみなさん?


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検索エンジンがあなたの知識を決めていいのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 例えばこのページを開いた読者のあなたが「これ書いてる烏賀陽弘道って一体何者?」と思ったとしよう。

最初にすることは何だろう。

 インターネットがなかったころは、本屋なり図書館に行って「マスコミ電話帳」の「ライター」のページを開く、くらいしか方法がなかった。

 が、今ならグーグルなりヤフーなり「検索エンジン」に「烏賀陽弘道」と打ち込んでネットを検索すればいい。

 たちまち私が卒業した小学校の名前までわかる。試しにグーグルで実行してみたら、0.04秒で9万7200件もヒットした。私のマックのブラウザで表示すると9720ページにもなる。ページを繰っているうちにだんだんうんざりしてきた。

 本人ですらそうなのだから、私を知らない読者なら、最初の1ページか2ページからいくつかリンクを拾って目を通すのが精いっぱいだろう。

 ということは、あなたが「烏賀陽弘道」について知る情報の優先順位は検索エンジンが決めている、ということだ。

 例えば「リンクが張られた数の順番に表示順位を決めている」というグーグルの場合、1番上に来るのは私の個人ウエブサイト「うがやジャーナル」である。これは私が自分で書いているウエブなので、ラッキー。なぜならあなたが「烏賀陽弘道」について真っ先に知る情報は私が自分でコントロールできるからだ。

 これが「烏賀陽弘道」なんて社会の大勢に影響のないキーワードならどうでもいい。

 しかし「チベット独立」とか「ヒラリー・クリントン スキャンダル」といった大きな社会問題だったらどうだろう。グーグルやヤフーがあなたの知識の優先順位を決めてしまって、本当にいいのか? 

 インターネット以前は、こうした「市民がパブリックな問題について何を知るべきか」の優先順位を決めるのはマスメディアの仕事だった。

 新聞に掲載されるのかボツなのか。掲載されるのなら1面トップなのか、2面のベタ記事なのか。NHKが夜のニュースで何番目に報じるのか。どんな週刊誌がどれくらいのページ数を割くのか。

 そんなマスメディアの「ニュース価値の判断」を読者や視聴者は言外のメッセージとして受け取っていた。いまグーグルやヤフーなど「検索エンジン」がやっていることは、それと同じなのである。

 検索エンジンが完全に公正中立ならいい。が、現実はそれほど甘くはない。

 一番有害なのは、検索エンジンが政府の言論統制に協力することだ。例えば、ヤフーやグーグルの中国版では「6-4(天安門事件が起きた6月4日のこと)」「法輪功」「チベット独立」「民主主義」といった、中国政府が反体制的と見なすキーワードを検索すると、ほとんど中国政府寄りのサイトしかヒットしないことを「国境なき記者団」や「アムネスティ」など欧米の人権団体が批判している。

 つまり検索エンジンの運営会社が中国政府の検閲に協力している疑いが濃いのだ(念のため。経済の自由化が進んだので勘違いしている人が多いのだが、中国は今も共産党の一党独裁国家であり、欧米と同義の『民主主義』や『言論・表現の自由』はない)。

 つまり中国でも「市民が何を知るべきなのか」を決めているのは検索エンジンであり、その首根っこを政府が抑えて、権力にとって都合の悪い情報を市民から遮断しようとしているという構図が見えてくる。

 日本は憲法で言論の自由が保障されているし、検索エンジンも検閲を受けないからいいよね、などと楽天的なあなた。「検索エンジンで上位に表示されるようにウエブサイトを改良するビジネス」=Search Engine Optimization(検索エンジン最適化)が存在することをご存知かな?

 インターネットを広告目的で使う企業や小売店にとって、このSEOがどれほど重要か想像してほしい。例えば「表参道 フレンチ レストラン」というキーワードで1ページ目に表示されることは、表参道に店を構えるフランス料理店にとっては死活問題だろう。

 このSEOも中国政府の検閲も、検索エンジンを操作して市民が知る情報の流れを都合よくコントロールしたいという動機の点では結局同じなのだ。



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