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なぜあながは買い物がやめられないのか?個性崇拝とナルシシズム消費 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 例えばあなたがケータイの機種変更をしたとしよう。最初にやることは何だろう? 

 自分好みのストラップを付ける。シールを貼ったり、ラインストーンを貼ったりして、自分なりのデコレーションをするかもしれない。そこまで凝らない人でも、待ち受け画面をひこにゃんやEXILEのイラストや写真にするくらいはあるんじゃないかな。

 携帯電話は同じ機種が何十万台と作られる画一的な大量生産品だから、基本的には大量の他人の持ち物と同じだ。「他人と同じじゃイヤ」と思う人ほど、自分なりのデコレで「パーソナライズ」(個性化)をしてケータイを「自分だけのもの」に改造するのだ。

 さて、ここでケータイを買う人に「持ち物が他人と同じじゃイヤ」という心理が働いていることにお気付きだろうか。

 こうした「他人と違う自分だけの特性」のことを「個性」という。個性は本来、外からは見えない人間の内面だ。ケータイを持つ人は「携帯電話」というモノが、その個性が見えるように改造する。つまり他者に「自分の内面を伝える」という表現手段としてケータイが機能しているのだ。

 例えデコレしなくても、カシオのGショックケータイを使うのかiPhoneを使うのか等々、機種選びだけでも個性は伝わるはずだ。

 ちょっと難しい言葉だが、こういう「自分の内面を他者に伝えるモノ」のことを社会学や心理学で「シンボリック・メディア」という。

 クルマなんかもそうだ。赤いBMWに乗っている人と、白い軽トラに乗っている人とでは、その職業や性別、価値観、収入など他者に伝わる個性が当然違う(それが事実かどうかは別として、だが)。

 つまり2009年の日本人にとって「お買い物」とは個性の表現、すなわち「自己表現」なのだ。

「そんなの、当然じゃないの? お洋服だってアクセだって個性を表現するために買うだし」と思うあなた。いえ、この現象が始まったのはごく最近なのだ。

 1980年代前半まで(特に高度経済成長期)日本人は「世間並み」「よそ様並み」に豊かになりたい、つまり「他人と同じになりたい」と呪文のように言っていた。

 だから隣の家がクーラーやクルマを買えば、負けじとウチも買っていたのだ。国民の七割が「ウチは中流」などと経済統計上の所得格差とはかけ離れた自己認識を語っていたのも1970年代のことだ。

 ところが、バブル景気前後になってモノの豊かさが飽和点に達すると、クーラーやクルマは普及し尽くしてしまう。そこで出てきたのが「個性信仰」だった。「人と違う自分がいい」と言い出したのだ。

 例えば文部省が政策を大転換して小学校に「個人差教育」を導入したのは1984年。この前提にあるのは「誰もが表現すべき自己=個性を持っているはずだ」という「個性信仰」である。

 結果「自己表現ブーム」が起きた。若者はギターを買ってバンドブーム。中高年は競ってワープロで「自分史」を書いた。これに便乗してワープロ、自分史講座、バンド雑誌等々、「自己表現の商品化」が始まった。つまり自己表現=消費行為になったのだ。

 1984年に小学校に入った新入生は、今年31歳のはずだ。この前後から下の世代は「自分には人と違う個性がなければならない」という個性信仰を学校と家庭教育で叩き込まれている。そこを狙って「大衆が自己表現をするための商品」が次々に開発された。

 1992年に登場した通信カラオケが好例だろう。北島三郎を歌うのかAKB48を歌うのかで、はっきり個性は表現できる。最近では、ブログやプロフをネット上に立ち上げることも自己表現消費のわかりやすい例だ(無料でも、みなさんを含む消費者が商品を売ったおカネで企業がネット会社に広告費を払っているのですから間接的にカネを払っているのと同じ)。

 自己表現消費で大事なことは「その消費をした自分を承認できるかどうか」である。つまり関心はモノそのものではなく、そのモノを所有した自分に焦点がある。

 例えばあなたが、機能やデザイン、価格がまったく同じ女性服を見つけたと仮定しよう。

 表参道のセレクトショップで買うのと、ジャスコのワゴンセールで買うのと、どちらを選ぶだろうか。表参道でしょうね。

 つまりあなたを満足させるのは「洋服のデザインや機能」というモノではなく「買い物を表参道でする」という「自分の姿」なのだ。

 これを社会経済学では「ナルシシズム消費」という。ここでナルシシズムとは「自己陶酔」ではなく「自己承認」=「そういう自分を自分で認められるか」と理解しておいてほしい。これをみなさんは無意識に「自分らしいかどうか」という言葉で表現しているはずだ。

 あるいは「自己満足」という素朴な言葉でこの行動を説明していることもあるだろう。「自己」を「満足」させる行為とは、自己承認に他ならない。みなさん無意識に正確な表現をしている。

 その意味で、今の日本では、すべての消費行為は自己表現であり、そういう自分を自分が承認できるかどうかが意思決定の規準になっている。

モノに限らない。どこに旅行に行こう? どの学校で英会話を習おう? すべての消費の場面であなたは「その消費をした自分を承認できるかどうか」を自分に問うているはずだ。

カネさえあれば、自分を表現してナルシシズムも満たしてくれる。それがショッピングなら、依存症になるのは道理かもしれない。学校も家庭も「あなたには個性があるはずだ」「それを表現しなくてはならない」とずっと呪文のように説き続けていたのだから。


「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

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  • 作者: 佐伯 啓思
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1993/06
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縁結び機能を共同体があきらめた=「婚活」の正体 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


「婚活」という言葉が出てきたとき、これはうまい言い換えだと感心してしまった。

「婚活」つまり「結婚活動」の厳密な定義は一定しないが、雑ぱくにくくってしまうと、インターネットの「真面目な出会い系サイト」や「ツヴァイ」など結婚紹介所に登録する、お見合いパーティーに参加するといった結婚相手ハンティング。および、より良い相手と結ばれるための「自分磨き活動」。そんなところらしい。

「結婚相手も、こちらから能動的に探し求めないと、待っているだけでは来てくれない」という意味で「就職活動=就活」から派生した言葉である。

 本欄で何度も強調していることだが、日本人女性のライフスタイルを根本的に変革したのは1986年の男女雇用機会均等法である。

 この法律で、女性の男性の就業・賃金・待遇上の差別は禁止された。女性は男性と企業従業員、つまりサラリーマンとして同等の地位を手に入れた。ありていに言うと女性も男性と「経済的地位=おカネの力」ではまったく対等、もはや女性は男性におカネのために従属する必要がなくなったということだ。

 かくて激変した女性のライフスタイルのために、様々な「言い換え」の言葉が作られた。

 男に奢ってもらわなくても一人で外食や旅を楽しめるだけの財力があるから「おひとりさま」。この言葉をエッセイストの岩下久美子が世に送り出したのは1999年だ。

 結婚しなくても子どもがいなくて経済的にはまったく困らないから、30歳独身・子ナシ女性を明るく「負け犬」と酒井順子が呼んだのが03年。もはや経済的「死活問題」ではないからこそ、酒井は独身女性を「負け犬」と堂々と呼ぶことができたのである。

 こうした「かつてはネガティブとされた対象をポジティブに言い換える」行為は、アフリカ系アメリカ人が”nigger”(クロンボ)という蔑称でお互いを呼び合い、侮蔑のニュアンスを薄めていったり、”black”(黒人)を”African”(アフリカ系)と言い換えたりした経過によく似ている。

「婚活」という言葉もそれに似ている。

「ワタクシ、夫とはお見合いパーティーで出会いまして」「カレとはヤフーで出会ったの〜」と堂々とカミングアウトできる人はまだ少数派である。実際、隠している人が多い。

 これは、女性が経済的に自立したという現実とは裏腹に「重要なパートナーとは、所属する共同体(ルビ:コミュニティ)の人間関係の中で出会うべきだ」という伝統的な価値観がまだ深層心理に、あるいは少なくとも社会の保守層には生き残っているからだ。

 だから「ネットで出会った相手とお試しデートしまくってます」というより「婚活中です」と言う方が「恥かしい」という感覚は薄い(念のために言っておくと、『共同体』とは家族や地縁といった伝統的なものだけではない。勤務先の会社、友人、学校の同窓生、サークル、バイト先も共同体だ)。

 雇用機会均等法以前はどうだったのか。「結婚適齢期」(これも死語だが)の女性が独身でいると、お母さんや親戚、近所の世話焼きオバサンが「いい男性がいるわよ」と縁談を持ち込んだりした。共同体が「結婚相談所」や「ネット出会い」の原型にあたる機能を果たしていたのだ。

 ところが、この共同体の機能が崩壊してしまった。

 そもそも娘は遠い都市部で働いていて実家には盆暮れくらいしか帰らないから縁談の持ちかけようがない。

 世話を焼いても「自立した女性は結婚相手くらい自分で探す」という社会的合意があるので拒絶される。こうしてコミュニティは「縁結び」の機能を放棄しつつある。

(今でも保守的な共同体では生き残っている。都市部から帰省した女性がしつこく縁談を押し付けられて激怒するのは両者に認識ギャップがあるから)。

 ところが女性の側にも困った事情が発生した。経済的に自立したはいいが、今度は仕事が忙しくてプライベートな時間が激減してしまったのである。

 かつて「花嫁修業中」と呼ばれた「相手待ちの待機時間」が消えてしまった。ゆっくり相手を探す時間がない。かといって実家のお見合い話に乗るのも嫌だ。ちなみに、こうした女性の典型的な嘆きは「仕事が忙しくて出会いがない」である。

 かくして、かつては共同体が担っていた「縁結び」という作業はインターネットだとか結婚相談所だとか、企業の手に委ねられることになった。

 これは突飛なことなのだろうか? 

 答えはノーである。

 かつて「家でつくるもの」だった衣服は、「外で買うもの」になった。

 今では一家の食事ですら「家で料理するもの」ではなく「お総菜を買ってきて食べるもの」になっている。

 女性のライフスタイルが変化し、その居場所が家庭から外へと軸足を移すにつれ、共同体が持っていた機能が企業化されていくというのは、実はずっと前から始まっていることなのだ。

おひとりさま

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  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/09
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負け犬の遠吠え (講談社文庫)

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「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)

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団塊の諸先輩方、みなさんも負の歴史と向き合えない腰抜けなの? [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

「バーダー・マインホフ」。

 おおブレネリ、何と懐かしき名前よ! 

 などと、この名前を聞いてすぐピンと来るなんて、さすがは週刊金曜日の読者、オールドレッド様でございますな。

 別名ドイツ赤軍(RAF)。1960年代末から約10年間、マシンガンと爆弾で武装、デパートや出版社、米軍基地爆破、裁判官や検事総長、財界有力者の暗殺や誘拐、ハイジャックに大使館占拠とまあ、ヤンチャの限りを尽くした左翼過激派の若人たちです。

 この バーダー・マインホフの物語をドイツ人、しかも彼らと同じ団塊世代の監督やプロデューサなど制作陣が映画にしたって言うので、すっ飛んで見に行った。彼らドイツ団塊の世代が「自分たちの世代の負の歴史」をどう映画にするのか? んで、試写が終わってワタクシごろごろ床を転げ回った。ぐわわ。ぐやじい。やられた。またドイツ人にやられた。

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「ヒトラー最期の12日間」というドイツ映画を見たときも、ワタクシは悔しさの余り映画館の床を転げ回りました。映画館を三周くらいしたところで係員に蹴り出されました。だってこの映画は「ヒトラーを人間としていいところも悪いところも公平に描く」という途方もないリスクに挑戦、見事に成功しているですよ。

「夜遅くにすまないね」「料理おいしかったよ」と女性秘書やコックを気遣い、ワンちゃんを可愛がり、時にはジョークまで言う。

 だけど戦況が自分の思い通りにならないとキレて部下に怒鳴り散らすわ、手柄は全部自分のものにして失敗は全部人のせいにするわ、ああこういう困った上司うちの職場にもいるよなあ、ヒトラーてただの困ったぶちキレおじさんやんか。とまあ、ものすごくリアリティがある。ヒトラーとて悪魔でもモンスターでもなく、愚かな人間の一人であるという意味で、私たちと連続しているんですな。それがよくわかる。

 この「自分たちが犯した負の歴史」に真っ正面から対峙しようとするドイツ映画の勇気というのはすごい。日本映画に「昭和天皇を主人公にした第二次世界大戦の映画」なんて作れるか? 

 ははははは。無理っす無理っす。同じ敗戦国なのに、戦後64年経った今でも負の歴史を直視できず「ただ家族に会いたかった」とか「ただキミのために死にに行く」とか、おセンチな少女趣味に逃げ込んでウジウジメソメソしとる腰抜け日本映画とはどえりゃあ違うがや。ぐぐぐぐやじい。私は愛国者なのでドイツ人に負けるのは腹立つぞ。がるる。

 んで「バーダー・マインホフ」。この映画、主人公たちに何の感情移入もない。アンドレアス・バーダーはただの粗暴な阿呆。ファタハの軍事キャンプでもアラブ人を見下している傲慢なヨーロッパ人。作戦がいい加減なのでリーダーのくせにあっという間に逮捕されちゃう。ウルリケ・マインホフはジャーナリストなのに勢いに流されて武装闘争に入っちゃったはいいが、逮捕されるとメソメソ泣くし、獄中で真っ先に自殺しちゃう。

 んなもん、世界同時革命なんぞ実現するわけねえだろってのに、無実の人を殺しまくり、警察との復讐合戦になって最後はお定まりの分裂と裏切り。その描写はリアルで乾き切っている。まるで「役者を使ったドキュメンタリー映画」みたいだぞ。

 で、やっぱり比べちゃうのは若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」だな。

 ははは。でもダメだわ。やっぱり。「バーダー・マインホフ」のように潔く自分の歴史と対峙した作品と比べると、「実録・連合赤軍」の方はお葬式で流す「故人さまの生前思い出ビデオ」みたいに見える。監督が実在の登場人物に近すぎたからなの?「なぜ、革命運動が仲間のリンチ殺し合いみたいな愚行に終ったのか」という歴史としての問いを徹底して突き詰められない。対象を突き放して直視できないんですな。

 やれやれ、団塊の世代の諸先輩方。昔あなた方は父親世代を「戦争責任を総括できないのはケシカラン」とデモったりアジったりして暴れてたんじゃないの? じゃあ、自分の世代が犯した負の歴史もちゃんと直視したらどうなのよ。

 日本人って、結局どの世代も負の歴史を直視できない腰抜けばかりなの? ぬおお大和魂はどうなったのだ? 

 何て吠えていたら、ヒトラー役の俳優ブルーノ・ガンツがインタビューで「日本のことはよく知らないけど、戦後処理ではドイツのほうがうまくいったみたいだねえ」などとしゃあしゃあとぬかしてけつかるのでまた憤激。ああ情けない。



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「GQ MEN たちの35歳の疑問にこたえる」 [GQ JAPAN]

Q1 35歳のとき、なにをしていましたか?

朝日新聞社の記者として「AERA」編集部で働いていました。ティーンエージャーのころからの夢だったニューヨーク駐在記者として赴任したのがちょうど35歳のときです。エンジン全開、トップギアで全速力という感じで記者の仕事をしていました。ホームレスからマイケル・ジョーダン、果ては通貨問題まで、全米を飛び回って記事を書いていました。アマゾンのジェフ・ベゾス社長やスターバックスのハワード・シュルツ社長にシアトルの本社でインタビューできたのも楽しかった。

Q2 仕事のために大きな借金はしましたか?

 朝日新聞社を休職して2年間Columbia大学のSchool of International and Public Affairsで軍事学の修士号を取ったとき(1992-94年)、2年分の学費だけで400万円払いました。世界一高いマンハッタンの家賃や食費、教科書代など合算すると800万円くらい使ったと思います。おかげで一日5ドルで生活するという赤貧ライフでした(笑)。

 借金はせずに済みました。奨学金を取り、大学でアメリカ人に日本語の授業を教えて乗り切りました(教職で働くと学費を割り引いてもらえる)。卒業したとき、帰りの飛行機代と引っ越し費用を払ったら貯金がちょうどゼロになりました。


Q3 35歳の大人なら見ておいたほうがいいだろう、という映画、本、音楽はなんでしょう

映画: スタンリー・キューブリック「フルメタル・ジャケット」「時計じかけのオレンジ」「シャイニング」「2001年宇宙の旅」「博士の異常な愛情」

 キューブリックの作品は映画という表現形態が到達しうる最高点を見せてくれます。

「生と死」「狂気」「国家と個人」「暴力」「文明」「自然科学」「戦争」といった人間にまつわる深遠なテーマが隠されていますから、見終わったあとに「文明って一体、何だ?」「科学技術は人間を幸福にしたのか?」と見た人が考えずにいられない。

 そんな日常生活に必要はないけれど、人間の本質にかかわる思考を促す入り口として、キューブリックの映画は素晴らしい。大人になったら「日常生活には必要ないけど、人間にとって重要なこと」を考えましょう。

 最近の監督ではアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の「21グラム」と「アモーレス・ペロス」もパンチを食らいました。彼の作品にも「死とは何か」「人生とは何か」「運命とは何か」「罪とは何か」「許しとは何か」といった人生の深遠な命題が語られています。

 あとデビッド・リンチ監督の「マルホランド・ドライブ」とエイドリアン・ライン監督の「ジェイコズブ・ラダー」も加えておきたい。あとはスティーブン・ソダーバーグ監督の「セックスと嘘とビデオテープ」も必修。

って、ぼくに映画の話をさせたら止まらないんだって(笑)。

本:「聖書」とか「論語」とか「孟子」とか、三千年、二千年経っても読まれている本を読み始めたのが35歳ごろのときです。

 日本のマスコミ業界の一員として新聞や週刊誌の仕事ばかり10年余りやって、「一日、一週間、一年でゴミになる出版物など、もうどうでもいいや」とうんざりしました。

「数千年読まれているベストセラー」というのは、読んでみると「なるほど」と思う理由が必ずあります。

 例えば孟子の「人を愛する者は人これを愛し、人を敬う者は人これを敬う」(他人を愛する人は他人に愛され、他人を敬う人は他人に敬われる)という言葉は胸にしみ込みます。

あるいは

レイモンド・カーバー「頼むから静かにしてくれ」
チャールズ・ブコウスキー「死をポケットに入れて」
辺見庸「もの食う人々」 

 映像がメディアの主流になったこの時代でも、文章はこれほどパワフルだということをぼくに教えてくれた本。活字の持つパワーという意味で、もみぞおちに一発食らったような衝撃を受けました。

音楽:Harold Budd and Brian Eno “Plateeux of Mirror”

ロックもジャズもファンクも、あらゆるジャンルを聞きあさって、最後に到達したのがこれ。夜、ひとり静かに思考に没頭するときに適した音楽がほしかった。流れる雲のようにゆったりとした、静謐な音楽です。

           
Q4 美術館から持って帰って、自宅に飾りたい絵画は?

Jackson Pollack ”Lavender Mist”  アクションペインティングの巨匠、ポラックは実は生涯抑うつとアルコール依存に苦しんでいました。また、美術の歴史をひっくり返す変革をやっただけに「こんなのは美術じゃない」という罵倒にもさらされていた。
 ニューヨークの現代美術館でこの絵を見たとき、彼の「俺には絵を描くしかないんだ!」「誰が何といおうと、俺にはこれが美しいんだ!」という鬼気というか情念のようなものが絵の具のデコボコや画材の匂いからびりびり伝わってきた。彼のカンバスに向かうときの「自分が信じるものだけに忠実な人生」をお手本にしたくて、今もポラックの仕事中の写真を仕事場に飾っています。



Q5 人生の師、またはヒーローは誰ですか? 歴史上の人物や架空の人物でも結構です。

ミュージシャンなら、ジム・モリソンとルー・リード。学校や親より、はるかにたくさんの人生にまつわる大事なことを教えてもらいました。

映画監督や作家、画家は他で述べたので省略。

Q6 ティッピングポイント ( 人生が軌道に乗った瞬間、転機 ) はいつでしたか?

30歳。ニューヨークで「チェルシー・ホテル」を訪ねるルポを書いたとき、記者になって8年目でやっと初めて「ああ、自分で見て、聞いて、匂いをかいだ世界を文章でも再現できた」という記事が書けました。その時に初めて、この仕事でやっていける自信のようなものができた。

40歳。一生書き手でいたかったので、管理職になるのをお断りして朝日新聞社を退社。フリーランスになりました。


Q7 大人になったな、と感じた買い物はなんですか?

ティーンエージャーのころ、憧れていたけどおカネがなくて買えなかったベースギターを買えたとき(笑)。Musicman社のStingRayです。高い楽器を買うと、もったいないので必死で練習するので、若いころよりベースがうまくなりました(笑)。



Q8 親友は何人いますか? 社会人になってからも出会えますか?

 人生の重大な選択をするとき、まっさきに相談してその判断を信用できる友人は4,5人います。この年でそれくらいの人数の親友がいれば、人生大成功ではないでしょうか。

 社会人になってからでも自称「親友」にはたくさん会いました。が、朝日新聞社の肩書きがなくなったとたんにあっという間に離れていきました。なので「あ、あの人は友だちじゃなかったんだ」とわかりました。

 元より、仕事の損得がからんだ相手や、会社の同僚は心から信頼できる「親友」にはならないと思っています。しょせん仕事は利潤のために人とつながる場であり「友人をつくる場所」ではありません。

 ぼくが信頼している「親友」はぼくの職業上の肩書きとは無関係に友だちになった人ばかりです。だからこそ信頼しています。


Q9 40歳=不惑といいますが、外的内的な変化はありましたか?

「性欲」と「恋」と「愛」が厳密に区別できるようになりました。

 そして「人生はあと半分だ。これからぼくは死に向かう。人生は有限だ。欲張るのはやめよう。自分にいまできることを一生懸命やろう」とはっきり自覚しました。自分の時間や才能が無限であるかのように夢想しているのは、若い時だけで十分です。



Q10 コンプレックスはありますか?

 自分の顔が大嫌いです。写真も鏡も嫌いだ。(笑)

 冗談はさておき。

 図書館や書店に入ると、書棚を見て「オレにはまだこんなにたくさん知らないことがあるのか!」と目まいがします。

Q11 「お兄さん」から「おっさん」になってしまうのはいつなのでしょうか。

 年齢にかかわらず「自分はもう努力して成長する必要はない」「学ぶことはもうない」と思った瞬間。


Q12 35歳までに経験しておくべきことはなんでしょうか。具体的にお教え下さい。

 どこでもいいですが、日本以外の異文化の中で2-3年くらい暮らしてください。

 できれば学校へ行って学位を取るくらい激しい競争の場に身を投じるのがいいでしょう。ひとつの異文化社会の価値観を丸ごと覚えてください。

 そして、長くても5年でそこを離れてください。5年以上いると「そこの土地の人」になってしまい、驚きがなくなります。


Q13 肉体的な衰えを感じたことはありますか? また、その対処方法は?

35歳を過ぎたら、若者のように錯覚するのはやめましょう。人間は加齢とともに体力が衰えるのが自然なのです。徹夜自慢、休日返上自慢、長時間労働自慢など恥ずかしいだけです。

ティーンエージャーのころからMTBに夢中でして、今でも乗っています。都内なら山手線の内側はMTBで行きます。おかげさまでトシのわりには元気です(笑)。

Q14 海外からのゲストが東京に来ます。どこに連れて行きますか?なにをしますか?


住んでいる建物の屋上テラスから隅田川と東京の夜景が間近に見えるので、そこで少人数でバーベキューをします。ゆったりとくつろいだ会話を楽しみたい。うるさい場所は大嫌いです。



Q15 外国人に信頼されるためにもっとも大切なことはなんでしょうか。

*外国語が上手であるかどうかはどうでもよろしい。
*それより、語る内容と行動が人間にとって普遍的な価値を体現しているかどうかでしょう。例えば、平和、自由、人権、反戦、非暴力、反差別、個人の尊重、民主主義など。
*そして、日本人にはもっとも苦手なことですが、相手の意見に安易に同意せず、反駁し、議論を戦わせる勇気を持つことです。


Q16 35歳までに行っておくとよい場所、見ておくべき景色を教えてください。

Q12と同じ。学校でも仕事でもいいですから、異文化にダイブしてください。
敢えて選ぶなら、ニューヨークはあらゆる意味で最高の舞台です。
「ニューヨークでサバイバルできたなら、世界中どこへ行っても大丈夫」というのは本当です。ぼくもNYでのサバイバルがその後の人生でどれだけ自信になっていることか。あそこでの競争に比べたら、日本での経験なんて何も怖くない。
あ、景色ですか? マンハッタンの夜景は最高です(笑)。


Q17 不倫のボーダーはどこでしょうか?

ステディ以外の相手とセックスしたとき。

Q18 女の子といるときに、恋人・妻に遭遇したら、なんと言いますか?

「おお、何してんねん? ごめんな。おれ、いま仕事でこの人と打ち合わせ中やねん。これぼくのヨメですねん。べっぴんさんでしょ? あ、今日ははよ帰るわ。おみやげ何がいい? キルフェボンのタルトでええか?」

Q19 鉄板のデートスポットはどこでしょう? レストラン、イベント、観光地などジャンルは問いません。

バイクの後に彼女を乗せて、レインボーブリッジを渡りお台場を一周。あと、レインボーブリッジと東京の夜景が絶景の誰も知らない埠頭があるので、帰りはそこへ。

Q20 35歳の自分にアドバイスをするなら、なんと言いますか?

 年上のオッサンの言うことなんか信じるな。時代はもうオッサンどもが若いころとは違うんだから。

 人の評価なんかに耳を貸すな。自分の評価は自分で決めればいいのだ。自分の人生は自分で考えて自分で決めろ。

(GQ JAPAN 2009年9月号)

GQ JAPAN 2009年 09月号 [雑誌]

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  • 出版社/メーカー: コンデナスト・ジャパン
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キヨシローの何がエラかったんかお前らわかっとるんか? [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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ありがとうキヨシロー!お前の遺してくれた音楽はサイコーだぜ!オイラたちみんな愛しあってるからどうか安らかに眠ってくれベイベー!

 てなこと言ってアツくなってる御仁、気付いていないでしょうがあんた相当なオッチャンだよ。

 いやもうどっちかちゅーと前期高齢者だね。メタボでしょう?細かい字が読みづらいでしょう?頻尿でしょう?ハゲでしょう?哀しいでしょう?

 だいたいキヨシローの葬式で弔辞読んでた甲本ヒロトがアタクシと同じ46歳だ。そのアタクシが高校んとき初めて見た日本のバンドのライブがRCサクセションです。だからもう忌野清志郎に影響を受けたバンドに影響を受けたバンドに影響を受けたバンドに影響受けたバンドくらいが20代のピチピチなんじゃないかね。つまりキヨシローがばらまいた子種でいえば「ひ孫」が最前線で現役って時代ですな。

 まあファンが老化すんのはしゃーない。何がマジムカつくって「死ぬまで時代の最先端を走り続けた」だの「社会問題にも積極的な姿勢を貫いた」だの、どいつもこいつもくだらん決まり文句ばかり並べやがって、ゲロが100万リットル出そうだ。結局、忌野清志郎の何がすごかったって、わかっとるんかお前ら。歌は死ぬほどうまいぞ。カラオケ行け!マネできないのすぐわかる。ギターも実は卒倒しそうなくらいうまい。「こんなコード進行あり!?」って曲作っちゃう(井上陽水の『帰れない二人』『待ちぼうけ』ってキヨシローの曲だかんね)。そこまではよろしい。

 だがね、ほとんど誰もわかってないのは、彼が「黒人音楽は欧米社会のタブーを破り続けた」ってことを理解して、それを自分も音楽で実践しちゃったこと。これは日本じゃいまだ誰もマネすらできてない。

 説明しよう!その後ずっとトレードマークになった「化粧+ピン立ち頭」で出てきたころのRCサクセションてのは、衣装やバンド編成をよく見ると当時のローリング・ストーンズをそのまま真似してる。まストーンズのサル真似バンドなんて掃いて捨てるほどいるんだが、キヨシローが抜きんでてたのは、そのローリング・ストーンズがお手本にしていたブラック・ミュージックを曲も歌詞もステージアクションも隅々まで知り尽していたことなんだわ。MTVもインターネットもない時代だよ。どうやったんだろ?

 それは1960年代のオーティス・レディングだったりジェイムズ・ブラウンだったりするんだが(ガッタガッタガッタとか愛しあっているかい?とかキヨシロー定番はオーティスの十八番)、当時のブラック・ミュージックは比喩に隠してセックスのことを堂々と歌っていた。

 日本人は意外に知らないが、欧米=特にアメリカは公的な場所(テレビ・ラジオ等)での性表現にはめちゃめちゃウルサイ。日本の深夜番組なんてほとんど放送できないっす。何でかっちゅーと、キリスト教保守派ってのが政治勢力として存在して、放送や音楽にニラミを効かせているから。アメリカでキリスト教保守派に逆らうってのは、日本で言えばやね、皇室をおちょくるくらい危険なことでして、場合によってはテロに遭いかねない。だから当時黒人音楽なんてのはキリスト教保守派からすれば「汚らわしいクロンボの騒音」だったわけ。

 その黒人音楽の精神をキヨシローはよーく分かってたんだな。「バッテリーはビンビンだぜ」とか「お前についてるラジオ感度最高」とか「こんな夜に発射できないなんて」とか、化粧したキヨシローががんがん歌うのを聞いた高校生のワタクシはビビりました。「言っちゃいけない」と教師や親が言うことを堂々と歌ってしかもラジオやテレビで流れているんだもん。これは胸がスカッとしますわな。モヤモヤイライラしているガキは喜びますわな。シングアロングしますわな。

 だからキヨシローが後日「原発」とか「君が代」とか、もっとでかいタブーに逆らい始めたとき、私はちっとも驚かなかったね。ああこの人は相変わらず「社会の良識」とか「常識」とかに挑戦し続けておるなあ、と。でも、その後も同性愛とかマリファナとかキリスト教とか王室とか「タブー破り」を続けた欧米と違って、日本のポピュラー音楽は無難だけが取り柄になっていった。その後もキヨシロー一人だった。

 ちょっとそこのJポップさん、だからお前らつまんねえんだよアホンダラ。

PLEASE

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  • 出版社/メーカー: USMジャパン
  • 発売日: 2005/11/23
  • メディア: CD



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EXILEはなぜ愛される?その5 [東京(中日)新聞連載アウトテイク]

 ここまで、Exileがやってみせた業績にはふたつの「物語」が付帯していることをお話しました。

「敗者が復活して勝者になる」と「旧弊に満ちた世界を若者が独力で改革する」です。この物語は、2000年代の日本社会が望んでも手に入れることができない「夢物語」です。深層心理学でいう「ファンタジー」と言い換えていいでしょう。EXILEはこうした大衆が望む「ファンタジー」を音楽と共に届けたからこそ、多くの人々が彼らを愛するようになったのではないでしょうか。

 申し遅れましたが、ここで重要な点を確認しておきましょう。大衆の側も「ファンタジー」を共有していることです。

 といっても、大衆は「よし、ぼくは敗者復活戦に勝ってEXILEのように成功するぞ」とか「EXILEのように旧態依然とした社会を改革しよう」と意識して行動しているわけではありません。「ファンタジー」は意識の下、これも深層心理学でいう「無意識」の領域に潜り込んでいて、人々はそれを意識することはありません。無意識は、水面の下に潜った氷山の下部のように、外からは見えません。しかし無意識は、知らないうちに(文字通り無意識に)人間の行動を動かしています。こうした「無意識」が存在することを発見したのはフロイトという精神分析学者ですが、細かい内容には立ち入りません。

 つまり大衆は知らないうちにある「物語」を無意識の中に共有している。この大衆が共通する無意識を「集合的無意識」と呼びましょう。ちょっと難しい言葉ですね。私の造語ではありません。フロイトと並ぶ深層心理学者・ユングが提唱した言葉です。世界の神話や宗教説話を研究したユングは、文化や言語の違いを超えて、どれもがよく似た物語構造を持っていることに気付きました。こうした世界の神話に共通する要素を「元型」と名付けたユングは、文化や言語という意識の世界の下に、人類共通の「無意識」が横たわっているのではないかと考えた。これが「集合的無意識」の意味です。

 私がいまここで言う「集合的無意識」は、ユングのような「世界共通、人類普遍」というような大きな概念ではありません。少なくとも日本社会では、大衆はその時代ごとに共通の「物語」を無意識に共有しているのではないか。そう仮定すると、いろいろな現象が非常に合理的に説明できるのです。

 大衆の側には、無意識に共有している「物語」がある。EXILEのように、その「物語」に共鳴する対象が現れたとき、大衆はその対象を受用しようと集団行動を起こす。EXILEのような音楽という商品なら、CDを買う、コンサートに行くなど「消費」という行動をいっせいに起こす。ホリエモンは人間なので消費するのが難しいのですが、EXILEはその物語に参加するための商品がふんだんに用意されています。この「物語の共鳴」こそが実は400万枚もCDが売れたりする集団行動の正体なのではないでしょうか。



EXILE LIVE TOUR 2007 EXILE EVOLUTION(3枚組) [DVD]

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EXILEはなぜ愛される?その4 [東京(中日)新聞連載アウトテイク]

 もうひとつExileがまとう物語「旧弊に満ちた世界を若者が独力で改革し、勝者になる」はどうでしょうか。

 こちらも言うまでもありませんね。「ロスト・ジェネレーション」以降の若者層がいま悪戦苦闘しているのは、自分たちより上の世代が強固に作り上げた既得権益の体制を突破することです。そして、それによって自分たちが犠牲者=敗者を脱することなのです。

 そんな動きに、ロスト・ジェネレーション層は常に拍手を送ってきました。平成不況まっただ中の1990年代末、多くの若い経営者がITベンチャー企業を興して台頭した時には「ITバブル」と呼ばれるほどのミニ好景気が生まれました。これも一例です。

 その一人「ライブドア」のCEOだった堀江貴文(ホリエモンと言ったほうが早いですね)は1972年生まれ、まさにロスジェネど真ん中です。

 05年にニッポン放送の経営権をめぐってフジテレビと互角の勝負を繰り広げたり、衆議院議員選挙で亀井静香と死闘を演じたときも、誰よりも快哉を叫んだのは、同じ世代の若者でした。議員選挙や民放テレビといった長年墨守されてきた既得権益の世界で、たった一人自力で起業した若者=ホリエモンが、老人たちと対等に渡り合う姿は、さぞや爽快だったはずです。

 勝てなくとも、彼が老人たちを翻弄するだけでも、胸がすかっとしたのではないでしょうか。それはホリエモンが、ロスジェネの若者が望んでも手に入れることのできない「物語」=「旧弊に満ちた世界を若者が独力で改革し勝者になる」を具現していたからです。

 しかしそのホリエモンも06年には東京地検に逮捕されてしまいます。そして2度の有罪判決を受け、今なお最高裁での判決を待っている。旧弊を改革しようとした若者は「東京地検」という「大人の権威」によってたたきつぶされてしまったのです。

 気の毒なことです。いえ、ホリエモンが、ではありません。彼に「物語」を見いだした多くの若者が、です。彼らを待っていたのは「幻滅」「絶望」でした。「やはりこの社会は老人ばかりがおいしい思いをして、俺たちは負け続けなのか」。そう思ったことでしょう。

 EXILEがやってみせたこと=自分たちのマネージメント会社を興して音楽業界で名乗りを上げること=は「若者が独力で旧弊に満ちた世界を改革する」という物語の構造がホリエモンと酷似しています。しかもホリエモンとちがって、Exileは成功している。居並ぶパワフルなマネージメント事務所を蹴散らし、ドームコンサートを満杯にし、音楽賞を総なめにしている。いやそれどころか、ファッションブランドや月刊誌まで出しています。若者ならこう思うことでしょう。「おお、すごいな」「こんなふうになりたいな」と。

EXILE LIVE TOUR 2007 EXILE EVOLUTION(3枚組) [DVD]

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EXILEはなぜ愛される?その3 [東京(中日)新聞連載アウトテイク]

 こうした「物語消費」は音楽の世界でも起きています。

 ここで話をEXILEに戻しましょう。一回目の本欄でEXILEについて三つの事実をお話ししました。ひとつ、彼は08年一人勝ちといってもいいほどの大成功・大人気を集めたこと。日本の大衆はそれほど情熱的に彼らを愛したのです。その彼らは「復活した敗者」だった。しかも自分の会社を起業することで旧弊に満ちた音楽業界の慣習を突破してしまった。ここにひとつの「物語」を見いだすのは私だけでしょうか。

 社会環境を見回してみましょう。1992年にバブル景気が崩壊してから、日本経済は泥沼のような平成大不況をはいずり回っています。やや光が差したかと思ったら、07年から08年にかけてアメリカ発のサブプライムローン危機という大津波が押し寄せ、またすべてが暗転してしまいました。

 ここで問題なのは、こうした経済危機を迎えた日本社会そのものが、もはやかつてないほど変質してしまっていることです。かつて日本は「1億総中流」という所得格差の小さな社会を誇りにしていたのですが、今は「格差社会」が当たり前の認識になっています。

 中でも危険なのは「持てる者」と「持たざる者」の対立が世代間対立の様相を呈していることでしょう。

 高度経済成長を支えた「終身雇用制度」の破壊が中途半端で、すでに正規雇用されていた中高年層の雇用が既得権益として守られた結果、雇用調整のしわ寄せは若者層により過酷でした。92年の平成大不況=就職氷河期に社会に出た新卒者「ロスト・ジェネレーション」はこうした若者層(といっても上はもう39歳なのですが)を指します。「非正規雇用」という雇用形態はこの年代層を多く含みます。彼らは「一度クビになって転落するとホームレスまですぐに落ちる」という「板子一枚下は地獄」の生活にいます。まさに「いったん敗者になると、どん底まで落ちる」という「敗者復活戦なき時代」に今の20〜30代は生きているのです。

 ここでEXILEが「復活した敗者」だったことを思い出してください。その彼らのCDを買う人が400万人以上いるという事実は、見落としてはならないと思います。EXILEのほかにも、歌やダンスのうまいグループはいくらでもいます。EXILEがそうした「製品内競争」でそれほど飛び抜けて優れているとは思えない。なのにEXILEだけが一人勝ちしたのはなぜなのでしょう。

 EXILEは、大衆が望んでも現実には手に入れることのできない「復活した敗者」という「物語」をまとっていたのではないでしょうか。大衆はその「物語」を含めてEXILEという商品を消費したのではないでしょうか。私はそう考えます。

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EXILEはなぜ愛される?その2 [東京(中日)新聞連載アウトテイク]

 前回「物語」という言葉を最後に出したので面食らわれた方も多いのではないでしょうか。

 どうして音楽や歌手が「物語」を聴き手に伝えるんだ? 音楽が流行するのは、メロディや歌詞が大衆の気に入るからじゃないのか? そう思われるのではないでしょうか。

 もちろん音楽が流行するのに、メロディや歌詞が大事なのは言うまでもありません。が、私は敢えてそうした「レコードの上に記録された音楽」を視野の外にいったん置いてみたいのです。

 これはあながち荒唐無稽な試みではありません。いま、例えばEXILEにせよ、音楽だけでそのミュージシャンのことを好きになる人の方が、例外的な少数なのではないでしょうか。

 そのファッションを雑誌で見ることもあるでしょう。華々しいダンスやステージ装飾をDVDで見ることもあるでしょう。インタビューやトークをテレビ・ラジオで聞くこともあるでしょう。そしてもっと熱心なら、インターネットの検索エンジンでメンバーのバックグラウンドを調べたり、ファンのコミュニティサイトで情報交換したりする人もいるのではないでしょうか。

 善し悪しは別にして、私たちはいま、音楽をこうした「多面的な情報の総合体」として受け取る情報環境の中で暮らしています。レコードだけでなく、テレビ・ラジオ放送、DVD、インターネットなど、多様なメディアが音楽以外の重層的な情報を運んでくるからです。もはや「音楽が音楽だけで独り立ちすることはできない情報環境」に21世紀の日本人はいます。

 これは音楽だけに限ったことではありません。どんな商品も、その商品のファンダメンタルな価値だけでは競争できません。

 例えばスーパーでタマゴや野菜を手に取ってください。「××県○○村の農家△さんがつくりました」と顔写真までパッケージに印刷されていますね。タマゴや野菜の品質が完全にイコールと仮定するなら、こうした「物語」という情報が付いている商品の方が消費者に好まれ、売れます。

 いや、品質の差が分かりにくい商品ほど「物語」が付帯しているほうが有利といった方がいいでしょう。こうした商品の売り方をマーケティングの世界では「物語消費」と呼びます。一種の「製品外競争」ですね。

 もっと分かりやすい例に「エコ家電」があります。不思議なことですが、エコ家電では、その製品がどれほど地球環境に寄与しているか、厳密に測定され、表示されたりしているわけではありません(エコを偽装表示して問題になった冷蔵庫がありましたね)。

 「エコ家電」というジャンルでは、地球環境保護への貢献度で性能競争が行われているわけではない。「エコ」はそうした「製品内競争」ではないのです。消費者が求めているのは「自分がエコ家電を買うことで地球環境保護の手助けをする」という「物語」なのです。

 エコ家電を買う人は、冷蔵庫やエアコンを買うと同時に「エコに寄与している」という物語をも一緒に消費しているのです。製品の性能差が僅差になり、分かりにくくなるほど、こうした付帯する「物語」が消費を決める重要な要素になります。

EXILE LIVE TOUR 2005 ~PERFECT LIVE

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EXILEはなぜ愛される?その1 [東京(中日)新聞連載アウトテイク]

 「EXILE」(エグザイル)という14人組の歌・ダンスのユニットがいます。

 名前くらいは聞いたことがおありかもしれません。「ユニット」って何だとか、どんな音楽をやっているんだとか、いろいろご疑問はおありでしょうが、ここではとりあえず知らないままで結構です。このEXILEについての考察に入る前に、まず次のような事実だけ、知っておいてください。

(1) EXILEはいま日本のポピュラー音楽界ではトップスター級の人気者だということ。

コンサートを開けばドーム級の会場を楽々と満員にしてしまいます。09年3月に日本レコード協会が発表した「日本ゴールドディスク大賞」(08年のレコード会社からの出荷数マイナス返品数を元に集計)では、一年間にもっとも売り上げ金額の多い「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」に輝いています。

売り上げベスト10アルバムにも、浜崎あゆみやB’z、安室奈美恵といったベテラン勢と並んでアルバムが3枚も入賞しています。CDの売り上げは421万枚を超えたとのことです。この10年で市場規模が半分に減るという大不況に苦しむ日本のCD市場にすれば、これは驚異的な数字。08年邦楽のマーケットはEXILEの「一人勝ち」だったといっても過言ではありません。

(2)  EXILEは日本の芸能界では珍しい「復活した敗者」です。

リーダーの「HIRO」こと五十嵐広之は、1989年から95年まで「ZOO」という歌とダンスユニットで活動していました。アルバムを12枚出し、テレビドラマの主題歌やCMにも曲が使われていましたから、日本のポピュラー音楽界では立派なキャリアです。

ところがZOOは解散してしまい、五十嵐も人気の頂点からどん底に落ちます。日本の芸能界は「一度転落した人気者」には冷たい。だいたいの人は周囲の手のひらを返したような仕打ちに耐え切れず、退場していきます。ところが五十嵐はそのどん底からまた人気のトップにはい上がり、返り咲きました(ですから彼は1969年生まれと年長です)。これは日本の芸能界では希有のことです。

(3) このカムバックに際して、五十嵐はもう一つ「ありえないこと」をやってのけています。

それはマネージメント会社を自分で起業してしまったことです。現在の芸能界はジャニーズやバーニングといった強力なマネージメント会社が群雄割拠していて、マスメディアやレコード会社、広告代理店に強固なネットワークを築いている。そこに新参企業が割り込もうとしても、普通は嘲笑されるだけで相手にされません。その旧態依然として芸能界のしきたりを、五十嵐はひっくり返してしまいました。これも希有のことです。

 さて、こうした事実を出発点に、大衆はEXILEにどんな「物語」を読み取ったのか、考えていきましょう。

EXILE LIVE TOUR

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北朝鮮ミサイル実験の本当の狙い ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 戦争を仕掛けるなら、奇襲に勝るものなし。

 これは軍事の初歩中の初歩だ。

 つまり、本気で敵を軍事的に叩きたいのなら、相手が気付かないうちに準備し、向こうが迎撃態勢を取る前に最大限の打撃を与える作戦が王道。

 だから、多少でも軍事の心得がある人間なら、4月5日に北朝鮮が「テポドン2」改良型のミサイルを発射しても、本気で日本を軍事攻撃するつもりなどまったくないことはすぐわかる。

 事前に「×月×日に発射します」と通告、落下区域まで予告した発射が、軍事攻撃のはずがない。本気で日本に打撃を与えるつもりなら、人口・産業が希薄な秋田や岩手の上空など飛ばさず、抜き打ちで東京の中心部に一発撃ち込むはずだ。

 ちなみに、1950年に北朝鮮が38度線を突破して韓国を奇襲した朝鮮戦争は戦史上もっとも成功した奇襲作戦のひとつだ。その北朝鮮が軍事のイロハを知らないはずがない。だから、北朝鮮がテポドンの発射実験などしても、脅える必要は全然ない。軍事攻撃以外の何か別の目的があってやっていると考えるのが常識だからだ。

 そもそも今回のミサイル実験は日本の領土を侵していない。つまり「領空侵犯」ですらない。

 国の主権が及ぶ「領空」の定義は「領土・領海の上22.224キロ(12海里)」である。ミサイルは、今回衛星ロケットだと主張する北朝鮮の発表で490キロ、軍事用弾道ミサイルなら600キロから1000キロの「宇宙空間」にまで飛び上がる(『大気圏』は上空約100キロ)。「領空」を平屋家屋とするなら、弾道ミサイルは30〜50階建ての超高層ビルの高さを飛んでいくわけだ。宇宙空間は1967年の「宇宙条約」で領有を主張できないことになっているので、北朝鮮のミサイル実験は「信義違反」ではあっても「侵略行為」はおろか「国際条約違反」ですらない。

 だからギャンギャン北朝鮮を非難しても、根拠がないのだからまったく無駄。アメリカ、ロシア、中国が冷静というより冷淡なのは、このへんの常識を分かっているからだろう(ちなみに、長距離ミサイルには『弾道ミサイル』と『巡航ミサイル』の2種類がある。巡航ミサイルは、自動操縦でエンジンを噴射しながら水平に飛んでいく。弾道ミサイルは、放物線の頂点までエンジンで上昇し、後はエンジンを切って落ちてくる)。

 となると、北朝鮮は何のためにミサイル発射実験などやったのだろうか。

 健康不安が報じられる金正日体制の権力誇示。オバマ・新米国大統領への存在感のアピール。このへんは軍事オンチの日本のマスメディアも報じている。

 だが、もっとも見過ごされているのは、この実験そのものの軍事的な意味だ。

 それは「交渉相手国の危機対応能力を実験してみる」、つまり「害のない程度に脅かして相手の反応を見る」ことだ。

 日本はまんまとワナにかかった。

 政府は「ミサイル発射」の誤報を2回も繰り返し、危機対応でもっとも重要な情報収拾・伝達の能力がお馬鹿レベルであることを北朝鮮に教えてしまった。

 初めて自衛隊法の「弾道ミサイル破壊措置命令」をにぎにぎしく発動、迎撃ミサイルを配備したはいいが、マスメディアはバカ騒ぎを演じたあげくその「パトリオット3」の配置場所までがんがん放送。これでは相手にこちらの迎撃能力を教えてやっているようなもの(弾道ミサイルは発射から30分以内に秒速2〜7キロで落ちてくるので迎撃はほぼ不可能)。

 そんな政府や報道の無能ぶりを見て、北朝鮮は「こいつら軍事常識ゼロだな」「危機対応能力ないな」と思ったことだろう。

 北朝鮮と50年以上軍事的に対峙する韓国は「そんなもん無視するに限る」とまったく冷静、核兵器保有国であるアメリカ、中国、ロシアも冷淡だった。

 あにはからんや、その後北朝鮮は「(北朝鮮の核問題を話し合う)6カ国協議から脱退する」「国際原子力機関(IAEA)の核監視要員を追い出す」「核燃料の再処理を再開する」とムチャクチャなことをやり出した。

 ちゃぶ台ひっくり返す大暴れである。要するに、足下を見られてしまったのだ。6カ国のうち重要なプレイヤーである日本が、かくもお粗末な危機対応能力しかないこと(特にたかがミサイル実験で世論がパニックすること)がバレてしまったから、足並みが乱れることを見透かされているのだ。

 というわけで、政治的な目的を達するという点で、今回の「ミサイル実験」という軍事行動では、北朝鮮が一人勝ち。韓国、アメリカ、中国、ロシアは何も損も得もしていないので、勝ち負けなしの引き分け。

 ただ一国、勝手にコケまくってズタボロの惨敗を食らったのがわが日本である。



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ライブハウスはミュージシャンを育てない。なぜなら! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

 ここだけの話ですが、私は「週刊金正日」おっと間違えた「週刊金曜日」様の御給金だけでは生活が成り立たないので「夜のお仕事」をしています。

 いやいや、ホストになれるほどの容貌も愛想もありませんのでミュージシャンをしております。はい某即興演奏バンドで電気低音ギタアを弾いております。都内あっちこっちのいわゆるライブハウスで演奏しております。ご興味おありの方は是非マイスペご覧くださいって誌面私物化してる場合じゃなくて、ええとですね、つまりワタクシ自分も演奏者であるくせに、自分のことは完全にタナに上げてプロの皆様をエラソーに批評してけつかるのでございます。誠にメンボクない。

 で最近よく演奏先のライブハウス経営者orブッキング担当者の方からよく聞くのが若いバンドに関する嘆き。「最近の若いバンドは出演当日まで下見にも来ん。けしからん」「『デモ音源を持って店においで』と誘っても『音源はmyspaceで聞いてください』『連絡はメールでお願いします』とぬかしよる。ふざけとる」てな話です。

 まあおっちゃんがパンクバンドで暴れていた80年代、すでにライブハウスのおっさんどもは「オレの若いころはP、ハウエバー最近の若いモンはQ」とかボヤいておりましたので、原始時代からよくある老人の若者コキオロシ話なのかと思いきや、そうでもない。確かに若いバンドのギグを見ると何だか変だ。なんせ客がいない。いや、決して下手なバンドじゃないんですよ。なのにガラガラの客席に向かって大音量で黙々と演奏、対バンの演奏も聞かず、内輪だけで談笑、せっかく仲間をつくって知らない音楽を吸収する好機だってえのに、下戸の公務員みたいに直帰しちゃう。何じゃこりゃ。

 でも、わたしゃ自分も出演する側なんで、彼らの気持ちも分かる。みなさん、日本のライブハウス独特の制度で「チケットノルマ」って知ってます?東京圏じゃ、平日夜、駆け出しバンド3つまとめてライブでも、入場料(『チャージ』っていいます)2000円前後が相場です。まずこれが高い。駅から遠い、まともなドリンクや食べ物も出ないハコがほとんどですぜ。フツー2000円ありゃ映画でも見ますわな。来てくれる方が奇特よ。

 そして、バンドには「ノルマ」が課せられる。「チケット20枚売れ」=「客を呼ぶ努力はバンドが負担せよ」=「客の多寡にかかわらずバンドあたり4万円は店がいただく」。つまり身もフタもなく言ってしまえば「店がミュージシャンからカネを取る」って仕組みですね。

 チャージバックつうてバンドとカネ分ける例もよくあるけど、アンプとかドラムの『機材使用料』(店に備え付けのアンプやドラムを使うと1000円くらい払わされる)取ったり、ひでえ店になると『JASRAC料』とかぼったくるんだな。

 これを当たり前だと思っちゃいかん!わたしゃニューヨークでも「bar」(日本のライブハウスに相当)で何度か演奏しましたが、お店が出演者に「出演料」を払いこそすれ、出演者からカネを取るなんてありえない。まったく逆です。

 これ、いろんな条件の違いでこうなる。米国のハコは百席はある。面積が日本の倍くらい広い。だから店を区切って「ライブハウス部分」と「レストラン・バー部分」に分けてしまえる。つまり客の飲食で店におカネが入るわけですな。レストラン・バーなら客が回転するので効率もいいが、日本のライブハウスは客が回転しません。

 おまけに東京圏でライブハウスやりゃ、賃貸料だけで月50万〜100万はするし(六本木のはずれで30席くらいの小さなハコが賃料40万円代だった)、照明だ音響だモギリだとレストランにゃいらん人間を雇って人件費は発生するわで、店は出演者に金銭ノルマを課して商売にするわけです。あるライブハウス経営者が「ウチはミュージシャンが客で、客はまあ客だけど何だろうムニャムニャ」とか言ってました、そういえば。ははは。

 つまり実もフタもなく言っちゃえば、日本の「ライブハウス」はミュージシャンからカネを取って経営しているってことさ〜。おっとっと。「ミュージシャンから搾取している」なんて左翼チックなことは言いませんぜ旦那。

 ミュージシャンにすりゃ、演奏すればするほどおカネが出て行くので、どんどんビンボーになるっちゅう仕組みですな。そんな環境でミュージシャンが育つわけないじゃん。あほらし。演奏すればするほど金銭も入るから「プロ」になっていくってもんじゃねーの? 当然、欧米じゃそう。国際水準で見りゃ、日本の「ライブハウス」ってのは奇形なのだよ。

 へ?じゃあミュージシャンが客呼ぶように努力すりゃあいいじゃねえかって?馬鹿かねあんた。ミュージシャンの仕事はいい音楽を作ることであって、客を動員するのは仕事じゃない。そんなことは店の仕事だろうが。サボってモウケようとしなさんな、ライブハウス経営者のおっちゃんどもよ。

考えてもみてよ。どこの世界に「客を呼ぶことはウチの仕事じゃない」なんてぬかすレストランや食堂がありますかね。

 んで、元に戻って。もしやと思って若いミュージシャンに聞いてみると、やっぱりそうだ!彼らにとって「ライブハウス」は「レンタルホール」と同じなんですね!

「おカネはちゃんと払ったでしょ?後はお店なんて関係ないじゃん」。そういう発想なんですな。そりゃレンタルホールの経営者や共演者とオトモダチになろうなんて思わんわ。まして説教される義務なんてないな。あははは。そりゃ正しい。

 はははは。「ライブハウス」の経営者諸兄、ついに正体を見破られましたね。

 みなさんがもしミュージシャンに、不動産賃料を払うリスクを負わせて自分たちはそのリスクから逃げているなら、「おれたちはミュージシャンを育てている」「音楽シーンをつくっている」なんてエラソーなことぬかすのはただちにやめて「ウチはレンタルホールです」って言いなさい。胸を張って言えばいいじゃないですか。ええかっこしなさんな。ミュージシャンからカネ取ってい集客の責任負わせている限り、あなたたちの経営実態は「レンタルホール」よ。実際。

 てなわけで、今夜もジャパン各地でガラガラのライブハウスに轟音が響き、でも誰も損せず、ますます才能は埋もれ、ライブは人々の生活から遠のいていくのでありました。


(追記)2010年5月12日になってこんなメールが来た。

「益々ご隆盛のこととお慶び申し上げます。
突然のメール申し訳ございません。
(会社名)productionの(差出人名)と申します。
この度、弊社では下記の日程で、イベントを開催する事になり、貴殿にはご出演をお願いいたしたくご通知いたしました。
過去に多数のSOLD OUTの実績や、現在メジャーシーンでご活躍のアーティストも多数ご参加頂いているイベントです。
詳しくは、下記日程及び出演規約をご覧の上、いずれか1つの日程のみでもご検討頂ければ幸いです。
つきましては、お気軽にお問い合わせいただきますようお願いいたします。
取り急ぎ、イベントご出演のお願いまで。

6/13渋谷HEAVY SICK(ノルマ10枚)
6/27高円寺Club ROOTS(ノルマ12枚)
7/25渋谷HEAVY SICK(ノルマ14枚)
7/30新宿SUN FACE(ノルマ13枚)
8/22渋谷HEAVY SICK(ノルマ23枚)
8/29高円寺Club ROOTS(ノルマ26枚)

全日程チケット前売:1500円前後」

とこういうイベント会社というかプロモーション会社もメールをばらまいて営業しているわけだ。一枚=1500円と仮定します。最安値の渋谷HEAVY SICKでもノルマ10枚=15,000円、最高値の高円寺Club ROOTSだとノルマ26枚=45,000円を要求している。

この意味するところは「カネを前払いせよ。そうすればライブやらせてやる」ということです。

おわかりと思いますが、このカネをバンドから取ってしまえば、ライブハウスもプロモーション会社もまったく懐が痛みません。損するリスクがまったくないのです。

ぼくがライブハウス経営者なら、家賃や人件費を合計して、一回あたりのノルマ額を計算してバンドに割り振ります。家でテレビでも見て、バイトのブッキングマネージャーに店を任せておけば、毎月定収入が入る。なんてラクな商売でしょう。

バンドは、ライブすればするほど、15,000〜45,000円という高額のライブ出演料を請求され、演奏すればするほどカネがいる。そして集客の責任を負わされる。

どう考えても馬鹿げている。これは水が下から上に流れるような倒錯した世界だ。

ミュージシャンはいい音楽をつくるのが仕事であって、どんな世界でも集客は店(またはプロモーション会社)の経営努力に決まっている。欧米じゃ当たり前のことだ。

欧米では出演者にギャラを店が払う。だから演奏することが「仕事」になり「プロ」になるのだ。


(以上)
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朝日をやめて6年が過ぎたのだ [「朝日ともあろうものが。」文庫版(河出書房新社)]



 ぼくが朝日新聞社を去ってから6年が過ぎた。

 この本を出したとき、上司だった人がしみじみこう言った。

「ウガヤ君、キミはよほど朝日を愛してたんだねえ」。
「へ?」
「そうでなかったら、去ってしまう会社のことを心配して本まで書くなんて、ありえないよ」。

 そのときは「いやいやアサヒはともかくですね、私は日本の民主主義の未来が心配で云々」と大層なことをぬかしていたのだが、いまこうして6年前に書いた文章を読み直してみると、確かに、自分がまだ新聞社という組織、あるいは新聞というマスメディアの「蘇生」に希望を捨てていなかったことがわかる。状況は悪化するだろうが、それは「老木が枯れていくような、ゆっくりとした自然死」だと思っていた。まだ間に合うかもしれない。そう思っていた。

 しかしその後、新聞社をとりまく環境は加速度的に悪化してしまった。平成大不況にサブプライムローン危機が重なった、2008年中ごろ以降の破滅的な経済的状況は、新聞の生命維持装置を外してしまうかもしれない。広告出稿量で見る限り、インターネットは雑誌を追い抜いた。近い将来新聞も追い越されるだろう。まるで老木に斧が次々と打ち込まれるような事態が続いている。

 そして朝日新聞社は、私のような現場の記者が在社17年間ずっと苦しみ続けた問題を何ら解決できないまま、呆然と時間を浪費しているように見える。記者クラブは相変わらずフル稼働、もはや発行する必要のない夕刊は現場記者を苦しめ続けている。始まったことといえば、会社の組織の「別会社化」というソフト・レイオフくらいだ。例えば、私が10年を過ごした「AERA」を発行していた朝日新聞社出版局は、切り離されて「朝日新聞社出版」という別会社になった。いま、後輩がかつての私のように新聞からAERA編集部に異動すると、朝日新聞社の社員ではなくなってしまうのだ。

 状況は、この本を書いたときに私が予測したより、はるかに速いスピードで悪化していった。本文中でも書いたが、朝日新聞社は「自分の一部」になってしまっていて、私の目は曇っていたのだろう。判断が甘かった。「終わり」はもう始まってしまったようだ。

 ぼくは今でも朝日新聞を自宅で取っている(バクロしてしまうと、私は正規の定年退職者なので、タダで配達してくれるのです)。キッチンテーブルでコーヒーを飲み、朝刊を広げることから、ぼくの一日は始まる。もちろん、そこに書いている内容は、前日夜のGoogleニュースで読んで、すでに知っていることばかりだ。ぼくにとって、ニュース(最新情報)を知るためのメディアとしての新聞はとっくに死んでいる。それでもなぜ新聞を広げるのかといえば、それは「自分がかつて心血を注いだマスメディアがどういう末路をたどるのか、観察したい」という思いがあるからだ。「最期を看取る」という感覚に近いのかもしれない。

 報道記事の内容云々については、本文でも書いたし、放っておいても誰かあれこれ書くれるだろうから、ここではもういい。ぼくのようなかつて社員だった人間がまず何を見るかというと、広告なのである。私が在職中、広告部門の同僚と世間話をしていると、会社の収入がどうなのか、クリアに見えたからだ。「広告が順調でアップルが全面広告入れてくれた」と聞くと会社は順調なのねと思うし、「ダメだ。(広告が)埋まらない」と絶句していれば「これはヤバい」と思った。

 そういう感覚でいま朝日新聞を開けると、これはもう悲惨の一言に尽きる。「尿モレもニオイも防ぐ軽失禁者用パンツ」だとか「『篤姫』とか韓流ドラマとか落語DVDの通販」(つまりアマゾンが使えない人向け)だとか「夜中に何度も起きる(頻尿)60代のためのサプリメント」だとか「確実な出会い(結婚相談所)」だとか、これは一体何なんだ。私が在社していたころ、こうした「通販」や「健康食品」を広告担当者は「対策業種」という隠語で呼んでいた。「広告ページが埋まらなかったとき、いつでも広告出稿してくれる『対策』として使える業種」という意味だ。かつて「ヤバいな。通販の広告入れちゃったよ」と広告部門の同僚が恥ずかしそうに言っていた業種が、今では毎日紙面を埋めている。

 かつてはタブーに近かったパチンコや消費者金融もどしどし広告を出している。それでも埋まらないのか「自社広告」(朝日新聞社が出す出版物や展覧会、行事、映画など)がやたらに増えた。少なくとも90年代には、「そんな広告は載せない」「載ったら(広告を集められなかったという証拠だから)恥ずかしい」と広告部門の同僚は言っていたし、その言葉通り「尿モレパンツ」「夜のパワー増強」なんて広告が朝日新聞にデカデカと出ているなんて、考えられなかった。

 広告が減っているということは、朝日新聞の収入のおよそ半分を占める「広告収入」が減っているということだ。

 スポンサーはお金を払う。だから新聞広告を見ると「朝日新聞が媒体としてどれくらいの価値を値踏みされているのか」が正直に分かってしまう。サブプライムローン危機以降の景気壊滅で、かつて朝日の広告のお得意様だった「優良企業」は広告費を大幅に削減している。インターネット広告のほうが、費用対効果が高いことも今や周知なので、新聞の「媒体価値」はどん底なのだろう。広告が集まらなくてもページ数は一定なので、白紙で出すわけにもいかない。ページを埋めるためには、広告料のディスカウントもするはずだ。かつては「朝日新聞の全面広告なんて、高くてとても手が出ない」と言っていたはずの企業が紙面を飾っているのだから。こうして、広告料金のディスカウントが始めると、総体としての紙面は途方もなく質が低下していく。優れた記事が載っていても、尿モレパンツの隣では気の毒ではないか。

 だから、正直にいうと、ぼくは毎朝新聞を開けるのがつらい。今日も尿モレパンツか、とため息をつく。自分が卒業した学校が経営難でさびれ切っているような、そんな感じなのだ。
 もうひとつぼくが「新聞の終わり」を感じた大きな出来事は、朝日新聞社に東京国税局が税務調査を入れ、3億9700万円の「所得隠し」を指摘したことだ(09年2月24日付朝日、読売、毎日、日経新聞)。紙面ではあまり大きな扱いではなかったので気付かなかった人も多いのかもしれないが、かつての「報道機関の社員」からすると、これは致命的な一撃なのだ。

「朝日ともあろうものが、所得隠しをするなんて」というカビ臭い倫理道徳の問題ではない。この「所得隠し」は「京都総局が記者のカラ出張で捻出した」「取材費の一部が社員の飲食などに使われていたとして経費とは認められない交際費とされた」「出張費の過大計上」(読売新聞)という「交際費や交通費にまつわる架空経費」を含んでいる。これが致命的なのだ。

 東京国税局が税務調査を入れたということは、当然、領収書からたどって「社員がいつどこで誰と会っていたのか」にも調査を入れているはずだ。でなければ領収書付きの経費精算書を「架空」と断定できる証拠がない。つまり記者がいつどこで誰と会っていたのか、という「取材源の秘匿」に関するもっともセンシティブな情報を国税当局に証拠付きで握られてしまった、ということを意味する(国税は毎日新聞社にも税務調査を入れ、所得隠し4億円を指摘している=08年5月31日付朝日、毎日)。

 実は、こういう「税務調査に備えて経費請求している飲食費の明細(いつどこで誰に会ったのか)をすべて上司に報告せよ」という命令は、ぼくが「AERA」編集部員だったときにも一度あった。が、当然ながら現場記者が猛反対(よほどのことがない限り、取材源は上司にも言わない)したので、編集長の掛け声だけで不発に終わった。

 こうした「社員同士の飲食を経費として請求」「出張費の過大計上」など交際費や交通費経費の不正計上というのは、ぼくが本の中でさんざん書いたとおり、社員の飲み食い、タクシー・ハイヤーの不正利用など、職場では毎日当たり前のように行われていた。ぼくが「これは本当にヤバいんじゃないか」と思った理由は、実は先ほどの編集長の号令で「こんな腐敗した内情が国税に知られたらどうなるんだ?」と危機感を抱いたからでもある。「所得隠し」とはつまり「架空経費は法人税課税対象である所得を少なく見せるための偽装工作」と税務当局に判断されてしまう、ということだ。「これは架空経費です。つまり法人税の課税逃れですよね?」と国税に言われたら、ひとたまりもないではないか。権力をチェックするのが仕事の報道機関としては、一巻の終わりではないか。

 東京国税局は財務省国税庁の支局であり、脱税の捜査で検察庁とも綿密な関係にある。そんな権力側に「架空経費による所得隠し」という弱みを握られ、あろうことか取材源まで知られてしまった。そんな朝日新聞が財務省や検察を遠慮なく批判することは、今後はもう無理だろう。例え朝日新聞社が「いやいや、遠慮なく批判します」と宣言したところで、財務省・国税庁や検察が「じゃ、もっと本腰を入れて税務調査しますよ」と恫喝したら、どうするのか。似たような架空経費の話など、まだまだうじゃうじゃ出てくるというのがぼくの経験からの推測だ。恫喝するネタには困らないだろう。

 情けない話だ。朝日内部の腐敗した集団が経費を使って飲み食いやらカラ出張やらを繰り返しているうちに、とうとう権力側につけ込まれる弱みをつくってしまった。内部腐敗のせいで、報道機関が権力と対峙する能力を失ってしまった。内部自壊を起こし始めたのである。清廉に職務に打ち込んでいる同僚が気の毒である。こういう「報道機関は、権力と対峙するときに備えて、自分の周辺を身ぎれいにしておく」という鉄則を、上層部や管理職は、社員は誰も声をあげなかったのだろうか。

 本を読み返して、ひとつ思い出したことがある。40歳で退社するとき、はっきりこう思ったのだ。「この会社に60歳までいても、最後は同僚のクビを切っているか、同僚にクビを切られているか、どちらかだろうな」と。あのとき、ぼくは「20年後には」そうなるだろうと思っていた。でも、それも修正しなくてはならないかもしれない。そうなってほしくはないのだが。

(注:単行本を文庫版にするにあたっての全面的な改稿はしなかった。六年がたったいま読むと、考えが変わっている部分はあるし、表現、文体や論理展開が稚拙に思える部分もある。が、サラリーマンを辞めた直後のぼくの姿を記録しておくために、敢えてそのままにしておいた)。

(「朝日ともあろうものが。」文庫版 河出書房新社 あとがき)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

  • 作者: 烏賀陽 弘道
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/06/04
  • メディア: 文庫



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サブプライムローン危機でビジネススクールメルトダウン ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 私がコロンビア大学の修士課程に留学した1992年、同じキャンパスのbusiness schoolには日本人留学生がうじゃうじゃいた。全学生の1割はいたと思う。

 その大半は企業が派遣した「社内留学生」だった。勤務時と同じ給料をもらい、当時年2万ドルの学費も会社持ち。マンハッタンの最高級住宅街アッパーイーストまたはウエストサイドから通学する姿を見て、一日5ドルの赤貧生活をしていた私(自費留学組)はため息をついたものだ。

 私が通った学部はビジネススクールと共通の科目も多かったので「Bスクール」(実際そう呼ぶ)の学生と友だちにもなった。それで分かったのは、「××証券」「●●生命」「△△銀行」といった名だたる日本の金融会社がBスクールに多額の寄付金を積み、毎年社内留学生を送り込む「指定席」を確保しているということだった。

 一体どうして、日本企業はアメリカのビジネススクールにそんなに熱心に社員を送り込んでいたのだろうか。

 ビジネススクールのような「即戦力となる専門職を養成するアメリカの大学院修士課程(master course)」を「professional school」と呼ぶ。

 私が卒業した「School of International and Public Affairs」は外交官、国際機関やNGOの職員を養成する学校だった。その他、Law School(弁護士や裁判官、検事など法曹職)やJournalism School(ジャーナリスト)などのプロフェッショナル・スクールもある。

 Business Schoolは金融やマーケティング、PRのプロを養成する学校だ。ここでの学位がMBA(Master of Business Administration)と呼ばれるのは言うまでもない。

 アメリカのプロフェッショナル・スクールのカリキュラムは、日本なら企業が「社内教育」として社員にだけ教えている実務を、授業料さえ払えば誰でも習得できるように「商品化」して開放したものだ。

「カネさえ払えれば、名門企業の社員でなくても、誰でもエリート実務教育が受けられる」という点では、ある意味民主主義的で実力主義的である。だから、終身雇用制の下で生きる日本の社内留学生には、本来あまり利得がないはずなのだ。

 私が留学した1992年ごろの日本企業には、まだバブル景気崩壊前の社員教育が残っていた。日本国内から「カネ余り」で流出した資金が世界の資産(金融資産や不動産)を買いあさっていたのが、1980年代のバブル景気である。多くのBスクール社内留学生たちは、卒業後は海外の市場で資産運用(当時は『財テク』などと呼ばれた)をする役目が待っていた。

 実はそのころ、国際経済にはもうひとつ重要な動きが始まっていた。

 1986年、ロンドン証券取引所で「金融ビッグバン」と呼ばれる大幅な規制緩和が始まった。証券会社と銀行は相互に業務乗り入れができるようになった。その結果、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、メリルリンチ(three kingsと呼ばれる)などのアメリカ系巨大投資銀行がロンドン市場を席巻、「ウィンブルドン現象」(開催地はイギリスだが有力選手にイギリス人はいない)というジョークが生まれる状態になった。

 少し目の利く日本企業は、Bスクールで「金融自由化」向けの人材育成をしようとしていた。

 この「金融ビッグバン」という規制緩和が日本でも実施されたのは1996年から2001年にかけてである。今では当たり前になったインターネット証券会社や個人向け外貨預金が認められたのは、この「金融ビッグバン」のおかげなのだ。

 そしてロンドンと同じように、東京にも先ほどのスリー・キングスが乗り込んできた。ここにインターネットという情報通信革命が加わって、東京、ロンドン、ニューヨークはほとんど「ひとつの市場」として機能するようになっていく。これが「金融のグローバル化」と呼ばれる現象の基本である。

 こうした「市場から政府の規制を排除し、自由市場を最大限尊重する」という経済政策の流れを「新自由主義経済」という。

 1980年代、米国ではレーガン政権、イギリスではサッチャー政権下に始まった。それ以来、共和・民主党、保守・労働党と政権交代はあっても、経済政策においては、どの政党も新自由主義という点で大差はない。

 遅れてこの潮流に乗った日本も、もちろんそうだ。「小泉改革」を思い出してほしい。郵政事業の民営化や派遣労働の規制緩和は「新自由主義経済政策」の最たるものだ。

 つまり、過去20年余りMBAがもてはやされたのは、米国のビジネススクールが新自由主義経済下のビジネススキルをもっとも手っ取り早く叩き込んでくれる場所だからなのだ。

 例えば、私の周囲には、デリバティブ(金融派生商品)を専門に学んできたMBAホルダーが多い。

 だから、2007年から08年にかけて爆発したサブプライムローン危機で「新自由主義経済」がこっぱみじんに吹き飛んでしまったいま、ビジネススクールが何を教えているのか、私は是非見てみたいと思っている。

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ネットがあるから音楽評論家なんかもういらない [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]



 インターネットが普及して不要になった商売の筆頭といえば、ジャパンの音楽ヒョーロンカでしょうなあ(さあ、ここツッコミどころですよ)。

 最近のヤングは知らんでしょうが、おっちゃんが若かった80年代は「ミュージック・マガジン」「レコード・コレクターズ」てなマニアックな雑誌があって(えっ!まだあるの!?ごめんごめん)、ケツの青いうがや青年は「ナイジェリアの政治状況とフェラ・クティ」とか「初期ヴェルベット・アンダーグラウンドにおけるフランス文学の影響に関する一考察」とか、学術論文みてーなヒョーロンカ先生の玉稿を貪り読んでは感涙、レコオドを買い求めてはまだ見ぬナイジェリアやニューヨークに想いを馳せたものです。牧歌的な時代でしたなあご同輩。

 しかし今じゃYouTubeを「フェラ・クティ」で検索すりゃ彼の演奏映像が拝めちゃう。80年代なら失禁するぞ。

 ヴェルベット・アンダーグラウンドなんてGoogleで355万件もヒットするんですぜ。

 カネ払ろて評論家先生なんぞに教えてもらわんでも、ずっと詳しい情報がネットでタダで読める。はははは。ホンマええ時代やなあ。

 で、需要のなくなった先生方どないすんのと思たら、やれアフガニスタン音楽がどうしたの、アメリカの田舎音楽がどうしたのと「世界僻地音楽巡り」というか、まあ有り体にいえばそれぞれタコツボに篭城して本土決戦を叫んでおられる。

 そんなもん、とっくにiTuneのインターネットラジオで聞いてますて。ええかげん降伏しなはれ。

 じゃ評論家に残された最後の仕事は何だといえば「優れた才能を発見して世に紹介する」ことしかないっしょ。

 で私はタコツボ戦には参加せず「現場に行く」って原点に戻ることにした。トーキョーやNYのミュージシャン仲間が「あいつはすごい」とほめる才能を探す作業ね。

 で、ずっと前からみんな興奮気味にすごいすごい言うってたのが「ドラびでお」。何じゃその藤子不二雄作国民的人気ネコ型ロボットのパチモンみたいなのは。いかにも胡乱。いかにもうさんくさい。

 この「ドラびでお」、要は一楽儀光って樵みたいなおっさんドラマー(山口在住の50歳らしい)一人のユニットなんだが、なんせドラムキットの太鼓にコントローラーを付け、どかすかドラムソロを叩きながらスクリーンに大写しになった画像を再生、逆再生、倍速、1/2倍速とぐちゃぐちゃに上映するっちゅうシロモノ

 マツケンサンバ、天皇皇后両陛下、赤穂浪士、北朝鮮、皇太子妃ご夫妻、シャイニング、ブッシュ、とワケのわからん画像がまったく無秩序かつ暴力的かつ脱法的かつ爆裂的に襲ってくる。ちっとやそっとのえぐいパフォーマンスじゃ驚かなくなったワタクシも、これにゃションベンちびった。

 任期中に政権を放り投げた国辱国賊・安倍晋三の「美しい国日本」演説なんざ、おっさんのドラムソロに合わせて「ううつくしいううううつくしいしいううううううううううつくしいしいしいしいううううううううううううううつくしいうううううううつつつつつつううくしいいいいいいくにににいににににににっぽんぽんポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポン」と、完全にあほ丸出し。いやあ安倍晋三って実はギャグだったんですね。

 と、横ツラ張り倒すようなパンチにワタクシは卒倒しましたあるよ。

 で、当然こんな著作権侵害・名誉毀損の塊みたいなアートは、ソフトファシズム国家・現代ニッポンでは犯罪者扱い、YouTubeに動画がアップされてもすぐ削除されてまう。

 ひょー。だめじゃん。

 いやいや、これでいいのだ。

 インターネットに頼らずライブを見なさい、ライブを。

 そういう芸術家と観衆が時間と空間を共有すること、そして再現不可能な「一回性」こそが、げげげげっげげっげげげげっげげいじゅじゅじゅじゅじゅじゅつつつつつつつほほほほほほ本来のすすすすすうすすすすすすがたというもんだだだだっだだだだだだだだだだだだだだだだだあああああ。


ドラびでおplays 灰野敬二VS灰野敬二 [DVD]

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平成大不況のなかなぜ「アラフォー」は消費が活発なのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

「アラフォーが元気」なんだそうだ。

「アラフォー」といっても「40がらみのおっさん」はアラフォーとは呼んでもらえない。女性専用である。

 じゃあ何歳から何歳までが”around fourty”(40歳前後)なんだ、とネットや新聞記事で調べてみると、だいたい40歳プラスマイナス5歳(35〜45歳)が共通理解だということがわかってきた(私はまだアラフォーじゃない!という数字に厳格な女性はプラスマイナス3歳説を唱える)。

 民放テレビとか雑誌とか、広告がらみのマスメディアがある特定の性別・世代を「元気だ」と言うとき、それは「消費行動が活発だ」ということを指す。他の世代に比べてエベレストに無酸素登頂できる人が多いとか、優れたトライアスロン選手が多いとか、そういう意味ではない。

 この「消費行動が活発な層」の条件は二つある。「一人あたりの購買力が大きいこと」=「お金持ちであること」。かつ「マーケットボリュームが厚い」=「人数がたくさんいること」である。つまり「お金をジャブジャブ使ってくれる人がたくさんいる」ことだ。

 企業にすれば、ここをターゲットに商品を開発すれば、モノがたくさん売れて利益がたくさん出る。「いいお客さん」なのである。

 折しも世は平成大不況にサブプライムローン危機が重なった泥沼の不況地獄。かくして、百貨店はアラフォー用オシャレな老眼鏡(いや『リーディンググラス』というらしい)を開発。化粧品会社は12万6000円のスキンクリームを、ホテルは2万円のバレンタインチョコレートを発売。果ては家電メーカーは「料理を作り置きすることが多い30〜40歳の独身女性をターゲットにした大型冷蔵庫」まで売り出した(9万円)。「アラフォー」は乾き切った不況砂漠最後のオアシスのようなもてはやされぶりである。

 アラフォー向け商品を売り出した企業は、マスメディアで宣伝する。スポンサー企業というお客様が広告料を払ってくれるので、マスメディアはアフラフォーが好むコンテンツを考えてCMの受け皿にする。

 テレビドラマはわかりやすい例だろう。「SCANDAL」「Around 40~注文の多いオンナたち」(TBS)「四つの嘘」(テレビ朝日)など、08年は「アラフォードラマ」の花盛りだった。

 天海祐希、鈴木京香、永作博美と実物のアラフォーを揃え「アラフォー視聴者が共感できるテーマ」(選択肢が増えすぎた現代女性の不安とかなんたらかんたら)を演じさせればOK。

 こう言ってしまうと実もフタもないようだが、そもそも「アラフォー」のように人口集団を「性別」と「年齢階層」という縦軸・横軸で切る考え方そのものが、マーケティングの発想であることをお忘れなく。

 ひとつだけ疑問が残る。じゃあなぜ、アラフォーはこの大不況の時代にそれほど「いいお客」なのだろう。まず、アラフォーの生まれた年を逆算してみよう。冒頭の例だと1963〜73年になる。

 ちょっと視点を変えてみる。雇用における性差別を禁止した「男女雇用機会均等法」が施行されたのは1986年だ。

 この法律以前、「女子学生はキャリア採用なし」とか、タリバーンみたいな性差別が日本でも当たり前だったのは、この欄でも書いた。

「女性と男性の給与待遇が同じ」つまり「女性の経済力=購買力が男性と同じ」時代が来たのは、86年からだ。つまり一般企業にとって女性が重要なお客様の仲間入りをしたのは、この年からだったといっていい。

 何を隠そう、この年に大学を卒業した女子学生が1963年生まれなのだ。86年といえば、バブル景気の真っ盛り。就職も楽勝だった。筆者はまさにこの世代。「地方私大文学部卒」の女性たちがロクな就職活動もなしに給料の高い企業にボコボコ就職するのを目撃した。

 この「就職楽勝期」が終わるのは、バブル景気が吹き飛んだ翌年、1993年からである。つまり逆算すると、アラフォー世代のうち1963〜69年生まれまでの層は「就職は楽勝。しかも男性と同じ購買力あり」ということになる。それで独身なら扶養家族もいないのだから、可処分所得が大きいに決まっている。これが「アラフォー」の「オーバー40」組の正体である。

 では「アンダー40」はどうだろう。

 日本が少子化を迎える前、最後の人口的膨らみである「団塊ジュニア」の定義は様々だが、広めに年齢層を取ると「1971〜79年生まれ」である。はい、もうおわかりですね。71〜73年生まれの団塊ジュニアこそ「アラフォー・アンダー40」のことなのだ。彼女たちはもちろん均等法世代だから購買力は男性並み。就職難だったとはいえ、人数が多いからマーケットとしては大きい。

 かつて90年代前半「F1層」(20-34歳の女性)が大きなマーケットとしてもてはやされたのをご記憶だろうか。

 あれは均等法で豊かになった女性が、重要な購買層として姿を現した初めての現象だった。さて「F1」に15歳足してください。きっちり「アラフォー」になりませんか?
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ワレ上方人、坂東ノ即興喜劇教室ニ入門セント欲ス [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]



 わが祖国・上方において「オモロないやっちゃなぁ」と言われることは死亡宣告に等しい重みを持ちます。

 ゆえに関西人の生活は常在戦場、「今年、何ドシや」「ウシやろ」など平凡な会話にも油断してはならない。

「そういえばなあ、こないだ梅田(浪速の繁華街)行ったらウシが服着て歩いとったわ」
「んなアホな」
「それがな、よお見たらキミのヨメはんやった」

とつなげば場は温かい笑いに包まれ、あなたの社会的評価はたちまちアップ。

 ビジネスシーンにおいてもアフターファイブにおいてもまた然り。

「東京のお方やったらやっぱりG党でっしゃろ」と異端審問され「はい原のファンです」などと正直に答えては危険だ。異教徒として焚刑、磔、車裂きなど迫害されます。

「いや3年前に大出血して手術しました」と飛んできた靴をよけるブッシュ大統領のようにスマートにかわしましょう。

 愛人いや恋人に「うちのこと、どれだけ愛してる?」と迫られた時はまっすぐ目を見て「ジンバブエのインフレ率くらいかな」(=10の16乗)と微笑むのがベスト。「東京の人やのにオモロイわぁ」とホットな歓待が待っています。

 こうした当意即妙のユーモアはサブプライム危機と格差社会を生き抜くには必須とか、私が移民しておりますここ坂東東国(ばんどうあずまのくに)においてもわが祖国の文化に学べという民声は高まり、喜ばしいことに「即興コメディ教室」さえ開かれているというではありませんか。嗚呼八紘一宇ノ世ハ来タレリ。

 感涙に咽びつつ坂東文化のハートランド渋谷そばの公民館風会場に行くと、休日だというのに40名近い善男善女が集うておる。

 四人一組。二人がセリフを即興で考え、残る二人はそれに合わせてこれまた即興で動く。春らしくテーマは「ひなまつり」。

 最初は素直に雛人形を飾る夫婦、その夫役たる私。いいねえ日本の美、日本の春。

 なのに!なぜか突然「ぼくを本当のお父さんにしてくださいっ!」とセリフが暴れ始めるもんだから、私はやむを得ず、やむを得ずだよ、相手の妙齢の女性を床に押し倒し、くちづけを迫る。ああっ僕はそんな人じゃないのに!でもいつの間にかベルト外してズボンのチャック下ろしてるし。

 三人一組。二人がデタラメ語をしゃべりながら即興で演技、二人が何をしているのか、私は自分が何なのか、当てる。

 が、わからん。

 何かおっちゃんとお兄ちゃんが抱きあってクネクネしながら私の手を引っ張るもんだから「全日本プロレスですか?」「もしかして二丁目系?」「それも3P?」と必死で尋ねるもむなしく二人が笑い転げて話にならん(正解=離婚する夫婦が子どもの養育権でモメている場面)。

 おい、即興コメディて難しいやんけ。講師の今井純先生、指導お願いしますわ。

 「頭で考えるんじゃなくて、まずは遊んでみて体感してください。現代人は『遊ぶ』って何か、わからなくなってるんです」。

そやそや。異議ナシ。

「日本の社会では『××でなくてはいけない』という縛りが多過ぎますよね。それから自分を解放するんです。あれはダメこれもダメの世界にいると心が病みます」。

 おお異議ナシ。満場の拍手。

「セリフでチンコとかマンコとか言っても、役になって言うんだからあなたがイヤラシイわけじゃない。イヤラシイと思うこと、それだって『縛り』でしょ?笑っちゃえばいいんですよ」。

 あーうー今井さん、私の母国ではマンコとは申しません。オメコです。って、今井さん関西人ちゃうの?

 実を言うとだね、今井師は「東京コメディストア」という即興コメディ劇団を主宰するマジメな演劇人なのよ。


 それもメリケンで演劇を長年勉学、「自由になるのは大変なのだ」という著作ありという学識者。

「ありのままの自分を解放し、他者とコミュニケーションを取る」という理想実現のため教鞭を執っておられる次第。

 つまりアレだね、わが祖国の伝統文化は米国の演劇理論をも先取りする先進性があったちゅうこっちゃね。何か強引なオチだな。ごめん修業と字数が足らんわ。



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小室哲哉逮捕に思う CD売れなくても音楽不況じゃない! ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 オバマ大統領就任式のはれやかな記事で一杯の夕刊(1月29日付)を開いたら、その隣に、やつれた小室哲哉が大阪地裁に入っていく記事が出ていた。

 詐欺罪で起訴された小室の裁判が始まったのだ。

 白髪が浮き、顔色の悪い小室、50歳。

 力強い笑顔のオバマ、47歳。

 多重債務者&詐欺犯と、初の非白人米国大統領。つい7年前までは小室も高額納税者に名を連ねる権勢の絶頂にいただけに、まるで日本のレコード業界の沈没を象徴するようで、このコントラストは残酷だった。

 1990年代、TRFや安室奈美恵、Globeを送り出した小室は、間違いなく「Jポップ」成功の功労者だ。

 日本のレコード市場が成長のピークを迎えたのは1998年だった。

 「オーディオレコード」(CD,アナログ盤、カセットなど音楽ソフトの総称)の生産金額は戦後最大の6075億円と、それまでの約10年で市場規模は2倍に急成長したのだ(日本レコード協会による)。
 この時期は、小室が人気の頂点へと上っていく時期と一致している。

 そして、小室が借金地獄に転落していくのに合わせるかのように、日本のレコード市場も急激な不況に見舞われ、08年はとうとう最大時の半分以下(2961億円。前年比89%)にしぼんでしまった。「Jポップ景気」は終わったのだ。

 しかし! と、私はあちこちで強調して回っているのだが、いまの日本は「CD不況」ではあるが「音楽不況」では決してない。「CDが売れない」からといってミュージシャンや作曲家が不景気に苦しんでいるかというと、そんなことはない。むしろ実態は逆なのだ。

 もっとも雄弁な証拠として「著作権使用料」の増減を見てみよう。

 音楽のレコードが売れたり、テレビで使われたり、カラオケで歌われたりすると、必ず「著作権使用料」が著作権の保持者・管理者に支払われる仕組みになっている。この著作権使用料、CDの売れ行きがダウンしていったその間にも、むしろ増えているのだ。

 例えば、先ほどのオーディオレコードの生産額がピークだった1998年には985億円だった著作権使用料(日本音楽家著作権協会=JASRAC調べ)は、2007年には1156億円に増加している

 つまり、作曲家やミュージシャンへと流れるお金はむしろ増えているのだ。CDの売れ行きが激減しているのに、一体なぜだろう。

 簡単に答えを言ってしまえば「CD以外の新しい音楽メディアが続々と登場したから」だ。

 確かに、CDの売れ行きが減ったためCD関連の著作権使用料収入はガタ減りである。

 が、一方で通信カラオケやインターネット経由の音楽配信、音楽DVDといった新興メディアが次々に登場、CD関連が減った分を埋め、それどころか著作権料全体を押し上げた。

「ネットの音楽配信って、いつの間にそんなに大きくなったの?」と不思議に思われるあなた。

「iTune Store」のようなPC端末型インターネットストアだけが「ネット音楽配信」ではないことにどうぞご注意を。日本には「着メロ」「着うた」「着うたフル」という、携帯電話をメディアとする巨大な音楽ネット配信市場がある。

 そういう意味では、携帯電話は1億583万台(08年12月)も普及した、莫大な数の「音楽再生機」なのだ。おかげで、インターネット音楽配信としては、ネットストアより携帯を端末とする「着うた」系の方がはるかに大きな市場を誇っている。

 アナログにせよデジタルにせよ、音楽を運ぶメディアがレコードだけだったころは話が単純だった。「レコードの売れ行きをカウントしたヒットチャート=人気の指標」だったからだ。

 しかし、音楽を消費者に運ぶメディアがこれだけ入り乱れると、「着うたダウンロード数チャート」「iTune Storeチャート」「音楽DVDチャート」等々、様々なメディアごとにヒットチャートが成立してしまう。

 そして、それぞれの楽曲の売れ行きを見てみないと「誰の何の曲に人気があるのか」が、さっぱりわからない。音楽メディアが違えば「人気曲」がちがうことだって当然あるだろう。複雑だ。

 いま著作権使用料全体に占める「オーディオディスク」(CDなど)の割合は18.7%にすぎない(07年。JASRAC調べ)。

 DVDやビデオは14.6%、インターネット配信は7.2%だ。近い将来、CDと他の音楽メディアの比率は、並ぶか、逆転する可能性が高い。

「レコードの売れ行き=人気の高さ」という伝統的な「ヒットチャート」は終わるだろう。

 そして何が人気曲なのかわからない、ものすごく多様で、ものすごくややこしい時代が来る。

(文中敬称略


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スカトロもウエブ2.0の時代へ! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]



 親愛なる読者のみなさまあけましておめでとうございます。

 旧年中は数々の言葉の暴力たいへん申し訳ありませんでした。

 お原稿料をいただいている週刊金曜日様を「国賊アカ雑誌」「極左偏向媒体」と罵倒したり、大事な読者さまでおられる団塊の諸先輩に「時代錯誤の徘徊老人」と罵声を浴びせたり、あげくの果ては将軍様じゃなかった偉大なる編集長さまを「毛がない」等々と暴理暴論の嵐、いかに事実とはいえ筆が過ぎました。もうこれ以上名誉毀損訴訟はごめんです。本年からは無産階級としての本分をわきまえ赤色革命の道を精進する所存でございます。

 というわけで早春にふさわしい清々しい話題を供したく申し上げるのですが、みなさま「スカトロ」をご存知でしょうか。

 はいはい、キューバ革命を成功に導いた革命家にして元国家評議会議長?

 ああそれ週刊金曜日のアカ読者的には正しいのですがチョットちがうようです。

 排泄物・吐瀉物などを偏愛の対象とする前衛的な性的嗜好。まあ手っ取り早く言えばウンコやオシッコを愛好する革命組織ですね。

 大便を食べる、または尿を飲むと性的に興奮する。人前で脱糞する、あるいは着衣のまま失禁すると快感を覚える。ゲロや痰、鼻水を愛好される党員もおられるとか。セクト活動は多岐に亘るようです。

 いやいやスカトロ議長をナメてはいけません。昨年、インターネットで世界最大の視聴者を集めたのはオバマでもサブプライムでも蟹工船でもなかった。どうぞYouTube(あ?ああ、動画投稿サイトっす)で”Two girls, one cup”って検索されたい。これブラジルのスカトロポルノの予告編(ウィキペディアにまで載ってるので正体がわかった)。たった1分の画像なんだが、愛くるしい女性ふたりがガラス容器にモリモリと脱糞、仲良くソフトクリームみたいにペロペロ食って最後はお互いの口にゲロ吐きあうというとんでもない爆裂映像なんです。

 いやオモロイのはコッチじゃない。これを見た世界中の人たちが「リアクション動画」ってのを次々にアップし始めたんですな。つまり自分の家族や友だちをダマして件の動画をパソコンで見せ、そのげろげろな狂態をまた録画してYouTubeで公開しちゃう。これが腹よじれるほど笑えるんだわ。

「91歳の祖母に見せました」(殺す気か)
「美人の婚約者に見せました」(破談や)
「ウチの弟に見せたら吐きました」(兄貴ってのはまったく)
「一家で見ました」(頭おかしい)

って、おいこら地球人、お前らホンマようやるわ。

「マーリーンおばあちゃんに見せました」で白人のばーさんが「がっ。ぐえっ」と目をむいて「コラあんた、一体どういう気だい!!」と孫に激怒する映像は275万回も再生されとる。

 アメリカ陸軍の宿舎らしき部屋では、若い米兵が本気で吐いてます(87万回再生)。こんな兵力ではイラクは持たんでしょうなあ。

 どっかの中南米じゃラティナ・ガール4人が「わっきゃー。ヤメテー」(多分)と叫びながら明るく飛び跳ねている。

 アフリカ系の男性2人は「う〜ひょっひょ・う〜ひょっひょ」とヒヨコのように両手足をばたつかせながらイスから転げ落ちる。

 おお見よ。これぞグローバル・シチズン。これぞウエブ2.0。スカトロは世界をつなぐ。

 いやマジで。糞食動画に「ぎょえ〜」と反応する世界の人々見てると、しみじみ思う。人間てどこ行ってもあまり変わらん。でもやっぱ微妙に違う。万国のスカトロよ団結せよ

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平成大不況唯一の成果は優秀な人材が企業からNPOに流出したこと ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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「勝ち組vs負け組」「正規雇用者vs非正規雇用者」「ワーキング•プア」「ネットカフェ難民」「貧困問題」などなど。

 言葉は違えど、結局指し示すところはみんな同じだ。日本が「一億総中流社会」から「貧富格差社会」へ、はっきり変化したという事実である。そして、この変質はもう元に戻ることはないだろう。

 日本企業は平成大不況にすったもんだ苦しんだあげく、かつて「日本的経営の美徳」と言われた「終身雇用制度」(同じ会社が新卒入社から定年退職まで雇用を保障すること)を破壊するという、昔なら「やっちゃいけないこと」に手を染めた。つまり「リストラ」という美名でごまかした、従業員の「首切り」「解雇」だ。英語でいうlay offである。

(1)正規雇用者をクビにする(2)人件費の安い非正規雇用者(『派遣社員』『契約社員』『アルバイト』『パート』など)で補充する(3)新卒採用を減らす(これは若年失業者を増やす原因になった)(4)業務をコストの安い外部企業に委託する(アウトソーシング)(5)生産部門など業務の一部を人件費の安い海外に移す。

 どれも「人件費」というコストを削減しようとしているという点では同じだ。「人件費」とは給料だけを意味しない。医療保険、年金、家賃や通勤費補助など、正規雇用者なら当然の権利として認められている金銭的支出が徹底的に削られる。

 少子高齢化で、国内市場の拡大など絶望的だ。売り上げが伸びないなら、コスト(支出)を削るしかない。

 この首切りという「やっちゃいけないこと」、やってみると「意外においしい」ことを経営者は覚えた。みんなが一斉にやったので社会的非難も拡散してしまった。コストダウンで経営が改善されると経営者や企業は株価で評価アップされるし、製品やサービスを値下げできれば消費者にも喜ばれる。

 というわけで、一度「やっちゃいけないこと」をやって味をしめた経営者が、昔の終身雇用制に戻ることなど、もうありえないだろう。

 困ったことに、労働者と、安価な商品を求める消費者は、往々にして一枚のコインの裏表だ。場合によってはネット株や401K(年金ファンド)の株主かもしれない(こういうふうに市民が株主でもあり企業従業員でもあるという状態をロバート・ライシュは『スーパーキャピタリズム』と呼んでいる=『暴走する資本主義』)。

 こうして、貧困に陥った消費者は安価な製品を求める→企業はコストダウンに励む→またレイオフが増える→自分の首を絞めると、日本社会はとんでもないネガティブ•スパイラルにはまり込んでしまったのである。そこにサブプライムローン危機まで襲いかかってきたものだから、もう地獄だ。

 明るい材料はないのか? 申し訳ないが、まったく見えない。

 長らくの雇用慣行を捨てて冷静に考えてみると、企業は慈善組織ではないことを経営者は悟ってしまった(終身雇用制度下の日本企業は福祉組織的な性格を帯びていた)。

 利潤を上げ株主に利益を最大限還元するのが彼らの仕事だから、今のコースを変更する経営上の理由はない。好き嫌いや善悪は別にして、それが資本主義の現実だ。日本でも、いつの間にか認識がそういうふうに変化してしまった。

 唯一の希望ではないかと私が思うのは、こうした貧困•格差問題に取り組む新しい世代の人材が、NPOを舞台に次々に誕生していることだ。

 例えば「自立生活サポートセンター•もやい」は、住所不定状態にある人たちにアパート入居時の連帯保証人の提供や、生活困窮者への生活相談を活動の二本柱にしている。その事務局長•湯浅誠は、1966年生まれ、東大法学部の博士課程修了という経歴を持つ(筆者注:09年に民主党/鳩山政権が誕生して国家戦略局参与になった)。

 私もインタビューしたことがある。穏やかで心優しく、かつ頭の切れる人だった。

「貧困は自己責任」という言説に反論し、人々が滑り台を落ちるように貧困に陥っていく原因を分析した「反貧困」(岩波新書)で大佛次郎論壇賞を08年に受賞している。

 NPO「コトバノアトリエ」を主宰する山本繁は1978年生まれ。慶応大学環境情報学部を卒業後、02年からNEETや引きこもり、不登校の若者のための自立支援活動をしている。

 インターネットラジオ「オール•ニート•ニッポン」、漫画家や芸術家志望の若者のためにグループホームを借り上げる「トキワ荘プロジェクト」など、アイディアと行動力が豊かだ。何より本人が明るく元気なので、見ていて楽しい。

 湯浅や山本のような若い世代のアクティビストたちは、これまでの団塊の世代の「市民運動家」とはまったく違う。まず「政府は何かして解決しろ」とは言わない。政府に要求せず、自分たちの手で解決策をつくる。政策提言をする。政府に要求しないから、政党とつながりがない。

 マルクス主義や社会主義とも無縁のポジションから出発している。だから政治色も政党色もない。非常に現実的かつ実務的である。インターネットを組織の要にしている。たまにリアルの世界で示威行動もするが、ラディカルなところがない。

 一昔前なら、おそらく湯浅や山本のような「高学歴」な人材はNPOに「就職」したりはしなかっただろう。「いい大学出て、いいカイシャに入って、定年まで安泰」という終身雇用制を基盤にした

「ジャパニーズ•ドリーム」がこっぱみじんに破壊されて良かったことといえば、NPOに有能な人材が流入していることくらいだろうか。(文中敬称略)
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オバマ大統領が象徴する「アメリカの世紀」の終わり ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 世界を支配する超大国(super power)の条件「三つのM」とは何か、ご存知だろうか。

 Military(軍事力)、Media(マスメディア)、そして Money(通貨)の力である。

 1991年にソ連が崩壊•消滅してから、この三つのMを兼ね備えている国は世界にアメリカしかない。日本はマネーでは強いが、軍事やメディアの海外での影響力がゼロに等しいので、大国にはなれても超大国にはなれない。

 米国の軍事力の強さは言うまでもないだろう。人類を破滅させることができる量と輸送手段を持つ核兵器はもちろん、世界のどこで何が起きても対応できる通常兵器と兵力、輸送力を、他国に頼らずに行使できるのは米国だけだ。

 米国のマスメディアの世界的な優位は、時代が変わっても一貫している。1980年に開局したCNNの影響力は今も健在だし、インターネットという新しいマスメディアも米国生まれ。マイクロソフト、ヤフー、グーグルと、インターネットメディアの新しい主役たちはどれも米国から登場している。

 そして国際基軸通貨としてのドル。

「基軸通貨」の定義はいろいろあるが「国境を越えたモノや資本の決済に使える信用」=安心感が一番大事だ。

 外国と商売をしてドルで代金を受け取っても、それが突然紙くずになった、自国通貨に交換したら大損した、なんていうことがない。こういう安心感を「通貨価値が安定している」という。「通貨価値が安定している」ためには「米国の政府や金融システムが安定している」ことが必須だ。

 政府が崩壊状態になり、1ヶ月のインフレ率が279京%(1京=10の16乗)なんてジンバブエ•ドルは、絶対に基軸通貨にはなれないのだ。

 ただひとつ問題なのは「安定しているかどうか」は主観的な判断だということだ。つまり世界の人々が米国政府や金融システムを「信用」しなければ、ドルは基軸通貨として機能しない。「ドルは危ないから受け取りません」と人々が言い出せば、基軸通貨としてのドルは崩壊する。

 ここまで説明すれば、過去8年のブッシュ政権の愚策がいかに米国の「信用」を破壊したか、お分かりだろう。

 まずイラク戦争。9.11テロでパニックしたブッシュ政権が、「イラクに大量破壊兵器がある」というウソ情報に飛びつき、9.11テロには何の関係もないイラクをムチャクチャに破壊してしまった。逆立ちしても正当化しようがない阿呆な戦争である。

 これで「米国政府」への信用はぺちゃんこ。

 そしてサブプライムローン危機。「グローバル•スタンダード」などといばっていた米国の金融システムの正体が「金融工学」(ルビ:デリバティブ)で膨れ上がったモンスターのような「バブル」にすぎなかったことがバレてしまった。

 20世紀の100年間に、人類は2度の世界戦争を経験した。そしてどちらの戦争でも勝敗を決定したのは米国だった。

 特に1945年以降、米国の軍事力とドルが、安定した平和と貿易を保障したため「先進国」と呼ばれる資本主義国は平和と経済繁栄を享受できた。

 この時代を歴史学や政治学では「Pax Americana」と呼ぶ。ラテン語で「アメリカ支配による平和」の意味だ。(歴史上ローマ帝国支配による平和のことをPax Romana、英国の世界支配による平和のことをPax Britanicaと呼ぶのにならう)

 戦後、米国の軍事力の保護下で経済発展を遂げた日本は(お礼の意味かどうかわからないが)、米国債をせっせと買った。

 実は、米国政府が赤字をジャージャー垂れ流しても、ドルの信用崩壊を気にせずに済んだのは、チョー友好的な日本が「国債を買う」という形でいくらでもおカネを貸してくれたからなのだ。

 だから歴代の大統領は「日米関係は世界でもっとも重要なパートナーシップ」とヨイショしてくれたのである。

 ところが、経済発展した中国がいつの間にか米国債を買いまくり、08年9月、とうとう日本を抜いて世界最大の米国債保有国になってしまった(中国=5850億ドル/日本=5732億ドル)。

 日本に比べると、中国はどう見ても米国に友好的な国とはいえない。そんな国にサイフを握られたら、米国の信用は、ドルの信用はどうなるのか。

 それを見透かしたかのように、サルコジ仏大統領は08年11月の金融サミット直前「ドルはもはや唯一の基軸通貨とは言い張れない」と演説している。

 では、ドルに代る基軸通貨があるのか? 見当たらない。

 政府も金融システムも信用を失ったまま「代わりがないから」という消極的理由でドルが基軸通貨に居座り続けると、どうなるか。

 米国=ドルはますます不安定になり、世界はぶんぶん振り回され続ける。オバマは「パックス•アメリカーナ」の最終章を飾る大統領になるかもしれない。


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70年代フォーク専門カラオケに潜入取材だ! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

081206フォーク専門カラオケに潜入

 格差社会ニッポン。日本の赤化革命を目指すプロレタリアのみなさまの愛読誌「週刊K曜日」にさえ格差は存在する。以下は極秘で入手した、正規雇用者•編集部員Kと、身体以外に生産手段を持たない無産階級フリーライターUの間の電話盗聴記録である。

K「年末号のコラム、とっとと出してください。私の正月休みが来んでしょうが」

U「あーうー、じゃあここは週刊K曜日らしく『2008年ベストスターリン主義者大賞』なんてどうでしょう」

K「またタワケ言って、クラミジア菌が脳に回ったんじゃないですか」

U「連載始めるとき『K村編集長の髪型批判以外なら、言論の自由は保証する』って約束したじゃないですか」

K「あのころはまだ編集長にも毛があったんです。ウダウダ言ってると訴訟がまた増えますよ」

 というわけで哀れな無産者Uが命じられた任務は、対立セクトへの潜入•偵察、すなわち「エス」(スパイのこと)であった。

 監視対象は東京•上野にある「フォーク専門カラオケ店」、そこに客を装って潜入し、決起盛んな(誤字)団塊フォークゲリラたちを監視報告せよとの命令が党中央から下ったのである(なお以上の物語はフィクションであり、実在する週刊誌および編集者、ライター、訴訟とは一切関係がありません)。

 てまあ字数稼ぎのヨタ話は置といてだね、そんなもんホンマに実在するんかと思ったら、あるんだよねフォーク専門カラオケ店。

 師走、泥酔リーマン&ゲロでぐちゃぐちゃの金曜日夜9時の上野。

 嗚呼そこはイモを洗うようなオヤジの海であった。

 あったあった「ビッグエコー」の地下に「フォーク居酒屋」って看板が。

 ぐわわ「HIT STUDIO 70’s 旅のつづき…」ってこの店名、最後のテンテンは何だ。団塊の諸先輩方、まだ旅してんの!?はよ家帰らんと徘徊老人と間違われてケーサツに保護されまっせ。

 うくくドア開けると店ん中、ムンムン満員。みなさん老眼鏡使用、毛がないか、あっても白髪またはビゲンへアカラー使用って風体が渋い。うう加齢臭とポマード臭で息苦しいよう。

 ちょっと待て。ステージあるやん。ドラム、ベースもおる。ギター、キーボードも。これカラオケちゃうやん。バックバンドつきライブハウスやんか。

 うわわ客、どんどんステージに押し寄せ、ギターを取り歌うわ歌うわ。出た!吉田拓郎だ!かぐや姫だ!オフコースだ!ヤァ!ヤァ!ヤァ!

「すみません、歌詞が細かい字なんで間違えました」と謝る客に「大丈夫です!うちのお客さんはたいてい目が弱ってます!」と司会の店員がアブない客イジリ。

 客席から「総務カチョー」と自虐的なヤジが飛べば、ステージのおっちゃんは「うるせえ!総務はまだやってねえ!」とまた泣かせる返し。

 ギャーホワヒョーと雄叫び手拍子足拍子、山賊の宴会かねここは。

 いやねでもね正直感心した。みんなチョーうまいんだわ、これが。歌詞と、自分のキーに転調したコード進行をパソコンでプリントアウトした「マイソングファイル」をちゃんと持参してる!

 銀縁眼鏡にオールバックがしぶいエロカワさんが歌うはオリジナル曲「新宿レイニーブルース」だ。

 大学教授と名誉教授みたいな高齢デュオがギター弾きながら絶妙なハーモニーで歌うは「22歳の別れ」。この人たち、普段一体何してんの?

 で、スパイ活動はっていうと。

「じゃあ、そこの初めてのお客さん!」
「歌手的には誰が好み?」

と指差されたわし、衆人環視の中

「あーうー、昔の井上陽水が好きです」

なんて口走ったのがまずかった。たちまちステージに引っ張り上げられヤケクソで「帰れない二人」を歌ったらバカウケしちまった。

 大歓声と拍手。みなさん「うまいね〜」「渋いね〜」と握手してくださる。ううう何ていい人たちなんだ。何だか嬉しいし楽しいぞ。

 あ、これ、おれも「あっち側」へ行っちゃったってこと?

 もう「お迎え」?

 オーマイガーノオノオノオ。

(1580字)



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オバマ大統領誕生は人種差別の克服なのか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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バラク•フセイン•オバマ。留学生だったイスラム教徒のケニア人、バラク•オバマ•シニアを父、白人のアメリカ人文化人類学者アン•ダナムを母に、ハワイで生まれる。母がインドネシア人と再婚したためジャカルタで10歳まで過ごす。母方の白人家庭で育ち、コロンビア大学、ハーバード大学ロースクールという、白人が圧倒的多数の東部アイビーリーグを卒業した優等生。人種的には「アフリカ系」だが、奴隷を祖先に持たない。宗教はプロテスタント。

 この第44代アメリカ大統領の生育歴をたどるだけでも、もはや「アメリカ人」は日本人が想像するような「黒人vs白人」などという単純な図式では理解できないことがわかる。

 私の周囲でも、コロンビア大学院や記者の仲間には「インドネシア人とコロンビア人のハーフ」「ハンガリー系ユダヤ人とアイルランド系のハーフ」「イラク系ユダヤ人」と、想像を超えるエスニック•バックグラウンドの友人がごろごろいる。

 私がジョークで「あなた一体、何人?」と聞くと、彼らはいたずらっぽく笑って「『アメリカ人』としか言いようがないな」と答える。

 ところが日本のマスメディアのオバマ報道は、実に古くさい。「キング牧師の夢がかなった」とか、まるで40年前の公民権運動時代で時計が止まったようなステレオタイプな図式のままだ。

 自らもアフリカ系のコラムニスト、エリス•コースは「バラク•オバマの偉業は、ある意味それほど大したことではない」と言い切っている。「共和党の現職大統領がのけ者扱いされ、また現政権が主導してきたアメリカの金融が崩壊した年、つまり民主党候補の勝利が当然の年に勝ったまでだ」(ニューズウィーク誌08年11月19日号)。

 その通りだ。コリン•パウエル、コンドリーザ•ライスと、日本の報道では「マイノリティに冷たい」はずの共和党(ブッシュ)政権でさえ、アメリカ外交の最高責任者(国務長官)を務めたのは揃ってアフリカ系だったということをお忘れなく。キング師は天国で「私の夢はとっくの昔に実現しとる」と言っているだろう。

 キング師時代の公民権運動から生まれた「Affirmative Action」(AA)という制度をご存知だろうか。「少数派優遇政策」などと訳される。アフリカ系、ラテン系、女性など社会的に不利な立場に置かれているマイノリティを積極的に優遇し、多数派の白人と同じスタートラインに立たせるという制度だ。大学入試や企業の採用に人種、性別、宗教、出身国などの「枠」を設け、地域の人口と同じ構成比になることを求める。有り体に言えば「ゲタをはかせる」のだ。

 この言葉が初めて使われたのは1965年、ジョンソン大統領が発した大統領令である(念のため。アメリカ以外の国にもAAはある。日本の『障害者の雇用の促進等に関する法律』が定める義務雇用率はその一種。女子特別枠を設けている大学や企業も日本にちゃんとある)。

 この制度が生まれた1960年代以降、アフリカ系の大学進学率が上がったことは間違いない。1970年に6.7%に過ぎなかったアフリカ系の大学進学率は20年で倍になった。1990年。医師、弁護士、教師、エンジニア、官僚など様々な専門職にアフリカ系が進出するドアを開いた。

 働き盛りの主要所得者(35-44歳)を持つ既婚家庭に限ると、平均所得は同じ20年の間に年2万7000ドルから4万3000ドルへと増加。「アフリカ系中産階級」が急増、白人家庭との格差は縮まっている。カルフォルニア州立大学のように「AAの役割は終わった」と廃止する動きさえ出ているほどだ

(それでも『AAは逆差別だ』『いや、まだ差別は解消していない』と全米で訴訟や論争が続いていることは強調しておく)。

 その結果、アフリカ系の中でも中産•富裕層と貧困層が分離している。白人、ラテン系内でもそうだ。私が大統領選のため全米を取材した1996年(クリントン政権2期目)の時点ですら、これは明白だった。こうして見ていくと、1961年生まれのオバマを理解するのに「アフリカ系→奴隷の子孫→差別の被害者→貧困」といったステレオタイプがいかにピント外れか、おわかりだろう。

 断言するが、人種問題に拘泥していると、いまアメリカ社会の本当の対立軸になっているものを見失う。それはレーガン大統領以来、共和党•民主党政権問わず続いた新自由主義経済(政府の経済への介入を極端に嫌う自由市場原理主義)が悪化させた、経済格差である。それは日本の「格差社会」と、原因も結果もまったく同じだ。そして、状況はサブプライムローン危機でいっそう悪化している。オバマはそんな最悪の時にアメリカ大統領になるのだ。



マイ・ドリーム―バラク・オバマ自伝

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  • 作者: バラク・オバマ
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2007/12/14
  • メディア: 単行本



Numero TOKYO (ヌメロ・トウキョウ) 2009年 02月号 [雑誌]

Numero TOKYO (ヌメロ・トウキョウ) 2009年 02月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2008/12/26
  • メディア: 雑誌



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めったにほめない私だがほめますよ コマイヌ [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

 す•び•ば•せ•ん•ね。今回もブーたれますよ。

 わし、日本のいわゆる「ライブハウス」て好かん。

 だってミュージシャンを甘やかすから。

 ほれ、よくある駅前商店街の雑居ビル地下一階、どーでもええ模倣バンド四つ二千五百円で!、紙コップ入りシケたドリンク五百円で!、壁は落書きとギグ宣チラシだらけ、てなハコよ。あんたらほんま保守的やね。おっちゃんがパンクバンドで暴れてた二十五年前から時計止まっとるやん。

 いやね、アタシもニューヨークで演奏するまで気づかなんだがね(おっちゃんベース弾きやねん)、あちらの”bar”(バンド演奏つき酒場)って、基本は飲酒酩酊•泥酔乱闘•嘔吐失禁する場所なのよ。

 有名なパンクのゆりかご「CBGB」(今はもうない)だって店内の半分はバーとビリヤード場だ。言ってみりゃ「つぼ八」でバンドが演奏してるみたいなもんで、よほどいい演奏しないと客は振り向かん。

 ホント東夷南蛮ども、大音響なんぞ屁とも思わず飲んだくれとる。ここじゃミュージシャンは海兵隊みたいに鍛えられるぞ。

 それに比べりゃ日本のライブハウスなんて大アマ。だって客は最初から演奏聞きに来てるんだもん。

 んでしょーもない演奏でもイエーイエー、最後はアンコールアンコールのお約束(客はだいたい知り合い)。

 こげなメダカの学校じゃ、客が振り向かざるをえんようなパワフルな音楽は出てこんじゃろ、フツー。

 NYみたいなハコは東京にはないなあ、寂しいなあ、などと落涙してたら、あった!

 渋谷はラブホテル街の薄暗い裏路地、エログッズ屋とエロマッサージ屋の裏に「Ruby Room」って怪しげな電飾看板。

 ワケわからん倭人•異人どもが出入りして、とってもラブリーないかがわしさ。しかも火曜夜はサインインすりゃ20分間ステージで何してもいいっていうじゃありませんか。

 で客ほとんど毛唐、じゃなかった欧米人だからだろうね、演奏がよけりゃアカペラだろうがバグパイプだろうが大歓声と握手攻めが待ってる。

 が、つまらんと義理拍手もない。ほんまアングロサクソン的実力主義。

 だから「こら他じゃ演奏できんわなあ」って個性的なミュージシャンが雲霞のごとく集まってきよる。ぼかァ大好きだなァ、こういうの。

 以上前置き。長い。すまん。ここで見つけた中でもとびきりオリジナルだったデュオ「コマイヌ」を紹介したかったのだよ。

 いいよ〜コマイヌは。かわいらしいTシャツ•ジーンズのおねえちゃん二人組。

 が!ANAどってはいかん。アンナちゃんはマックの白いラップトップを「演奏」しながらボサノバみたいな声で淡々と歌っとる。相棒マイちゃんはトランペットを吹いとる。サンプラーやらディレイやらフェイズシフターやら機械とコードの山に埋もれ、声にペットに山びこみたいなエフェクトがかかっておお牧場はアンビエント。

 じゃ、よくあるアンビエントテクノじゃん。ウヒヒ最後まで聞けなさい。

 コマイヌは何と即興演奏バンドなのだ。鈴だパンダ太鼓だとおもちゃ、ケータイに録音した踏切の警報音、ガキの声、雷の音など(演奏に来る途中でテキトーに拾ったらしい)エフェクトがかかって音楽の一部でアンビエント。これがまるで雨上がりの森を歩いているように気持ちイイからぼかァ不思議だなァ。

 だいたいやね、パソコンとペット、おもちゃにケータイで即興音楽やっちゃうってのが、ギターだベースだドラムだって頑迷固陋の邪教「バンド教」を断固粉砕してくれて気持ちええね。

 おれはめったにほめないが、今回は拍手すっぞ。ブラボーブラボー。

さらばサラリーマンNEOまた会うヒマで [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 今では本欄のようなふざけきった駄文を書き散らし怠惰極まる日々を糊塗する小生も、かつては憲法九条原理主義、おっとまちがえた世界恒久平和思想新聞で17年間社畜をしておりました。

平日は帝政ロシアの農奴も怠け者に見える苦役労働、土日は死体同然眠るだけのスレーブリー人生。万国の社畜よ団結せよ。だから日曜夜のあのゲロゲロディプレッシブな気持ちはよくわかる。

 ほやし!日曜夜11時からNHKが「サラリーマンNEO」の放送を始めたときにゃーぶっ飛んだね。

 だって、平成大不況&サブプライムローン危機に呻吟するニポンのサラリーマン諸兄がげろげろアワーを過ごすその時間に、カイシャをネタにしたコント番組ですぜ。

 まあわが郷土の誇る怪物コメディアン俳優、槍魔栗三助(やりまくりさんすけ)こと生瀬勝久が「書類をなめる癖のある部長の指にワサビを塗る社内スタントマン」とかあほの極みを演じるのはわかるよ。

 だがね、私の永遠のアイドル•スケバン刑事南野陽子はブチ切れたオバチャンになって暴れてるし、ピカピカに光ってた元祖巨乳スター宮崎美子は嫌みなオカンになって20代の娘に毒気を吐き散らしてるし、東宝正統派二枚目スター宝田明はアブないイカレポンチ社長だし、中田有紀アナウンサーは眉ひとつ動かさず共演男優をイジメる残虐冷血サド女だし。

 あううう。いいのかみなさまのNHK。ホントにいいのかまっすぐNHK。

 いや、それだけならコメディにはクソうるさい小生があれほどはまらなかった。

 サラリーマンNEOがすごかったのは、NHKそのものをおちょくり対象、つまりセルフ•パロディにしちゃったところなんだわ。

「昼寝スペースでサラリーマン客の熟睡のために『退屈な上司』が導入されました」なんてうそニュースをまじめくさって読み上げるスタジオはどう見ても本物のニューススタジオ(だから背景に『これはコメディ番組です』と書いてある)。

 じじむさいオッサンが出てきてコントについて原稿棒読みで解説する「コントを読む」って、ニュース解説「あしたを読む」のパロディだろが。

 ハゲ、ちょんまげ、ヒゲのおっさん3人がピアノの伴奏で繰り広げる「テレビサラリーマン体操」って、ちょっとあんた、日本放送協会もサバけたもんだね。かつて1970年前後にイギリスの公営放送BBCが放送したギャグ番組「モンティ•パイソン」にやっとジャパンも追いつきましたかね。ナーイス。

 なーんて。そう思ったけど、やっぱ違うね。

 これだけ大暴れのサラリーマンNEOも、政治家のおちょくりにだけは手を出さないんだよね。

 一度「会社の王国」(何のパロディかわかるね)ってコントで「困った上司編」の中に、ライオンみたいなグレイヘアーの長髪、灰色の背広で「まあみんながね、それぞれ力を出し合って」とかゴタクをモゴモゴつぶやく「一見もっともらしく聞こえるんだが結局何言ってるんだかわかんない上司」が出てくる。

 これどう見ても、俳優の小泉孝太郎のパパで内閣総理大臣だったオッサン(名前忘れた)ですわな。

 だが解説は「ほひふひ劇場型上司」って氏名部分が音声も文字も消されてる。

 グエヘヘヘ。

 ま〜このオッサンが任命する総務大臣がNHKの予算も役員人事も握ってますからね〜。剣呑、剣呑。

 同じ公営放送でも「モンティ•パイソン」じゃ連邦大臣が施政方針演説をしながらストリップを踊っていたし、内務大臣はピンクのワンピースに白いハイヒールの女装で住宅政策を語っていたんだがね。

 あ、そうか。「ほひふひ」コントそのものが、政治家に逆らえないへなちょこNHKのおちょくりってことかね。

 ウヒヒ。それなら笑えるし許したる。

(冒頭の画像はネットに落ちていたのをあまりに笑えたので筆者が勝手に拾って貼付けたものです。サラリーマンNEOとは無関係でした。でもサラリーマンNEOもこれくらいがんばってくれればよかったのにと思います。お詫びして訂正します)


地球温暖化には原発しか選択肢がないってホント!? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 この夏「地球温暖化防止のため」と、エアコンの設定温度を28度にして汗だくで我慢したエコ派のみなさんにはショッキングなお知らせです。

 みなさんの努力は無駄でした。それどころか、いま世界で原発が建設ラッシュです。そう、エコ派が「環境保護派」と呼ばれた90年代、彼らがあれほど忌み嫌った原子力発電所が、です。

 今回はこの壮大な皮肉についてご説明しましょう。

 まず、基本的な事実から押さえておこう。エコ派の涙ぐましい努力にもかかわらず、日本の家庭用電力消費量はバブル期の80年代から一貫して増え続け、まったく減る気配がない(エネルギー資源庁による)。

 その大半は「照明•エアコン•テレビ•冷蔵庫」である。

「え?ウチは節電型使ってるのに?」なんて言っているあなた、食器洗浄機だとか大型液晶テレビとかパソコンとか、新しい家電製品、買ってません?それじゃだめです。

 個人消費が衰え、泥沼の平成不況でもがく日本ですらそうなのだから、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)など工業化が進む国々の電力需要は伸びる一方である。

 中国には13億人、インドには11億人の巨大な人口がいるのだ。特に中国は過去5年、2ケタの勢いで電力需要が伸びている。つまり、世界を見渡すと電力需要は衰えるどころか、増えるばかりなのである。

 さらに21世紀に入って、二つの問題が発生した。ひとつは「地球温暖化は世界の危機だ。その防止のため、CO2排出量を削減しよう」という合意が先進国で生まれたこと。

 ドキュメンタリー映画「不都合な真実」はご覧になっただろうか。あの中でアルバート•ゴア元米副大統領が力説していた話だ。

 CO2を大量に発生させる元凶は、化石燃料(石油、石炭、LNG=液化天然ガスなど)を燃やして動く機関である。例えばガソリンで走る自動車はその代表。そして、言うまでもなく火力発電もそのひとつだ。

 日本の場合、発電電力量の60%が火力発電によってまかなわれている(ちなみに水力は9%、原発は31%。いずれも06年)。

 電力需要は増える一方なのに、「地球温暖化の元凶CO2を出すから、火力発電の稼働は減らしていきましょう」という無理難題が持ち上がったのである。

 風力発電もソーラー電池も、日本や欧米のような電力大量消費社会を支える主軸としては、まったく歯が立たない。じゃあ、仕方ない。原子力発電しか選択肢がないですね。政府はそう判断するわけだ。

 エコ派には皮肉なことに、原子力発電はCO2をほとんど発生させないのだ。

 もうひとつの問題は、石油価格の暴騰である。1年前にはリッター90円代だったガソリンが08年夏には180円代が当たり前というメチャクチャな上昇ぶりで、これはみなさんご存知のとおり。

 これでますます「火力発電は燃料コストが高すぎて割に合わない」という状況になってきた。さらに01年の同時多発テロ以降、イラクやアフガニスタンでの戦争、テロや誘拐の多発と、中東情勢が不安定になってきたため、エネルギーの中東依存度を下げようという動きが先進国で始まった。

 かくて、まずアメリカが2005年に「包括エネルギー政策法」で約30年ぶりに原発推進に方向転換したのを皮切りに、世界中で「脱原発はもうやめた」という動きが始まった。

『週刊エコノミスト』08年6月24日号によると、世界でいま439基の原発が稼働中であり、36基が新たに建設中、93基が計画中だそうだ。

 反原発運動はなやかなりし01年、連邦議会が「脱原発法」を可決、19基の原発を2021年をめどに閉鎖することを決め、環境保護派から聖地のように絶賛されたドイツでさえ、世論は激変している。

 世論調査によると、原子炉の稼働継続賛成派は54%にも上っている。今年8月の原油価格は、脱原発法が可決されたころ(1バレル20ドル)の6倍。おかげでドイツ国民は電気代の値上がりに泣かされている。そんな「財布の事情」も背景にあるようだ(『Newsweek』08年9月3日号)。

 地球温暖化に抵抗すると、原発が激増する。エコ派にとっては悪夢のようなアイロニーである。この矛盾をどう解決するのか。かつての環境保護派は沈黙している。誰か答えを知らないか?

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そのオチはねえだろSEX AND THE CITY!! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 小生ニューヨークには3年住んだんですが、何が困ったって「颯爽と歩く美人キャリアウーマンの写真を撮れ」っていう東京の上司からの注文にはホンマ困った。

 だってそんな人いないんだもん。

 田舎者ジャップ、おっと間違えた日本人が思うNYのキャリアウーマンって、パツキンのきれーなねーちゃんがビジネススーツばしーと着てS女王様みたいなピンヒールで闊歩しとる、なんて勝手に想像するらしいんだが、アホらしゅうていかん。断言するよ、そんな人ゼッタイおらんね。

 あんたらね、ファッション誌やテレビドラマの作り話にだまされとったらあかん。アタクシもNYで大学院行ったから証言しますがね、学校のお仲間でMBAとか弁護士資格とか持ってるホントのエリート女性は、髪形も服装もジミーヘンドリクス。地味なのよ。

 だって、チャラチャラしとるとクライアントや上司に信用されんでしょ? 重い書類資料等担いでいるうえに、NYの街路は舗装がガタガタ。ピンヒールなんぞで歩けるもんかい。みんなダサいスニーカーかペタ靴だオーイエー。

 ところが98年ごろから、やたらハーデーな「本物のニューヨーカーよりニューヨークっぽい」ねーちゃんたちがオッサレーなブティークやらバァやらに出没し始めた。

 一体いかなることぞ、と呆然としておったら、彼女らは「Sex and the City」なる連ドラを見て、NYに押し寄せたアメリカの田舎者あるいはオーストラリア人などであることが判明。あぷぷ。

 ドラマの登場人物そっくり、オッパイの谷間ドバーのボディコン(おお何と懐かしく甘美なる響き!)にピンヒールではしゃぐ「なんちゃってニューヨークガール」に、本物の地元民は「あんなのニューヨーカーじゃない」と顔をしかめとった。

 かくして本作「SATC」(て略称するんだって)はWTCがアルカイーダにぶっ飛ばされようがお構いなしに2004年まで続き、グローバリー大ブーム、今年ついに映画版まで公開されたのはみなさんご存知ね。

「何でこの人らこんなに頻繁に着替えるの?」

「あの混雑した街でいつも女四人横一列に並んでのろのろ歩いて迷惑でしょ?」

「何でキャリアウーマンのくせに毎週ランチに集まれるほどヒマなの?」

 等々、疑問噴出だが、まあいいや。

 NY在住経験のある女性に聞いてみると「私もハマった」って人、意外に多い。主人公四人が「私もそう思ってた」てことを代弁・代行してくれるんで、スカッとするんだって。

 例えばその会話。キョーレツにお下劣ざます。

 病気で睾丸をひとつ摘出した男友達を評して

「キンタマひとつでも健康ならいいじゃない」
「女はキンタマなんてどうでもいいのよ」
「女のハンドバッグみたいなものでただのフクロだけどないと困るのよね」
「私の彼、チンチンは大きいけどキンタマが一つか四つかなんて覚えてないわ」

だって。お母さんぼくこわいよう。

 が!ドラマが始まって十年。最初は「大都会、三十過ぎて恋人もおらん。仕事はうまくいかんし貯金もねえ」って貧しくもリアルな女性の悩みが人気だったのに、人気が巨大化したせいでストーリーが暴走、惚れた別れた腫れた切れたと痔のような反復運動のままみなさん四十すぎに!

 んで映画はどう着地するんだと思ったら「チョー金持ちの男と結婚する」ってオチ。おい、そりゃねえだろ。

 ブツクサ言いながら映画館を見回すと、カップルか女性客しかおらん。

「そうそう、そうなのよね〜」と上映中ウルサイ後の席の女め、終映後も「だからね、あれはね」とツレの男にウダウダ解説しとる。

 悄然と押し黙る男の沈痛な表情。くくく、わかるよ思想教育に連行された同志よ。

 夢、破れたんだね。黙祷。



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映画「LOOK」を見て偽善者どもを撃て! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

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 カネの切れ目が縁の切れ目とは誠によく申したもので、新聞社を辞めたとたん、月百枚くらい来ていた無料のサンプルCDも、映画の試写会の案内も、ピタリと来なくなりました。

 レコード会社も映画会社も、分かりやすすぎだぞ。友だちみたいなフリして、いけず。パブリシティがほしかっただけなのね。

 試写会の案内ハガキなぞ、AERAの編集部の真ん中に「ご自由にお取りください」と書いたハコがあってザクザク取り放題だった。

 それが今じゃ、たまにハガキが郵便受に入って喜んでいると「エルビス対ミイラ男」とか「芸者vs忍者」とか、ケッタイな映画ばっかり。

 がるる。おちょくっとんのか。これ送ってくるヤツ、おれのことものすごく分かってるか、完璧にカン違いしとるか、一体どっちやねん。

 でもたまには上玉も来る。ピンク色のカードに「あなたも、見られている」「全米3000万台の監視カメラが捉えた決定的瞬間!人々は安全と引き替えにプライバシーを捨てた」という思わせブリブリのキャッチコピー。

 監視カメラのレンズをかたどった「LOOK」(映画のタイトルね)のOの字には、何かしらんが裸同然のTバックねーちゃん二人がクネクネしとる。
 おお充血する海綿体。

 何やて? 映画史上初めて、全編監視カメラによる映像を使用? 通常の映画では決して描かれることのない衝撃のプライバシー映像? 事件、事故の決定的瞬間?

 つまりナニかね、監視カメラが記録したのぞき見映像を構成して映画をつくっちゃったってことかね。うっひ〜もう辛抱たまらん。これが行かずにおられようか(いや、行く)。

 って、チャリンコをぶっ飛ばして試写会場に突進、映画が始まってしばらくして気が付いた。

 しまった。これはワナだ。

 くそっ監督アダム・リフキン、サノバビッチのマザーファッカーめ。観客を全員ワナにかけやがった。

 あのですね、バラしちゃいますけどね、この映画、全員俳優が演じるフィクション劇を監視カメラ風画角・画質で撮影した作品なのよ。

 警官を射殺しATMでオバチャンを誘拐する凶悪犯。中年教師をゲーム感覚で誘惑するスケベ女子高生。エレベーターにて大音量でオナラするキャリアウーマン。モールで幼女を誘拐するロリコンのおっさん。内緒でゲイの弁護士カップル。デパートの倉庫で女子従業員とヤリまくるマネージャー。

 これ全部俳優が演じているお芝居なんです。

 でも、監視カメラの画像になると、たちまちどっかのリアリティ番組(なんたら県警交通機動隊密着24時間!!とかね)で見た映像とそっくりになる。

 フィクションがリアリティに限りなく近づくというえげつないトリック。デジャブー。高木ブー。

 つまり、ワタクシも含め、この映画の宣伝文句に釣られて試写会に行ったエーガヒョーロンカとかシンブンキシャさんとかライターさんたちは、リフキン監督のしかけた巧妙なワナにはまっている。

 つまり他人のプライバシーを堂々と鑑賞できると思って足を運んでいるんですな。

 そういう人たちに限って、この試写を見たあと、自分のことは棚に上げて、週刊金曜日とか朝日新聞とかのアカ媒体、おっと間違えた良識派メディアにすました顔で説教を書くのです。

「この映画は、監視カメラによる監視社会のプラバシー侵害を告発している」
「日本でも昨今監視カメラの行き過ぎが問題となっている」

 とかなんたらかんたら。くだらん。しょせん斉藤貴男の受け売りのくせにね(笑)。

 わははは。リフキン監督は、そんな連中をあざ笑っているのに気が付きませんか?

 ほれ、お前らだって最初はソソられたじゃねえか。

 他人のプライバシーがノゾキたかったんだろ? 

 自分のプライバシーはああだこうだ守ろうとするくせに、他人のプライバシーは覗きたいんでしょ?

 そんなお前らは、偽善者だ。そう言ってる。

 だいたいタイトルからして「LOOK」=「ほら、見てごらん」て挑発的なの、気付いている?

 さあみなさん、これから新聞・雑誌にご注目を。

 この映画の評論で「監視カメラのプライバシー侵害による社会問題を告発云々」なんて、陳腐でくだらねえ説教たれてるヤツを見つけたら、名前をメモしておいて。

 そいつ偽善者だから。

(追記:こんなことを書いて公表したら、この映画について誰もピタっと取り上げなくなった=笑。みんなそういう凡庸なことしか思い浮かばないんだね)
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デイ・トレーダーなんて簡単だ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]


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 ここだけの話だが、株の売買でもうけるのなんて、簡単だ。

 株を買い、その買い値より高い値段で売ればいいのだ。その差額があなたの利益になる。

 もし買ってその日のうちに売ったなら、あなたは「デイ・トレーダー」と呼ばれる(昔は『日計り商い』と呼んだ)。

 いや、差益さえ出れば、一日で売ってもいいし、何年か寝かしてもいい。

 空港の免税品点で安く買ったコスメやフレグランスをネットオークションで売る(やったこと、あるでしょ?)のと同じ。

 オークションも株式市場も「売る人と買う人の出会いの場」=「マーケット」という点では同じだから、似るのは当然なのだが。

 難しいのは、あなたが買った株が、これから値上がりするのか、値下がりするのか、誰にもわからないことだ。

 買い値より下がれば、あなたは損をする。「いつ売ればいいのか」も、わからない。昨日までバンバンに利益が出ていたのに「明日まで待てば、もっと値上がり」と欲張ったせいで、次の日には大暴落、ということもよくある。

 この「買った値段より値下がりすること」を「元本割れ」という。ここが銀行などへの「預貯金」と違う点だ。つまり損するリスクはあなたが引き受ける。「自己責任」だ。

 もちろん、あなたにそこそこの経済知識があれば、経済の動向や、企業の財務を分析して「この会社なら成長して株価値上がり間違いなし」と「合理的な根拠」に基づいて株を買えば、値上がり有望株を見つけることは可能だ。

 例えば「液晶ケータイが爆発的に普及する」と読んで、安値で液晶部品の会社の株を買っておいた人は、今ごろ大もうけしているだろう。

 これから団塊の世代が高齢化するから、老人用オムツ会社の株を買っておくなんてのもいい(かも)。

 だが、株のケッタイなところは、ある企業の成績が絶好調でも、全然関係ない、予測不可能なリスクが発生して値下がりすることだ。

 例えば悪徳企業「うがやまんじゅう」の産地偽装がバレて、うがや株が暴落したとする。

 すると正直経営の「ヌメロまんじゅう」株まで「まんじゅう関連」というだけの理由で投げ売り状態になり、暴落したりする。ヌメロ株が売られる合理的な理由はない。単なるとばっちり。「株式市場は合理性ではなく集団心理で動く」と言われる由縁だ。

 ちなみにイギリスの経済学の重鎮ケインズは「株式市場は美人コンテストみたいなものだ」と喝破している。

 もっと不可解なことも起きる。あなたが何年も大切に成長を見守ってきた企業の株主だとする。株価も順調に上昇、含み益もばっちり。

 ところが、あなたの知らないどこかのヘボ投資家もその株を大量に持っていたとしよう。そのヘボ投資家が他のどうしようもない会社に投資して大損。

 すると、損を埋めようと、先の健全会社の株を大量に売って利益を確保しようとする。当然、健全なはずのその企業株は暴落。経営はまったく健全、何の落ち度もないのに、顔も知らないどこかの阿保がヘマをしたために、あなたも地獄に引きずり込まれる。しかもなぜ暴落したのかさえわからない。そんなことが起きる。

「そんなややこしてく危ない世界、足を踏み入れたくないわ」。そう思うあなた。ごもっともです。

 じゃ、銀行に貯金しますか?いま公定歩合は0.75%(08年8月)とチョー低金利のままピクリとも動きません。100万円預けて年7500円の利息です。ちょっと豪勢な晩メシ代レベルですね。

 80年代のバブル時代には、利率6%の5年もの複利定期預金があって、100万円預ければ寝てても5年後には30万円以上もうかった、なんて話は何だったのでしょう。

 一方、企業は年金(いわゆる厚生年金)への出資が重荷になってきたため「401K」という「株式・債券パッケージ(ファンドという)のアラカルト年金」に飛びついた。

 2001年に導入されたこの401K、いま加入者は250万人いるという。が、401Kも「元本割れアリ」の自己責任商品なのだ。案の定、その後の株式市場の停滞と低金利で401Kはひどい状態に陥っている(『讀売ウィークリー』08年3月23日号)。

 一方の公的年金がメルトダウン寸前であることは以前に本欄でも書いた。これが老人福祉の行く末とは、残酷で無責任な話だ。

 つまり、私たちにはもう選択肢がほとんどないのだ。

「デイ・トレーダー」を「ゲーム感覚の不労所得収入者」などとステレオタイプな偏見で見てはいけない。欧米では「個人投資家」などありふれた存在だ。

 年金も銀行も頼りにできないのなら、市民が自己防衛することは至極当然である。少なくとも、ネット株取引のような身近な場所で学習した、ファイナンス・リテラシーが高い市民が増えるのはいいことなのだ。企業も株主には弱い。「IR」という名前で情報開示を積極的にするようになったのがその証拠である。

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インターネットに自由の危機が来ている ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 3回ほど前の本欄で、検索エンジン「ヤフー」や「グーグル」が中国政府の情報統制に協力している疑いがある、という話を書いた。中国で「チベット独立」「天安門事件」なんてキーワードで検索しても、政府寄りのサイトしかヒットしないのだ。

 インターネットで市民が手に入れる情報を、政府が自分の都合のいいようにコントロールしようとしている例として覚えておいてほしい。

「でも日本は中国とちがって政府が検閲なんてやらないし、やっぱり自由な民主主義国はいいよね」。

 そう思いますか? ちょっと待った。

 日本ではインターネットでどんな情報でも自由に手に入る権利が保証されているのだろうか。

 そんなに事態は楽観的ではない。実は、日本でもインターネット規制の動きは始まっているのだ。

 気をつけた方がいいのは「総務省」の動きだ。

 総務省はかつて「郵政省」と呼ばれたころから、テレビ・ラジオ局の免許発行や電波の割り当てを一手に引き受けてきた、強力な権限を持つ官庁である。

 そう、郵政省=総務省は郵便屋さんの親分じゃない。その正体は、マスメディアに強力なコントロール権を持つ『情報産業省』なのです。

 その最高責任者である総務大臣は内閣総理大臣が任命する。つまり与党政治家の直轄領だ。

 その政治家の直轄領官庁が、放送やインターネット上での自由を規制する法律を作ろうとしている。そんな妙な動きがあるのだ。

「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会」という研究会が総務省にある(名前がややこしいのは、それだけで国民の関心が低下するという官僚がよく使う作戦なのでご辛抱を)。

 総務省が「インターネットを含めたマスメディアに流れるコンテンツを規制する法律案の下ごしらえをする集まり」と考えてもらえればいい。

 07年12月、この研究会が背筋の寒くなるような最終報告を出した。

「憲法上の『表現の自由』との関係では、名誉毀損、わいせつ物、犯罪のせん動など、表現活動の価値をも勘案した衡量の結果として違法と分類されたコンテンツの流通は、そもそも表現の自由の保障の範囲外であり、規制することに問題はない」

 驚くほかない。報告書は「名誉毀損、ワイセツ、犯罪をあおるコンテンツなんか、憲法が保障する言論・表現の自由の対象外だ」と言い放っているのだ。

 ムチャクチャな暴論である(日隅一雄著「マスコミはなぜ『マスゴミ』と呼ばれるのか」現代人文社)。

「どこがおかしいの? わいせつ物って、ポルノでしょ?ポルノは規制されてもしょうがないんじゃない?」と思うあなた。

 米国の写真家ロバート・メイプルソープの写真集を見たことはありますか? ゲイだったメイプルソープは、男性の裸体を美しいオブジェとして撮影しましたよね。

 当然そこにはペニスも写っている。そのメイプルソープの写真集を「わいせつ物」と最高裁が判断したのは、1999年。

 ところが、9年後の08年2月には、同じ最高裁が「わいせつ物ではない」という判決を下している。

 そう「わいせつ」と「芸術」の境界線なんて、時代によって刻々変動するものなのだ。

 それをばっさりとひとまとめに「ワイセツだ!」と政府が非合法化し、インターネットやマスメディアから追放してしまったら、どうなるか。第二、第三のメイプルソープが永久に私たちの目に触れないまま葬られてしまうかもしれない。

 こっそり「名誉毀損」なんて項目が挿入されているのも怪しい。

 13人の死刑執行を指揮した鳩山邦夫法相を朝日新聞のコラム「素粒子」が「死に神」と揶揄した事件など、鳩山大臣がこのコラムの筆者を名誉毀損で訴えたらどうなるか。総務省の思惑通りの法律が成立した暁には、インターネットでは「言論の自由の範囲外」として法律違反になってしまう。

(注:このコラムを書いたあと、鳩山邦夫は総務大臣になった)

 規制の網がかけられるのは、プロのジャーナリストだけではない。ブログの筆者にも同じ扱いが待っている。

 匿名ブログだろうが、ISP法の開示請求で筆者が誰かを特定できるから、同じだ。

 政治家批判だけではない。軽いノリで「Pってコンビニの弁当、腐ってたぞ!」「Qの化粧品を使ったらジンマシンが出たの〜」「Rホテルのサービス、マジ最悪」なんてことをブログに書いたら、そのP社やQ社やRホテルから名誉毀損訴訟を起こされるかもしれない。

 いや「訴えられるかも」「法律違反になるかも」という恐怖が伝染するだけでいい。それだけで普通のブロガーたちは足がすくんで自主規制するだろう。

 気をつけてほしい。言論・表現統制は必ず「わいせつ物」だとか「犯罪をあおる」だとか、いわゆる「有害コンテンツ」から始まる。誰も文句を言わないからだ。

 そして、気付いた時にはすでに遅し。政治家や大企業、官僚、役所といった「力のある者」を批判する自由がごっそりと奪われているだろう。そんな日本に、あなたは住みたいですか?


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