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朝日をやめて6年が過ぎたのだ [「朝日ともあろうものが。」文庫版(河出書房新社)]



 ぼくが朝日新聞社を去ってから6年が過ぎた。

 この本を出したとき、上司だった人がしみじみこう言った。

「ウガヤ君、キミはよほど朝日を愛してたんだねえ」。
「へ?」
「そうでなかったら、去ってしまう会社のことを心配して本まで書くなんて、ありえないよ」。

 そのときは「いやいやアサヒはともかくですね、私は日本の民主主義の未来が心配で云々」と大層なことをぬかしていたのだが、いまこうして6年前に書いた文章を読み直してみると、確かに、自分がまだ新聞社という組織、あるいは新聞というマスメディアの「蘇生」に希望を捨てていなかったことがわかる。状況は悪化するだろうが、それは「老木が枯れていくような、ゆっくりとした自然死」だと思っていた。まだ間に合うかもしれない。そう思っていた。

 しかしその後、新聞社をとりまく環境は加速度的に悪化してしまった。平成大不況にサブプライムローン危機が重なった、2008年中ごろ以降の破滅的な経済的状況は、新聞の生命維持装置を外してしまうかもしれない。広告出稿量で見る限り、インターネットは雑誌を追い抜いた。近い将来新聞も追い越されるだろう。まるで老木に斧が次々と打ち込まれるような事態が続いている。

 そして朝日新聞社は、私のような現場の記者が在社17年間ずっと苦しみ続けた問題を何ら解決できないまま、呆然と時間を浪費しているように見える。記者クラブは相変わらずフル稼働、もはや発行する必要のない夕刊は現場記者を苦しめ続けている。始まったことといえば、会社の組織の「別会社化」というソフト・レイオフくらいだ。例えば、私が10年を過ごした「AERA」を発行していた朝日新聞社出版局は、切り離されて「朝日新聞社出版」という別会社になった。いま、後輩がかつての私のように新聞からAERA編集部に異動すると、朝日新聞社の社員ではなくなってしまうのだ。

 状況は、この本を書いたときに私が予測したより、はるかに速いスピードで悪化していった。本文中でも書いたが、朝日新聞社は「自分の一部」になってしまっていて、私の目は曇っていたのだろう。判断が甘かった。「終わり」はもう始まってしまったようだ。

 ぼくは今でも朝日新聞を自宅で取っている(バクロしてしまうと、私は正規の定年退職者なので、タダで配達してくれるのです)。キッチンテーブルでコーヒーを飲み、朝刊を広げることから、ぼくの一日は始まる。もちろん、そこに書いている内容は、前日夜のGoogleニュースで読んで、すでに知っていることばかりだ。ぼくにとって、ニュース(最新情報)を知るためのメディアとしての新聞はとっくに死んでいる。それでもなぜ新聞を広げるのかといえば、それは「自分がかつて心血を注いだマスメディアがどういう末路をたどるのか、観察したい」という思いがあるからだ。「最期を看取る」という感覚に近いのかもしれない。

 報道記事の内容云々については、本文でも書いたし、放っておいても誰かあれこれ書くれるだろうから、ここではもういい。ぼくのようなかつて社員だった人間がまず何を見るかというと、広告なのである。私が在職中、広告部門の同僚と世間話をしていると、会社の収入がどうなのか、クリアに見えたからだ。「広告が順調でアップルが全面広告入れてくれた」と聞くと会社は順調なのねと思うし、「ダメだ。(広告が)埋まらない」と絶句していれば「これはヤバい」と思った。

 そういう感覚でいま朝日新聞を開けると、これはもう悲惨の一言に尽きる。「尿モレもニオイも防ぐ軽失禁者用パンツ」だとか「『篤姫』とか韓流ドラマとか落語DVDの通販」(つまりアマゾンが使えない人向け)だとか「夜中に何度も起きる(頻尿)60代のためのサプリメント」だとか「確実な出会い(結婚相談所)」だとか、これは一体何なんだ。私が在社していたころ、こうした「通販」や「健康食品」を広告担当者は「対策業種」という隠語で呼んでいた。「広告ページが埋まらなかったとき、いつでも広告出稿してくれる『対策』として使える業種」という意味だ。かつて「ヤバいな。通販の広告入れちゃったよ」と広告部門の同僚が恥ずかしそうに言っていた業種が、今では毎日紙面を埋めている。

 かつてはタブーに近かったパチンコや消費者金融もどしどし広告を出している。それでも埋まらないのか「自社広告」(朝日新聞社が出す出版物や展覧会、行事、映画など)がやたらに増えた。少なくとも90年代には、「そんな広告は載せない」「載ったら(広告を集められなかったという証拠だから)恥ずかしい」と広告部門の同僚は言っていたし、その言葉通り「尿モレパンツ」「夜のパワー増強」なんて広告が朝日新聞にデカデカと出ているなんて、考えられなかった。

 広告が減っているということは、朝日新聞の収入のおよそ半分を占める「広告収入」が減っているということだ。

 スポンサーはお金を払う。だから新聞広告を見ると「朝日新聞が媒体としてどれくらいの価値を値踏みされているのか」が正直に分かってしまう。サブプライムローン危機以降の景気壊滅で、かつて朝日の広告のお得意様だった「優良企業」は広告費を大幅に削減している。インターネット広告のほうが、費用対効果が高いことも今や周知なので、新聞の「媒体価値」はどん底なのだろう。広告が集まらなくてもページ数は一定なので、白紙で出すわけにもいかない。ページを埋めるためには、広告料のディスカウントもするはずだ。かつては「朝日新聞の全面広告なんて、高くてとても手が出ない」と言っていたはずの企業が紙面を飾っているのだから。こうして、広告料金のディスカウントが始めると、総体としての紙面は途方もなく質が低下していく。優れた記事が載っていても、尿モレパンツの隣では気の毒ではないか。

 だから、正直にいうと、ぼくは毎朝新聞を開けるのがつらい。今日も尿モレパンツか、とため息をつく。自分が卒業した学校が経営難でさびれ切っているような、そんな感じなのだ。
 もうひとつぼくが「新聞の終わり」を感じた大きな出来事は、朝日新聞社に東京国税局が税務調査を入れ、3億9700万円の「所得隠し」を指摘したことだ(09年2月24日付朝日、読売、毎日、日経新聞)。紙面ではあまり大きな扱いではなかったので気付かなかった人も多いのかもしれないが、かつての「報道機関の社員」からすると、これは致命的な一撃なのだ。

「朝日ともあろうものが、所得隠しをするなんて」というカビ臭い倫理道徳の問題ではない。この「所得隠し」は「京都総局が記者のカラ出張で捻出した」「取材費の一部が社員の飲食などに使われていたとして経費とは認められない交際費とされた」「出張費の過大計上」(読売新聞)という「交際費や交通費にまつわる架空経費」を含んでいる。これが致命的なのだ。

 東京国税局が税務調査を入れたということは、当然、領収書からたどって「社員がいつどこで誰と会っていたのか」にも調査を入れているはずだ。でなければ領収書付きの経費精算書を「架空」と断定できる証拠がない。つまり記者がいつどこで誰と会っていたのか、という「取材源の秘匿」に関するもっともセンシティブな情報を国税当局に証拠付きで握られてしまった、ということを意味する(国税は毎日新聞社にも税務調査を入れ、所得隠し4億円を指摘している=08年5月31日付朝日、毎日)。

 実は、こういう「税務調査に備えて経費請求している飲食費の明細(いつどこで誰に会ったのか)をすべて上司に報告せよ」という命令は、ぼくが「AERA」編集部員だったときにも一度あった。が、当然ながら現場記者が猛反対(よほどのことがない限り、取材源は上司にも言わない)したので、編集長の掛け声だけで不発に終わった。

 こうした「社員同士の飲食を経費として請求」「出張費の過大計上」など交際費や交通費経費の不正計上というのは、ぼくが本の中でさんざん書いたとおり、社員の飲み食い、タクシー・ハイヤーの不正利用など、職場では毎日当たり前のように行われていた。ぼくが「これは本当にヤバいんじゃないか」と思った理由は、実は先ほどの編集長の号令で「こんな腐敗した内情が国税に知られたらどうなるんだ?」と危機感を抱いたからでもある。「所得隠し」とはつまり「架空経費は法人税課税対象である所得を少なく見せるための偽装工作」と税務当局に判断されてしまう、ということだ。「これは架空経費です。つまり法人税の課税逃れですよね?」と国税に言われたら、ひとたまりもないではないか。権力をチェックするのが仕事の報道機関としては、一巻の終わりではないか。

 東京国税局は財務省国税庁の支局であり、脱税の捜査で検察庁とも綿密な関係にある。そんな権力側に「架空経費による所得隠し」という弱みを握られ、あろうことか取材源まで知られてしまった。そんな朝日新聞が財務省や検察を遠慮なく批判することは、今後はもう無理だろう。例え朝日新聞社が「いやいや、遠慮なく批判します」と宣言したところで、財務省・国税庁や検察が「じゃ、もっと本腰を入れて税務調査しますよ」と恫喝したら、どうするのか。似たような架空経費の話など、まだまだうじゃうじゃ出てくるというのがぼくの経験からの推測だ。恫喝するネタには困らないだろう。

 情けない話だ。朝日内部の腐敗した集団が経費を使って飲み食いやらカラ出張やらを繰り返しているうちに、とうとう権力側につけ込まれる弱みをつくってしまった。内部腐敗のせいで、報道機関が権力と対峙する能力を失ってしまった。内部自壊を起こし始めたのである。清廉に職務に打ち込んでいる同僚が気の毒である。こういう「報道機関は、権力と対峙するときに備えて、自分の周辺を身ぎれいにしておく」という鉄則を、上層部や管理職は、社員は誰も声をあげなかったのだろうか。

 本を読み返して、ひとつ思い出したことがある。40歳で退社するとき、はっきりこう思ったのだ。「この会社に60歳までいても、最後は同僚のクビを切っているか、同僚にクビを切られているか、どちらかだろうな」と。あのとき、ぼくは「20年後には」そうなるだろうと思っていた。でも、それも修正しなくてはならないかもしれない。そうなってほしくはないのだが。

(注:単行本を文庫版にするにあたっての全面的な改稿はしなかった。六年がたったいま読むと、考えが変わっている部分はあるし、表現、文体や論理展開が稚拙に思える部分もある。が、サラリーマンを辞めた直後のぼくの姿を記録しておくために、敢えてそのままにしておいた)。

(「朝日ともあろうものが。」文庫版 河出書房新社 あとがき)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

  • 作者: 烏賀陽 弘道
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/06/04
  • メディア: 文庫



タグ:メディア
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