なぜあながは買い物がやめられないのか?個性崇拝とナルシシズム消費 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]
例えばあなたがケータイの機種変更をしたとしよう。最初にやることは何だろう?
自分好みのストラップを付ける。シールを貼ったり、ラインストーンを貼ったりして、自分なりのデコレーションをするかもしれない。そこまで凝らない人でも、待ち受け画面をひこにゃんやEXILEのイラストや写真にするくらいはあるんじゃないかな。
携帯電話は同じ機種が何十万台と作られる画一的な大量生産品だから、基本的には大量の他人の持ち物と同じだ。「他人と同じじゃイヤ」と思う人ほど、自分なりのデコレで「パーソナライズ」(個性化)をしてケータイを「自分だけのもの」に改造するのだ。
さて、ここでケータイを買う人に「持ち物が他人と同じじゃイヤ」という心理が働いていることにお気付きだろうか。
こうした「他人と違う自分だけの特性」のことを「個性」という。個性は本来、外からは見えない人間の内面だ。ケータイを持つ人は「携帯電話」というモノが、その個性が見えるように改造する。つまり他者に「自分の内面を伝える」という表現手段としてケータイが機能しているのだ。
例えデコレしなくても、カシオのGショックケータイを使うのかiPhoneを使うのか等々、機種選びだけでも個性は伝わるはずだ。
ちょっと難しい言葉だが、こういう「自分の内面を他者に伝えるモノ」のことを社会学や心理学で「シンボリック・メディア」という。
クルマなんかもそうだ。赤いBMWに乗っている人と、白い軽トラに乗っている人とでは、その職業や性別、価値観、収入など他者に伝わる個性が当然違う(それが事実かどうかは別として、だが)。
つまり2009年の日本人にとって「お買い物」とは個性の表現、すなわち「自己表現」なのだ。
「そんなの、当然じゃないの? お洋服だってアクセだって個性を表現するために買うだし」と思うあなた。いえ、この現象が始まったのはごく最近なのだ。
1980年代前半まで(特に高度経済成長期)日本人は「世間並み」「よそ様並み」に豊かになりたい、つまり「他人と同じになりたい」と呪文のように言っていた。
だから隣の家がクーラーやクルマを買えば、負けじとウチも買っていたのだ。国民の七割が「ウチは中流」などと経済統計上の所得格差とはかけ離れた自己認識を語っていたのも1970年代のことだ。
ところが、バブル景気前後になってモノの豊かさが飽和点に達すると、クーラーやクルマは普及し尽くしてしまう。そこで出てきたのが「個性信仰」だった。「人と違う自分がいい」と言い出したのだ。
例えば文部省が政策を大転換して小学校に「個人差教育」を導入したのは1984年。この前提にあるのは「誰もが表現すべき自己=個性を持っているはずだ」という「個性信仰」である。
結果「自己表現ブーム」が起きた。若者はギターを買ってバンドブーム。中高年は競ってワープロで「自分史」を書いた。これに便乗してワープロ、自分史講座、バンド雑誌等々、「自己表現の商品化」が始まった。つまり自己表現=消費行為になったのだ。
1984年に小学校に入った新入生は、今年31歳のはずだ。この前後から下の世代は「自分には人と違う個性がなければならない」という個性信仰を学校と家庭教育で叩き込まれている。そこを狙って「大衆が自己表現をするための商品」が次々に開発された。
1992年に登場した通信カラオケが好例だろう。北島三郎を歌うのかAKB48を歌うのかで、はっきり個性は表現できる。最近では、ブログやプロフをネット上に立ち上げることも自己表現消費のわかりやすい例だ(無料でも、みなさんを含む消費者が商品を売ったおカネで企業がネット会社に広告費を払っているのですから間接的にカネを払っているのと同じ)。
自己表現消費で大事なことは「その消費をした自分を承認できるかどうか」である。つまり関心はモノそのものではなく、そのモノを所有した自分に焦点がある。
例えばあなたが、機能やデザイン、価格がまったく同じ女性服を見つけたと仮定しよう。
表参道のセレクトショップで買うのと、ジャスコのワゴンセールで買うのと、どちらを選ぶだろうか。表参道でしょうね。
つまりあなたを満足させるのは「洋服のデザインや機能」というモノではなく「買い物を表参道でする」という「自分の姿」なのだ。
これを社会経済学では「ナルシシズム消費」という。ここでナルシシズムとは「自己陶酔」ではなく「自己承認」=「そういう自分を自分で認められるか」と理解しておいてほしい。これをみなさんは無意識に「自分らしいかどうか」という言葉で表現しているはずだ。
あるいは「自己満足」という素朴な言葉でこの行動を説明していることもあるだろう。「自己」を「満足」させる行為とは、自己承認に他ならない。みなさん無意識に正確な表現をしている。
その意味で、今の日本では、すべての消費行為は自己表現であり、そういう自分を自分が承認できるかどうかが意思決定の規準になっている。
モノに限らない。どこに旅行に行こう? どの学校で英会話を習おう? すべての消費の場面であなたは「その消費をした自分を承認できるかどうか」を自分に問うているはずだ。
カネさえあれば、自分を表現してナルシシズムも満たしてくれる。それがショッピングなら、依存症になるのは道理かもしれない。学校も家庭も「あなたには個性があるはずだ」「それを表現しなくてはならない」とずっと呪文のように説き続けていたのだから。
自分好みのストラップを付ける。シールを貼ったり、ラインストーンを貼ったりして、自分なりのデコレーションをするかもしれない。そこまで凝らない人でも、待ち受け画面をひこにゃんやEXILEのイラストや写真にするくらいはあるんじゃないかな。
携帯電話は同じ機種が何十万台と作られる画一的な大量生産品だから、基本的には大量の他人の持ち物と同じだ。「他人と同じじゃイヤ」と思う人ほど、自分なりのデコレで「パーソナライズ」(個性化)をしてケータイを「自分だけのもの」に改造するのだ。
さて、ここでケータイを買う人に「持ち物が他人と同じじゃイヤ」という心理が働いていることにお気付きだろうか。
こうした「他人と違う自分だけの特性」のことを「個性」という。個性は本来、外からは見えない人間の内面だ。ケータイを持つ人は「携帯電話」というモノが、その個性が見えるように改造する。つまり他者に「自分の内面を伝える」という表現手段としてケータイが機能しているのだ。
例えデコレしなくても、カシオのGショックケータイを使うのかiPhoneを使うのか等々、機種選びだけでも個性は伝わるはずだ。
ちょっと難しい言葉だが、こういう「自分の内面を他者に伝えるモノ」のことを社会学や心理学で「シンボリック・メディア」という。
クルマなんかもそうだ。赤いBMWに乗っている人と、白い軽トラに乗っている人とでは、その職業や性別、価値観、収入など他者に伝わる個性が当然違う(それが事実かどうかは別として、だが)。
つまり2009年の日本人にとって「お買い物」とは個性の表現、すなわち「自己表現」なのだ。
「そんなの、当然じゃないの? お洋服だってアクセだって個性を表現するために買うだし」と思うあなた。いえ、この現象が始まったのはごく最近なのだ。
1980年代前半まで(特に高度経済成長期)日本人は「世間並み」「よそ様並み」に豊かになりたい、つまり「他人と同じになりたい」と呪文のように言っていた。
だから隣の家がクーラーやクルマを買えば、負けじとウチも買っていたのだ。国民の七割が「ウチは中流」などと経済統計上の所得格差とはかけ離れた自己認識を語っていたのも1970年代のことだ。
ところが、バブル景気前後になってモノの豊かさが飽和点に達すると、クーラーやクルマは普及し尽くしてしまう。そこで出てきたのが「個性信仰」だった。「人と違う自分がいい」と言い出したのだ。
例えば文部省が政策を大転換して小学校に「個人差教育」を導入したのは1984年。この前提にあるのは「誰もが表現すべき自己=個性を持っているはずだ」という「個性信仰」である。
結果「自己表現ブーム」が起きた。若者はギターを買ってバンドブーム。中高年は競ってワープロで「自分史」を書いた。これに便乗してワープロ、自分史講座、バンド雑誌等々、「自己表現の商品化」が始まった。つまり自己表現=消費行為になったのだ。
1984年に小学校に入った新入生は、今年31歳のはずだ。この前後から下の世代は「自分には人と違う個性がなければならない」という個性信仰を学校と家庭教育で叩き込まれている。そこを狙って「大衆が自己表現をするための商品」が次々に開発された。
1992年に登場した通信カラオケが好例だろう。北島三郎を歌うのかAKB48を歌うのかで、はっきり個性は表現できる。最近では、ブログやプロフをネット上に立ち上げることも自己表現消費のわかりやすい例だ(無料でも、みなさんを含む消費者が商品を売ったおカネで企業がネット会社に広告費を払っているのですから間接的にカネを払っているのと同じ)。
自己表現消費で大事なことは「その消費をした自分を承認できるかどうか」である。つまり関心はモノそのものではなく、そのモノを所有した自分に焦点がある。
例えばあなたが、機能やデザイン、価格がまったく同じ女性服を見つけたと仮定しよう。
表参道のセレクトショップで買うのと、ジャスコのワゴンセールで買うのと、どちらを選ぶだろうか。表参道でしょうね。
つまりあなたを満足させるのは「洋服のデザインや機能」というモノではなく「買い物を表参道でする」という「自分の姿」なのだ。
これを社会経済学では「ナルシシズム消費」という。ここでナルシシズムとは「自己陶酔」ではなく「自己承認」=「そういう自分を自分で認められるか」と理解しておいてほしい。これをみなさんは無意識に「自分らしいかどうか」という言葉で表現しているはずだ。
あるいは「自己満足」という素朴な言葉でこの行動を説明していることもあるだろう。「自己」を「満足」させる行為とは、自己承認に他ならない。みなさん無意識に正確な表現をしている。
その意味で、今の日本では、すべての消費行為は自己表現であり、そういう自分を自分が承認できるかどうかが意思決定の規準になっている。
モノに限らない。どこに旅行に行こう? どの学校で英会話を習おう? すべての消費の場面であなたは「その消費をした自分を承認できるかどうか」を自分に問うているはずだ。
カネさえあれば、自分を表現してナルシシズムも満たしてくれる。それがショッピングなら、依存症になるのは道理かもしれない。学校も家庭も「あなたには個性があるはずだ」「それを表現しなくてはならない」とずっと呪文のように説き続けていたのだから。
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