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オンナの花道できたはいいけど ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 時が経つのは速い。ふと思い出してみると、今年4月1日で「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」いわゆる「男女雇用機会均等法」が施行されて22年が経つ。

 つまり、この法律が施行された年に生まれた赤ちゃんが、今春大学を卒業して労働力の仲間入りをするわけだ。

 均等法以降の若い世代には信じられない話だろうが、1985年以前、新規雇用、特に新卒学生の求人に男女差別があるのが当たり前だった。いわく「採用は男子学生のみ」「女子は一般職(管理職になれないノンキャリア職)のみ採用」などなど。

 ひどいのになると「女子学生は自宅通勤者のみ採用」などというワケのわからん条件を、旧財閥系銀行や一流メーカーが平然と掲げていた。

 なぜ下宿暮らしの女子学生が労働力としての対象から除外されるのか不可解もいいところだ。が、当時企業の採用担当者が「独り暮らしの女子学生は性的に乱れている」と真面目な顔で言ったのを、当時大学生だった私は覚えている。

 江戸時代か、それともタリバーンの支配国かと耳を疑うけれど、22年前までの日本企業は本当にそんな程度だったのである。女性が差別なく働ける職種は公務員、教師、記者・編集者など微々たる数しかなかった。

 実をいうと、この時点では募集・採用、配置・昇進については「努力目標」にすぎなかった。募集・採用、配置・昇進、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇において、男女差別を「禁止」したのは1999年である。まだ10年も経っていないのだから大きなことは言えない。

 それでも「男女雇用機会均等法」は日本女性のライフスタイルを劇的に変えた。女性が男性と同じようにキャリア社員として雇用され、昇給や昇進でも差別されない。

 それはすなわち、女性が男性と対等の経済力を持つ=「同等におカネを稼いで自分の意思で商品を購買できる」ようになることを意味している。

 メーカーはこぞってこの新しい購買層をマーケティングの主軸に据え、彼女たちが買いたくなるような商品を競って開発した。

 テレビ局やレコード会社は「F1層」(20〜34歳の女性層)をターゲットにした番組や歌手、曲を送り出しヒットさせた。「東京ラブストーリー」に代表される「トレンディ・ドラマ」だとか渡辺美里や中村あゆみといった「ガールズ・ポップス」がそれに当たる。

 しかし、これで万事めでたし、とはいかなかった。女性の人生の選択肢が一気に増えすぎたのである。

 例えば、20代後半から30代前半の女性には(1)キャリア社員として就職するかしないか(2)結婚するかしないか(3)子供を産むか生まないかと、単純計算で8通りの人生が選択できる。

 しかも、どの選択肢も、伝統的な価値観(主に親が体現する)から離脱しようとすると、摩擦が必ずといっていいほど起きる。

 男性は哀れなほど単調なままだ。旧来からのライフコースが堅牢にでき上がっていてなかなか崩れない。「就職」「結婚」について「NO」はほとんど選択肢として考慮されない。

 かろうじて「DINKs」(Double Income, No Kid=共稼ぎ・子供なし)という言葉で「子供を持たない」という選択肢が許容された程度である。が、DINKsも女性が経済力を持って初めて成立するライフスタイルであり男性の選択ではない(現在は当たり前すぎてDINKsは死語になった)。

 かくして、経済力を得た女性にとって「結婚」は「しなくてはいけないもの」ではなく、買い物と同じ単なる人生の選択枝のひとつにすぎなくなってしまった。

 かつて25歳を過ぎて独身でいる女性は「クリスマスを過ぎたクリスマスケーキ」(賞味期限切れ)「オールド・ミス」(独身老女)と揶揄された。

 独身でいることがと社会的・道徳的に「悪いこと」のように非難されたのは、女性が企業で働き収入を得る道が閉ざされていたからである。つまり独身でいると経済的に損をしたのだ。

 が、いま定収入ある女性にとっては、結婚をしなくても誰にも経済的に依存する必要がない。だからはっきり言ってしまえば、結婚などしようがしまいが、女性にとって経済的重要度は実は低い。

 エッセイストの酒井順子が30歳を過ぎて独身の女性を気軽に「負け犬」と呼べたのは、もはやそう呼んでも激しい反感を買う「死活問題」ではなくなったからだ。

 かくして、日本女性は莫大な自由を手にした。が、お手本のない自由は時に人を混乱させる。

 フェミニズムの第一人者・上野千鶴子は「日本の企業社会は『成人男子』しかロール・モデルを用意してこなかった」という鋭い指摘をしている。

 今のところ、女性が企業社会でキャリア職として上昇するためには「オッサン化=企業という男系文化社会に合わせる」しかない。結果は「男性化した女性サラリーマン」が大量発生しただけ。

 アフターファイブに上司の悪口や仕事の愚痴を言う場所が赤提灯からイタリアンレストランに変わっただけで、やっていることは昔のモーレツサラリーマンと同じだ。

 これが彼女たちの望んだ人生なのだろうか?



殴る男と殴られる女の奇妙な共依存 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 パートナー女性への男性の暴力が社会問題化し始めたころ、加害経験のある男性を数人探し出して、徹底的に聞き取り取材をしたことがある。本音を話すまで、何回でも何時間でも話を聞いた。なぜ女性に暴力を振るうのか、男性側の心理的な要因を探りたかったからだ。もう10年前の話だ。

 高校生から40歳まで、何人かインタビューを重ねるうちに、いくつも共通点があることに気付いた。

 彼らは一様に温厚、にこやかで礼儀正しい人物だった。知的職業に就いている人もいた。一見して粗暴な男性など一人もいなかった。

 話す内容もよく似ていた。殴ればパートナーに嫌われるのは分かっている。が、殴らずにはいられない。暴力をふるっている間も「こんなことしちゃダメだ」と思っている。

 が、自分の体をコントロールできない。理性が吹き飛んでしまう。我に返った瞬間、激しい自責と後悔の念でいたたまれなくなる。土下座しながら泣いて謝る。頼むから捨てないでくれ。反省してやり直すから。

 しかし、しばらくするとまた同じ暴力に戻っていく。結末はどれも悲惨だった。

 女性が目の前で手首を切る。それを見て逆上し、相手の腿を包丁で刺した。相手の肋骨が数本折れ、全治2ヶ月の重傷を負わせた。

 そんな話が終わると、最後にはみんな涙を流し、顔を歪めて絞り出すように言う。その言葉も驚くほど似ていた。

「今でも彼女を愛しています」「いけないと思っているのに手が出ちゃう。本当に苦しいです」「僕は鬼です。人間じゃない」「自分が怖い」。

 それが弁解や虚勢ではなく本心であることは、その態度や表情から見て取れた。奇妙に聞こえるかもしれないが、暴力を振るう側も苦しんでいた。

 この「自分で自分がコントロールできず苦しむ精神状態」は「こころの病」ではないのか。薬物やセックスへの「依存症」の取材の経験があった私はそう感じた。

 被害者をかくまう「シェルター」はあちこちにでき始めていた。が、暴力を振るう男性は「凶暴」と非難されるだけで、その「暴力というこころの病」への治療はないも同然だった。
 
精神分析学や臨床心理学の専門家に取材を重ねてみると、思った通りの答えが返ってきた。

 男女を問わず、人間は「無意識(意識下)」という心の領域に「自分はこうあるべきだ」という理想像を持っている。それを実現するため「恋人、妻(夫)、夫婦はこうあるべきだ」という理想像をパートナーにも求める。これが心理学用語でいう「ファンタジー」だ。

「ファンタジー」は、成育の過程で自分の父母の夫婦関係や自分との親子関係から形成される。

 だから「こんな親は許せない」「こんな女性は耐えられない」という怒りや憎悪の要素も含まれている。

 ふだんは本人も意識しない「意識下」に押し込められているが、何かの拍子でその栓が外れ、理性を吹き飛ばしてしまうことがある。

 きっかけは些細なことだ。言われたくないことを言われた。下着の脱ぎ方が乱雑だ。窓の開け閉めが乱暴だ。

 男性が持つ「ファンタジー」を女性が乱したとき、理想と一致しない現実を破壊しようとする。その「現実を破壊して、なかったことにしようとする」行動が、暴力の正体だ。専門家は口を揃えた。

 一組だけ、暴力を加えられている女性も一緒に取材に応じたカップルがいた。男性がその暴力歴を話し終えたあと、女性も口を開いた。するとこんな言葉が繰り返し出てくる。

「私がいないと、カレ、だめなんです」「こんなわがままなひとを愛せるのは、私しかいません」。

 そう言うときの彼女は実に幸福そうな表情をしていて、奇妙だった。

 こうした被害者側の心理を「共依存」と呼ぶ。専門家はそう教えてくれた。暴力、薬物依存など問題のある男性を支えてみせることで、自分の存在を確認しようとする無意識の行動であり、男性への歪んだ「心理的支配」でもある。

 パートナーの暴力にもかかわらず、その関係が意外に長く続く(私が取材した例では、暴力が日常的に繰り返されるまま4年間同居したカップルもいた)理由には、こうした被害者独特の心理も背景にある。(もちろん、恐怖で行動や思考が停止してしまう例もある)。

 こうした「負の心理的相互依存」を断ち切らないと、事態は悪化する一方になる。最悪のシナリオは、被害者による逆襲も含め殺人や傷害などの刑事事件だ。最近、それが増えているような気がする。


「格差社会」とは「年寄り天国・若者地獄」だった ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 21世紀の日本に出現した「格差社会」の正体って、一体なんだろう。誰がトクをして、誰が損をしているのか。

 答えは「世代間格差」であることが、だんだん誰の目にも明白になってきた。

 一度この欄で「年金の世代間格差」についても同じことを書いたが、いま進行している雇用や福祉の待遇格差を単刀直入に言ってしまえば「年寄り天国・若者地獄」なのである。

 例えば、パート・アルバイト、契約・嘱託社員など、非正規雇用者の割合は全年齢平均では33.7%なのに、15〜24歳に限ると48.1%に跳ね上がる(07年1-3月、総務省調べ)。

 実はこうした「世代間格差」は日本だけの現象ではない。ヨーロッパでもアジアでも、よく似た構造の現象が社会問題になっている。

 例えばフランス。1975年のフランスでは、30歳と50歳の労働者の賃金格差は15%だった。それが今では40%に拡大している。大学卒業後2年経っても就職できない若者の割合も、過去30年で6%から25%に増加した(『Newsweek』誌07年4月25日号)。同誌によれば、こうした若者の失業問題はドイツやベルギー、イギリスなどヨーロッパ全域に広がっている。

 就職不安のため、成年しても親元を離れない若者が増えている。イタリアでは30-34歳層の45%が今も親と同居し、フランスでは24歳で両親と同居している若者の割合が65%に達したそうだ。個人主義の傾向の強いヨーロッパでは異常な事態である。何のことはない、日本でいう「パラサイト・シングル」はヨーロッパでも大量発生しているのである。

 若者を圧迫している元凶が「ベビーブーマー」=「団塊の世代」である点も、日本と同じだ。

 第二次世界大戦が終結した直後に生まれたこの世代、日本でも欧米でも他の世代に比べて人口が膨らんでいる。しかも日欧では戦後の経済成長期に福祉制度が発達し、好景気も手伝って団塊の世代には安定した雇用と高い年金が保障された。

 ところが今、その団塊の世代が老年にさしかかり、日本でも欧州でも厄介な存在になってきた。彼らが企業に居座っているので、若者の就職口が増えない。少子化で若者は減る一方なのに、これから退職して年金を受け取る大量の団塊の世代の生活費を負担しなければならない。

 東アジアでも若者の雇用状況は厳しい。

 例えば、1980年代に急速な経済成長を遂げ「東アジアの四頭の虎」と呼ばれた香港、台湾、シンガポール、韓国。80年代後半から製造業が中国やベトナムなどの低コスト国へ流出したうえ、産業の軸足がIT、物流、金融などに移ったため、大卒専門職には新しい就職先が生まれたが、労働市場全体で見ると求人が減った。

 1986年以降、香港では工場の雇用数が60万件以上減少し、サービス部門が雇用の主な原動力になった。だが、単純労働の場合、ほとんど最低賃金しか支払われず、福利厚生も期待できない。販売員や警備員といった仕事の初任給は月わずか400ドル。かつては可能だった労働者階級から中産階級へのステップアップはほぼ不可能になった。

 台湾では、昨年6月に大学を卒業した25万人のうち10万5000人は9月末時点でも無職のままだったという(『Newsweek』誌07年12月5日号)。

 これも、企業が人件費の安い海外へ製造拠点を移したため、雇用が減った日本の状況(『製造業の空洞化』と呼ばれた)とそっくりである。

 この窮状は日本では非都市部で特に顕著だ。製造業に就職し、職能を身につけ熟練工へ成長していくというかつての就労形態は減った。代わりにチェーンストアの販売員など単純労働が増えた。が、こちらは非正規雇用が多く、熟練して職能が上がることは期待できないし、賃金もほとんど上がらない。ここでも若者は、上の世代が享受できた雇用から疎外されている。

 冷戦の終結と共に「保守・革新」(企業経営者・労働者)という対立軸が消えたと思ったら、今度は「世代」という新しい対立軸が浮かび上がってきた。

「ホリエモン」みたいな「ベンチャー成功組」が格差社会の勝者だと思っていると、問題の本質を見誤るのでご注意されたい。



成長の神話を失った日本にフヌケ男大量発生 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

071203ヌメロ・フヌケ男はなぜ発生するのか

 「ギャル男」クンだとか「おネエマンズ」だとか、ワケの分からん男どもが大量発生、「もはや理解不能」と頭を抱えておられる読者は多いのではなかろうか。

 また職場や学校に「それでもお前、男か」と怒鳴りつけたくなる「フヌケ男」がいてトラブル頻発、ムカつきっぱなし。そんな経験はないだろうか。

 乱暴を承知でそうした現象をひと括りにしてしまうと、こんなことが言える。

 いま日本社会は「成人男性」の定義を見失ってしまっている。「成熟した大人の男性とは何か」という社会規範や共通理解が崩壊し、混乱しているのだ。

 なぜか。日本社会はいま二重の意味で「成長の物語」を失ってしまっているからだ。

 まず明治時代に始まった長いタイムスパンでの「成長の物語の喪失」から説明しよう。

 明治維新以前、俗にいう「近代化」以前の日本社会には、若者は「この儀式を済ませたら大人として振る舞わなくてはいけないし、社会もその人を大人と見なす」という「成人の儀式」を通るのが当たり前だった。

 武家や公家社会では「元服」と呼ばれ、だいたい15歳から20歳の間に済ませた。農民社会にも「名替祝い」「褌祝い」という儀式があった。

 ちなみに、こうした成年の儀式は日本だけの現象ではない。世界中どの文化にもある。民俗学や心理学、神話学ではこうした「それを済ませると一挙に大人になる儀式」のことを「通過儀礼」(イニシエーション)と呼ぶ

 ところが、明治時代以降、こうした成年式は次第に姿を消した。代わりに登場したのが「時間をかけて徐々に大人になる」という考え方であり、この時期に日本人は「青年期」「青春」という名称を与えた(精神分析学者・河合隼雄の説)。

 この「成年式の消滅」が、一つ目の「成長の物語の喪失」である。

 二つ目の「成長の物語の喪失」は、1990年代、バブル景気がはじけた後の暗くて長い「平成大不況」と共にやって来た。

 それは、戦後ずっと日本人を駆り立ててきた「経済による成長の物語」の前提である「終身雇用制」と「年功序列賃金」を企業が捨てたことに起因している。

 明治維新から1945年の敗戦まで、日本社会を動かした「成長の物語」は帝国主義的手段による政治・経済発展だった。

 が、それが敗戦によって破綻すると、今度は平和主義的手段による経済発展が取って代わった。その最高潮としての高度経済成長期以降は、企業体が通過儀礼を受け持つようになる。今でも、学生が就業すると「社会人」(=社会の一員)と呼ばれるのはその名残である。

 企業体はさらに、生涯を通じての「成長の物差し」を日本人に用意してきた。係長→課長→部長と役職が上がる「昇進」や、給与の「昇給」で目盛りが上がるたびに、人生の「成長」を計測することができたのである。ここで前提になっているのが、同じ企業体で一生働くという終身雇用制と、雇用年数が増えると給与も自動的に上がるという年功序列賃金だった。

 つまり生物的な加齢と、企業での昇進・昇給がぴったりと一致していたからこそ、「企業での成長=人間としての成長」という図式がそのまま受け入れられ、社会に定着したのだ。

 ところが、戦後50年近く日本を貫いていたこの二つの制度が、90年代になってこっぱみじんに吹き飛んでしまった。日本経済は成長どころか長い不況のどん底を這いずり回っている。企業そのものが倒産や吸収・合併で消えてしまうことも珍しくない。従業員を「リストラ」という名前で解雇するのも、「派遣社員」など「非正規雇用」も当たり前になった。年功序列賃金は「実力主義賃金」に取って代わられ、加齢しても賃金が上がるという保証はなくなった。

 こうして、過去50年日本社会を動かしてきた「もう一つの成長の物語」は消滅した。

 日本人の「成長の尺度」は大混乱に陥った。成長の尺度を失った日本人には「大人とは何か」「成熟とは何か」を定義することは、もうできない。つまり親世代が若者に「こういう大人になれ」というお手本が、もはや存在しないのである。

 高度経済成長を支えた企業従業員の大半が成年男性だったことが災いし「成熟した男性」のお手本が先に破壊されたため「大人の男」の定義は余計に混乱している。もちろん女性側も混乱しているのだが、紙数が尽きた。そちらはまたの機会に。


年金という「年寄り天国・若者地獄」 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]



「年金」問題って、本当にややこしい。複雑怪奇でわかりづらい。

 何しろバリエーションが多い。私のようなフリーランスのライターや、商店街の八百屋のおじさんのような「自営業者」には「国民年金」しかないけれど、サラリーマンはそれぞれの会社の「厚生年金」がプラスされる。学校の先生や公務員には「共済年金」がプラスされる。

 と、その人の職業によって受け取る年金の有り様が千差万別なものだから、議論が余計にややこしくなる。

 それに、年金といえば「おじいちゃん・おばあちゃんになった時に受け取るお金」と単純に思っているかもしれないが、障害を負ったときや、死んだ時にももらえる(本人には使い道がないけれど)。

 ここまで複雑になると、新聞やテレビで年金関連のニュースを見ても、それが自分に関係があるのかないのかさえ分からない。

 そこで、議論を思いきり単純化するために、ここでは「国民年金」=「日本国内に住所のある20歳以上60歳未満のすべての人が強制加入する年金」に話を絞る。

 そして、その中でも、老人になったときにもらう「老齢基礎年金」に話を限ることにする。

 これなら、20〜60歳の日本人であれば全員加入しているから、誰にでも関係のある問題になってくるはずだ。なので、以下「年金」といえば「国民年金の老齢基礎年金のこと」とご了解いただきたい。

 年金とは何か。一言でいってしまうと、お年寄りになって退職しても、政府が国民からお金を集めて、その失った所得を補うように分配してくれる制度、と考えてもらえればいい。いわゆる「社会福祉制度」である。

 さて、ここからが本題。この年金、支払った額ともらえる額の倍率が、生まれた年によってひどい格差を生じることが、確実になっているのだ。

 それも、早く生まれた世代の方がトクをして、後から生まれた世代ほど損をするという「年寄り天国・若者地獄」になることを、政府の統計が認めているのである。

 例えば、現在すでに年金をもらっている世代の場合はどうだろうか(年金は60歳から70歳の間で受け取り開始の年齢を選べる)。

1935年生まれ 保険料=230万円 給付額=1300万円(5.8倍)

1945年生まれ 保険料=390万円 給付額=1300万円(3.9倍)

「保険料」とは「年金のために支払った額の総計」であり、「給付額」とは「もらえる額の総計」と考えてもらえばいい(04年の厚生労働省の推計による。どちらも40年間満額で保険料を払ったと仮定。以下同じ)。払った額の4〜6倍弱が返ってくるなら、投資としてはそれほど悪い話ではない。

 ところが、これが現役の働き盛り世代になると、がらりと様相が変わる。

1965年生まれ 保険料=830万円 給付額=1,600万円 (1.9倍)

1975年生まれ 保険料=1,000万円 給付額=1,800万円 (1.8倍)

 なんと、いきなり2倍を切ってしまうのだ。

 これより若い世代だと、85年・95年・05年生まれは、保険料・給付額とも少しずつ上がっていくが、結局倍率はみんな1.7倍である。この推計ですら「甘い」という批判が出ている。実際にいくら支払われるのかは、それぞれの世代が「お年寄り」になってみないとわからない。

 なぜこんなことになったのか。簡単に言ってしまえば「少子高齢化が政府の予想以上のスピードで進んだため」である。

 つまり年金をもらうお年寄りが急激に増え、その年金の財源になる保険料を払う若い世代が急激に減ってしまったから、こういう激しいアンバランスが生じたのである。同じ社会福祉制度の下でかくも大きな不公平が生じるというのは、どう考えてもおかしい。

 リターンが2倍を切るのなら、ちょっと頭のいい人なら「自分で株にでも投資した方がいいや」と考えても不思議ではない。

 実際に、いま国民年金の実質納付率は49.0%(06年度、社会保険庁による)という危険水域まで低下している。これは「国に老後のお金を預けるなんてアホらしい」という、一種のボイコットなのではないかと私は考えている。
(止め/1602字)

タグ:年金

ウオークマンはなぜiPodに負けたのか ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

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 かつて「携帯型音楽プレイヤー」の代名詞は「ウォークマン」だった。

 言うまでもなく、これは「ソニー」が1979年に発売した携帯プレイヤーの商品名だ。が、その後もメディアをカセットテープからCD、MDへと変えながら全世界に普及したため、メーカーがソニーでなくても「ウォークマン」といえば「携帯音楽プレイヤー」のこと、というふうに「固有名詞」ではなく「普通名詞」になってしまった。

 ところが、その30年近く続いた王座が、奪取されてしまった。

 そう、2007年のいま「携帯型音楽プレイヤー」といえば、真っ先に思い浮かぶのはアップル社の「iPod」だろう。市場シェアの数字を見てみよう。

 07年5月までの1年間、アップルが一貫して50%前後、つまり市場の半分を独占しているのに対して、ソニーはまだ30%に手が届かない。東芝、松下電器、シャープに至っては10%にも満たない有り様だ(BCN調べ)。

 断っておくが、デジタル・オーディオ・プレイヤーを初めて発売したのはアップルではない。先頭を切ったのは、韓国や米国の中小メーカー。1998年のことだった。

 ソニーも2000年に携帯電話に音楽再生機能を組み込み、すぐ後を追った。意外なことに、アップルがiPodを売り出したのは、このソニーよりさらに遅い2001年なのだ。

 技術的な話に深入りすると途方もなくややこしくなるので、こんな例えで説明しよう。

 軍事史でよく出てくるジンクスである。「一度戦争に勝った国は、その勝因にこだわりすぎて、次の戦争ではその勝因がゆえに負ける」。

 ソニーは、これまでに少なくとも2回、世界の人々のライフスタイルそのものまで変えてしまう、大変革を成し遂げている。

 一つ目は、先ほど述べた「ウォークマン」の発明である。今となっては嘘のような話だが、当時は「録音のできない再生専用テープ機なんて売れない」というのが家電業界の常識だったのだ。

 二つ目は、1982年にCDをフィリップス社(オランダ)と共同で開発し、アナログ盤を駆逐してしまったことだ。CDも「アナログ盤や再生機が普及しているのに、別規格の音楽メディアなど必要ない」という「業界の常識」を破壊してしまった。

 自社で開発した独自の技術と製品で、思い込みをひっくり返し、「世界標準規格」の王座に自らが就く。これがソニーが「戦争」に2連勝した「勝因」である。が、今度はどうやらそれが裏目に出たようだ。

 例えば、アップルが音楽データの記録に使った技術は、当時世界でもっとも普及していた記録技術「MP3」と互換性があった。が、ソニーが使った自社技術「ATRAC3」は互換性がない。つまりソニー系のウエブサイトからダウンロードした音楽は、ソニー製の再生機でないと鳴らせない。これは不便だ(2004年10月になってようやくMP3と互換性を持たせた)。

 私も店頭で聞き比べたことがあるが、確かにソニー規格の方が音はいい。技術的にもMP3より上質だ。が、ここでソニーは「戦勝国のジンクス」にはまった気がする。MP3より自社技術の方が優れているのだから、ウォークマンやCDのように逆転できると読んだのではないか。

 傘下に「ソニー・ミュージックエンタテインメント」(SME)というレコード会社を抱えていたことも逆作用した。必要以上に「著作権保護」と「自社アーティスト主義」に気を遣わざるをえなくなったのだ。

 例えば、レコード会社と関係のないアップル社の「iTune Music Store」(当時)は、当初からどのレコード会社のミュージシャンであろうと揃えていたし、そこからダウンロードした音楽をソフト「iTune」(しかも無料配布)でCDにコピーできた。

 ソニーは、この流儀に出遅れた。SMEのサイトには自社ミュージシャンしかなかった。しかもCDに焼けないから、ダウンロードしても、ソニーの再生機を買うしかない。

 しかし、宇多田ヒカルがどこのレコード会社で倖田來未はどこで、なんて消費者には関心のない話だ。調べるのも面倒くさい。しかも、もし所属がSMEでなければ、ソニーの再生機を買っても聞けないかもしれない。これは生産者の都合であって、消費者にとっては馬鹿げた不便でしかない。

 結局、技術や音質で多少見劣りしようと、「道具として便利な方」に消費者は流れたのである。

 以下、私見。ソニーのライバルは長らく同じ「家電業界」の松下や東芝だった。まさか「ヨソのムラ」から来たアップルに主導権を取られるなどとは思わなかった。案外、現実はそんなものかもしれない。

小池百合子はけっこうタフでしたたかでプロフェッショナル政治家だぞ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 もしあなたが小池百合子・前防衛相(1952年生まれ)のことを「二世議員でもないのに努力して大臣まで登り詰めたアマチュア型政治家の星」だと思っているなら、考えを改めた方がいい。

 彼女の政治家としてのキャリアを見れば「人気上昇中の権力者をかぎ分け、その人物に取り入る能力」と「その人物が落ち目と見るや、臆面もなく別の権力者に乗り換える節操のなさ」は、天才的とさえいえる。

 私は彼女を貶しているのではない。そんな能力も、永田町の権力闘争をサバイバルし、さらに権力を求めてのし上がる「プロフェッショナル型政治家」には重要な資質なのだ。

 最近の例を挙げよう。9月12日正午すぎ、安倍晋三首相が「首相を辞める」と自民党幹部に伝え、政権が崩壊した日、小池は何をしていたのか。

 同じ日の夕方に発足した「小泉前総理の再登板を実現する有志の会」(05年9月の『郵政総選挙』で大量当選したいわゆる『小泉チルドレン』らの集まり)に賛同、署名簿にサインをしているのだ。

「自民党をぶっ壊す」と宣言、世論の人気を一身に集めていた小泉純一郎に接近し、03年9月、小泉内閣で初の大臣ポスト(環境大臣。『クールビズ』を提唱して成功させた)を射止め、郵政総選挙では「刺客」までやってのけた彼女にすれば、当然だろう。私はそう思った(結局、小泉は動かなかった)。

 ところが、9月17日の朝刊を開いて私は仰天した。16日の自民党総裁選の街頭演説の写真に、小池が「司会」としてちゃっかり写っているではないか。

 しかも、右側で候補の麻生太郎がマイクを手に熱弁を振るうのをまったく無視するかのように、左に立つ対抗馬・福田康夫の横に寄り添い、視線を重ね、揃って微笑んでいる。メイクは薄く、茶とベージュの服装も地味で、福田と並ぶとまるで上品な夫婦のようにさえ見える。

 そう、この時点ですでに、自民党派閥の大勢は福田支持に回っていたのである。このタイミングで、元ニュースキャスターの小池が、自分がどうカメラにとらえられるか、計算していないはずがない。

「ああ、彼女はまた『相手の男』を乗り換えたな」。私はそう思った。

 ここで小池の「権力者遍歴ぶり」を振り返ってみよう。

 92年7月 テレビ東京のキャスターから転身、元熊本県知事・細川護煕が結成した日本新党から参議院比例区で初当選

93年7月 衆議院・兵庫2区(出身地)にくら替え、当選

同8月 細川連立内閣で総務政務次官

94年6月 日本新党副代表

同12月 新進党副幹事長

98年1月 小沢一郎党首の自由党へ移る

2000年4月 自由党が分裂、保守党へ

02年12月 小泉総裁の自民党へ移る。環境大臣、沖縄・北方担当大臣

06年9月 安倍晋三内閣が発足。内閣総理大臣補佐官

07年7月 「(原爆投下は)しょうがない」発言の久間彰生大臣の辞任を受け、防衛大臣

同8月 安倍内閣改造を前に続投を拒否。

 お分かりだろうか。細川護煕→小沢一郎→小泉純一郎→安倍晋三と、小池はその時々の権力者と「付き合っては別れ」を繰り返しながら防衛大臣まで上り詰めたのである。

 しかし、この後が問題だ。彼女は自民党に移ってまだ5年。党内に権力基盤がない。

 自民党本流議員の権力基盤とは「政治家・官僚・利益集団」のいわゆる「鉄のトライアングル」がもたらす資金と情報、そして票である。そういう議員たちを「族議員」という。

 わかりやすい例は、就任後8日で農水相を辞任したスキンヘッドの遠藤武彦(バンソーコー大臣こと赤木徳彦の次)だろう。山形県という農業地域を票田に、農業共済組合という利益団体の組合長だった遠藤は、絵に描いたような「農水族議員」である。

 小泉政権は、この「族議員」が長年、政策決定の牙城にしていた自民党内の「部会」の意向をほとんど蹴飛ばし、「諮問会議」という首相直属の場で政策を決めた。そして閣僚や党幹部人事でも、派閥のバランスや年功序列をとことん無視した(『自民党をぶっ壊す』とはこのこと)。

 その結果が、女性や若手議員の抜擢人事という現象になって現れた。小池は、そんな小泉の人事手法にうってつけの人材だったのだ。

 その意味では、01年に小泉が外務大臣に選んだ田中真紀子と、小池はよく似ている。

 似ているといえば、官僚機構や族議員と衝突して大臣職を追われたという点でも、二人はよく似ている。田中は、北方領土返還政策や外務省改革などをめぐって、数少ない「外務族」鈴木宗男や外務官僚ともめ事を繰り広げ、更迭された。小池は防衛省の事務次官(大臣に次ぐナンバー2。官僚の最高ポスト)人事に介入しようとして官僚ともめたあげく、更迭される前に自分で辞めてしまった。小泉・安倍という「後ろ盾」を失った瞬間、押さえつけられていた「鉄のトライアングル」が逆襲したのである。

 田中真紀子には、父・角栄から受け継いだ強固な地盤が選挙区にあるので地位は安泰だろう。が、権力基盤のない小池が自民党で存在感を保つには、世論の人気に直接支えてもらうしかない。

 だから彼女はマスメディアによく出る。ワシントンでライス(コメ)国務長官にひっかけて「マダム・スシと呼んでください」とあまりさえないジョークを言ってみたり、環境省の大臣室に手作りのお総菜を並べたりと、小泉そっくりの「ワン・フレーズ」型「テレ・ポリティックス」(テレビ依存型政治手法)を続けていくしかない。

 いま自民党内には「ぶっ壊れた自民党を建て直す」(麻生太郎)という「小泉以前」への揺り戻しが起きている。きっと小池百合子は考えていることだろう。次の「相手」を誰にするのかを(敬称略)。


日本は移民を受け入れて多文化社会に移行しないと衰退するしかないぞ ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 東京で「CCS」という大学生のボランティア・サークルを見学に行ったことがある。

 仕事を求めて外国から日本に移住してきた移民、いわゆる「ニュー・カマー」を両親に持つ子どもたちは、学校へ行っても日本語がよくわからず、授業に付いていけないことが多い。また、塾や家庭教師に付く経済的な余裕のある家も少ない。そんな子供たちに、無料で勉強を教えてあげる。宿題の手伝いをする。そんなサークルだった。

 大久保にある区民センターの「教室」に一歩入って、私は仰天した。

 小学生や中学生、全部で30人か40人くらいの子どもたちがいただろうか。ワイワイと大変なにぎやかさに慣れてくるころ、気付いたのだ。中国系や韓国系など東アジア系の子どもが多かろうというのは予想していたが、よく見ると、ヨーロッパ系や中近東系の顔立ちの子どもが意外に多いのだ。アフリカ系の子どもも数人いた。

「中途半端になっちゃうんですよね」

 中国系のやんちゃな男の子に算数を教えていた男子学生が教えてくれた。

「家に帰っても、お母さんもお父さんも店(飲食店)の仕事が忙しくて、勉強や言葉の面倒を見てやる時間がない。だから、日本語も母国語も、どっちもいい加減なまま育っちゃうことが多いんです」

 「ニュー・カマー」とは、1980年代以降に来日してそのまま定住した外国人のことだ。第二次世界大戦前後に、日本にやって来た在日韓国・朝鮮人と区別するための言葉でもある。

 80年代以降来日する外国人が増えた背景には、83年、当時の中曽根内閣が「留学生受入れ10万人計画」を発表したことが大きい。これは西暦2000年までに日本で学ぶ留学生をフランス並みの10万人にしようという計画だった。その時にやってきた留学生たちがもう結婚し、家庭を持ち、その子どもたちが中学や高校で学ぼうという年齢に達しているのである。

 ニュー・カマーに限らず、在日外国人の社会的プレゼンスはもはや無視できる数ではない。法務省入国管理局が把握しているだけで、その数は約208万人。在日コリアンの約60万人を筆頭に、中国系が約56万人、ブラジル系が約31万人と続く。「不法滞在」も含めると、一体何人くらいになるのだろう? 200万といえば名古屋の人口とほぼ同じだ。

 いよいよ日本も本格的な「ハイフネイテッド・ジャパニーズ社会」に突入したのだ。私はそう思う。

 “Hyphenated”とはアメリカ生まれの言葉である。移民の国であるアメリカでは、その出身国によって”Irish-American”(アイルランド系アメリカ人)や”Japanese-American”(日系アメリカ人)、”African-American”(アフリカ系アメリカ人)というふうに、その出身民族・文化・地域をハイフン(-)で示す。

 それと同じように、「祖先のルーツは外国でも、日本人」という人々が、これからどんどん増えていくと思う。「君、どこ系?」「おれ?インド系」なんて会話が、普通にこの国で交わされる日も近いだろう。

 いや、そういう現実はもうすでに来ていると考えた方がいいのかもしれない。

 7月29日に行われた参議院選挙で民主党比例区の候補者だったツルネン・マルテイ氏(当選)は、宣教師として来日し、そのまま1979年に日本に帰化したフィンランド人である。いわば”Finnish-Japanese”=「フィンランド系日本人」だ。

 球団経営や携帯電話で有名な「ソフトバンク」社の孫正義氏もルーツはコリアだから、”Korean-Japanese”=「コリア系日本人」と呼ぶべきだろう。

 というより、もう日本には「ハイフネイテッド・ジャパニーズ社会」つまり移民を受け入れることを前提にした「オープン・ドア政策」しか選択肢がないのだ。日本人女性が産む子どもの平均数を示す「合計特殊出生率」は05年に1.25にまで落ちた。人口水準を維持するのに必要な出生率は2.07なので、05年から日本は人口の「自然減」が始まっている。つまり人口が減り始めているのである。

 このまま「出生率1.25」が続けば、2050年ごろ日本の人口は1億人を切り、2100年には現在の半分である6414万人になることが政府統計でわかっている。それどころか、西暦3200年には日本人は世界に1人になり、絶滅する。そこまで事態は切迫しているのだ。移民を受け入れていかないことには、日本人は本当に「絶滅」してしまうのだ。

 悪い話では決してない。移民たちが世界からもたらしてくれる多種多様な文化。それは日本を「多文化社会」に変貌させずにはいられないだろう。その姿を、私は今からけっこう楽しみにしている。


地下鉄・副都心線ができて東京は変わる(はず) ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

ふくとしんせん.jpg いきなりで恐縮ですが、クイズです。東京の五大繁華街、すなわち「新宿」「渋谷」「池袋」「銀座」「日本橋」を、デパートの地域売り上げ高合計が高い順番に並べると、どうなるでしょう? 

 正解→ 1位は新宿の圧勝(6114億円)。2位、日本橋(5023億円)。3位が池袋で3468億円。渋谷は意外に低くて4位の2224億円。これまた意外なことに、名門・銀座はビリの2017億円である。

 中でも、新宿の消費地としての巨大さは圧倒的だ。新宿だけで京都市全域のデパートの売上高の2倍以上の金額があるといえば、その規模の大きさが分かるだろう(『日経ビジネス』07年5月21日号)。

 この新宿を中心に、来年6月に新しい地下鉄「副都心線」が開通する。この「副都心線」、何が恐ろしいかというと、先ほどのデパート売上高1位(新宿)、3位(池袋)、4位(渋谷)をぶち抜きで結んでしまうのだ。

 もちろん、それだけならJR山手線がすでにある。が、副都心線がすごいのは、開通と同時に、後背地の埼玉の住宅街を走る西武池袋線と東武東上線が乗り入れるうえ、2011年には渋谷駅で東急東横線とも直結してしまうことだ。

 これが完成すると、横浜と新宿、渋谷、池袋が直通で結ばれてしまう。この開通で、東京西部の1000万人の人口を抱える巨大な商圏が生まれることになるというから驚くほかない。

 この副都心線の新宿でのターミナル駅、実は「新宿駅」ではない。東京在住以外の方には分かりにくくて恐縮なのだが、スタジオアルタで知られる新宿駅東口から500メートルほど歩いたところにある「新宿三丁目駅」を、この副都心線は交差する。

 こともあろうに、この新宿三丁目駅の真上は、「伊勢丹」「三越」「高島屋」と、名だたる百貨店がひしめき合っているデパート激戦地なのだ。家電量販店も多い。もうすでに、各店とも「副都心線対策作戦」を必死で練り上げている。来年6月以降、「新宿三丁目」が新宿の新しい核になることは間違いあるまい。

 新宿駅をはさんだ反対側の西口にある「小田急」「京王」百貨店にとっては、商機から取り残されかねない困った事態である。

「消費のビッグ・シティ」として不動の地位を保つだろうと思われた新宿でさえ、たった一本の地下鉄の開通でがらりと様相が変わってしまうのだ。

 目を他に転じてみよう。ここ数年の東京の変貌ぶりはすさまじい。02年の「丸の内ビルディング」、03年の「六本木ヒルズ」「汐留シオサイト」に始まり、06年の「表参道ヒルズ」07年の「東京ミッドタウン」と、一体どこが不況なのだという勢いで都市が再開発され、ちょっと目を離すと、古い街や建物がピカピカの超高層ビルに変わっている。

 かく言う私が住む、木造長屋の多い下町・月島の隣、「豊州」というエリアも、だだっ広い造船工場が広がる、煤けてさびれた街だったのに、一年ほどの間に「ららぽーと豊州」という不夜城の如き巨大ショッピングセンターが出現。

 あっという間に、東急ハンズはあるわ紀伊国屋書店はあるわ巨大シネコンはあるわと、まるで新宿か渋谷がチャリンコで五分のところに引っ越してきたかのような大賑わいになった。それに合わせて三十数階建てのタワーマンションがニョコニョコとあちこちに立ち上がり、ホームセンターだアスレティックジムだとまあ、目の回りそうな開店ラッシュだ。以前の工場街の面影はあっという間に消え、おしゃれでこぎれいなベイエリアの新都心に変貌してしまった。

 このトーキョーのスピードに、私は軽い目まいを感じてしまう。

 私事で恐縮だけれど、私は京都市で生まれ育った。あそこもトーキョーとは逆の意味で特異な街である。小野小町が枕草子を書きながら歩いたのと同じ通りを歩き、平家滅亡後に建礼門院が眺めて暮らしたのと同じ山並みを眺めることができる。

 京都の人々は「変わらないこと」を誇りにしていた。
 東京の人々は「変わること」に喜びを感じているかのようだ。

 まあ、どちらが良い悪いの話ではない。私はそんな無定形な都市・Tokyoも好きだ。

 まるで若くて浮気な女のように、颯爽と衣服を着替えメイクを変える姿を眺めているのは、ほほ笑ましくて、悪くない。

 ここはそういう街なのだ。楽しんでしまった方がいい。

 まあ、変身のスピードが早すぎるんで、ちょっとスロウダウンしてくれるとありがたいのだが。

ニューヨークはもう最先端音楽の街じゃない ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

070611燃え尽きるニューヨーク
 大学院に2年通い、記者としても長く取材フィールドになったニューヨークは、ぼくの第二の故郷だ。だから一年に一度は「帰省」しないと気持ちが悪い。

 30歳のころ、自分の感性の非常に重要な部分があの街でつくられたので、ときどき帰って「ネジ」を締め直さないと、度数が合わなくなったメガネをかけ続けているようで気持ちが悪いのだ。

「帰省」だから、航空券の一番安い2月ごろがいい。あちらはマイナス20度の厳冬だ。でもそこがいい。観光客がいないから。よそ行き顔のニューヨークは、ない。ニューヨーカーたちのすっぴんの「生活」だけがそこにある。

  大学院時代の仲間やジャーナリストの友だちに会って、メシを食っておしゃべりをする。美術館(MoMAかホイットニーがいい)へ行ってぼんやり絵を眺める。そして夜。安いピザを腹に押し込んで、ライブハウスに出かける。

 なにしろ「世界の音楽の都」である。毎晩なにがしかのビッグ・ネームがコンサートをやっている。「スィート・ベイジル」や「ブルー・ノート」なんて名門クラブにくり出す手もある。けど、そんなことはもう飽きた。

 本当におもしろいのは、誰が出ているのか、何の前知識も持たず、小さなライブハウスにふらりと入ることだ。「CBGB」や「ニッティング・ファクトリー」は、有名になりすぎてつまらない。平日の「トニック」とか「バワリー・ボールルーム」なんかがいい。

 で、今年の2月もそんなふうにライブハウスをハシゴして、愕然とした。出てくるバンド出てくるバンド、ことごとくつまらないのである。マンハッタンに通って10年以上になるけど、こんなことは初めてだ。

 ステージをじっと見ていて、はっと気が付いた。どのバンドも、アップルのラップトップPCをステージに持ち込んでいるのだ。マックでリズムトラックやサウンドエフェクトを鳴らし、それをバックにギターを弾いたり叫んだり。音は大仰だけど、芸がない。個性がないのだ。

 よく考えれば当たり前だ。PCに入っている音なんて、しょせんはどこかで買った既製品程度の音でしかない。どれもこれも似たような音ばかり。退屈で死にそうだ。PCの音なら、世界のどこで聞いても同じだろ? 何でこんなことになったんだ?

 さて、話は変わって。証券会社でアナリストをやっている大学院仲間のクリス(女性)が、中古マンションを買った。

 イーストビレッジに2ベッドルーム(3LDKくらい)というから、70万か80万ドルの高級物件だ。こんな買い物ができるクリスは、マンハッタンでもれっきとした「勝ち組」だ。

 90年代後半の好景気で、マンハッタンの不動産価格はほとんど倍近くに高騰した。ステューディオ(ワンルームマンション)の家賃が2〜3000ドルなんて、今じゃざらだ。貧しいアーティストたちはもうマンハッタンには住めない。

 マンハッタンのマンションには「コーポラティブ」という不動産形態がある。これだと、建物全体が入居者組合の財産になる。マンションは入居者全員の財産なので、誰を入居させるかは住民組合に決定権がある。物件を購入しても、入居の審査にパスするのに数ヶ月かかることもざらだ。

 クリスは、マンションの組合が入居をなかなか許可しないと嘆いた。1億円の預金残高証明書を提出したのに、財産が1億円程度では「入居にふさわしいお金持ち」には該当しないというのだ。

 一体何の冗談なの? ぼくは聞いた。
 この街を見てよ。クリスは言った。

 ぼくがいた90年代に低所得者が住んでいたレンガ造りの古いアパートは、片端から取り壊され、ピカピカのマンションになっていた。家族経営の喫茶店やパン屋は、大資本のチェーン店ができ、消えていった。マンハッタンはいつの間にか、証券会社や銀行員、弁護士といった「勝ち組」ばかりが住む、こぎれいなだけの薄っぺらな街になっていった。

 世界一の金持ちと世界一の貧乏人がすれ違う。そんな多様性が十数年前のマンハッタンにはあった。それがこの街のダイナミズムだった。そんな摩擦から、スリリングンなアートが生まれた。そんな、衝突音のような音楽が好きだった。

 やれやれ。ぼくが愛したニューヨークは、もう死んでしまったのかもしれない。

ツバル・温暖化で真っ先に沈む国 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

読者のみなさんが使っているメールアドレスの末尾はだいたい「.jp」だろう。言うまでもなく「日本」の意味だ。イギリスなら「.uk」だし、フランスなら「.fr」だ。こういうメールアドレスやウエブサイトのURLの国を示す記号を「国別コードトップレベルドメイン」という。

 「国別コード」が世界各国に割り振られたとき、「.tv」つまり「テレビ」と同じつづりになる国があった。こりゃあきっと世界中のテレビ局が競って使用料を払い、大金持ちになるぞ、ラッキーな国だなあと誰も羨ましがった。しかし、そのほとんど誰もが、それが何という国で、どこにあるのか、知らなかった。

 その国の名は「ツバル」(Tuvalu)という。オーストラリアの北東約2500キロの太平洋に浮かぶ、サンゴ環礁の国だ。無名なのも、無理はない。なにせ島が9つ、国の面積を全部併せても26平方キロ(つまり5キロ四方)しかないというミニ国家なのだ。この島々に、約9700人の人々が暮らしている。

 最貧国にランクされている。少しばかりの漁業のほか、産業はないに等しい。耕作可能な土地はほとんどないし、飲料水にさえこと欠く。わずかながら、ココナッツやバナナが自給のために作られている。2000年に「.tv」のドメイン使用権をアメリカの会社に五千万ドルで売却、やっと国連に加盟できたという有り様だ。が、そんなことはどうでもよくなるような美しい国でもある。エメラルドブルーの海と白いサンゴの浜に抱かれ、人々はおだやかに、平和に暮らしてきた。

 が、とんでもない問題が持ち上がった。地球の温暖化に伴う海面の上昇で、島全体が海面下に沈没、国が消滅してしまうかもしれなくなってきたのである。

 なにせ最高でも海抜3メートルという国である。潮位が高くなる2〜3月がいちばんひどい。潮が満ちてくると、低地の地面からは泡が噴き出し、みるみる水たまりが広がって深さ30センチほどの「池」になってしまう。井戸水は塩辛くなる。サンゴの破片と砂でできた島はもろく、波で削られていく。「次に消える島」と言われるバサファ島は、テニスコート2面もない砂にヤシの木と茂みがへばりつき、点のような島の周りを波が洗っている(07年4月7日付朝日新聞)。

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 なぜ地球が温暖化すると海面が上昇するのか、説明しておこう。自動車や工場などが化石燃料(ガソリン、石炭など)を燃やす→で二酸化炭素が出て、地球の大気を覆う→温室のように熱がこもる→大気温が上昇する→北極・南極の氷や氷河が溶ける→海水が増える→海面が上昇する。こんな仕組みだ。

 このまま行くと、どれくらい温度は上昇し、海面は上がるのだろうか。国連の「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が今年2月にまとめた報告書は、恐るべき数字をはじき出している。

 今世紀末に地表の平均気温は1.8度から4度上昇する。そうすると、21世紀末の海面は、20世紀末に比べて18〜59センチ上昇する。そう言うのだ。「平均」でこれだけの数字が出るのだから、海流や潮の満ち引きによってはもっと大きな差が出るだろう。そのときツバルはどうなっているのだろう。

 いや、ツバルに限らない。最近日本人の旅行先として大人気のリゾート国、モルディブ。この国だって、ツバルよりは観光産業で潤っているが、海抜でいえば最高2.4メートルと大差ない。今世紀が終わるころには、約1200の島々のうちかなりの数がインド洋の波の下に消えているだろう。

 今のペースで温暖化が進めば、2080年には気温は2〜3度上昇、沿岸湿地の約30%が失われる。広範囲でサンゴ礁が死滅。毎年数百万人が沿岸洪水に遭う可能性が増える。海水温が上昇するから、漁業も被害を受ける。農業は低緯度地域ほど影響が大きい。被害はまず貧しい地域から広がるだろう。「報告書」は不吉な予言に満ちている。

 つまり、工業の恩恵なんてほとんど何も受けていないツバルやそのほかの国々が、どこか遠く離れた「先進国」の自動車や工場がまき散らすCO2のせいで沈んだり、洪水や干ばつで破壊されていくのだ。もちろん日本も、その「先進国」のひとつだ。

 ところで、あなたは、自動車を運転しますか?ついタクシーに乗ってしまったりしますか?





過労死する「勝ち組」たち ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 神様、あなたは一体何を考えているのだ。

 去年の大晦日、高校の同級生Hが死んだ。

 一人暮らしのマンションの寝床のなかで、眠ったまま彼の心臓は止まった。背丈180センチ。ラグビーグラウンドを疾走する彼の姿はかっこよかった。25年経っても、コンサートのライティングという華やかな仕事で全国を走り回る姿は、文字通りまぶしかった。

 コロンビア大学院の後輩、38歳のNも年の瀬に死んだ。NHKの記者だった彼は、10年ほど前「ぼくもアメリカの大学院に留学したいんです」と面識もないぼくに広島から電話をし、東京までぼくに会いに来た。まさかと思っていたら、本当にNHKを辞め、NYで修士号を取り、トーキョーに戻って外資系証券会社のアナリストになった。あっという間にチーフになり、バイスプレジデントになった。

 よく覚えている。汐留の高層マンションにある友だち宅でホームパーティーをやったとき、ワイン片手の彼は饒舌だった。肉体的にはきついが仕事は楽しくてたまらない。テレビを辞めて留学して、本当によかった。あれは蒸し暑い夏の夜だった。翌年、彼の体にがんが見つかり、半年後、鉛のような冬の空を、彼は旅立っていった。

 新聞社の同期入社仲間Sは、大阪から東京に転勤して、記者なら誰もが憧れる社会部デスクになった。ぼくの月島の家から100メートルのところにマンションを借りたので、「もんじゃ食って、遊ぼうな」と約束していた。だけどとうとう実現しなかった。「健康のため」と始めた自転車通勤の途中、会社まであと信号ふたつの交差点で、何の前触れもなくSはぱったりと倒れ、30分後には心臓が止まっていた。

 若白髪の坊ちゃん刈りで、ダサいセルの丸めがねをかけたSを、ぼくはよくからかった。「『極めてかもしだ』(山本直樹のまんが)そっくりやな、お前」と。ぼくは未明の病院の霊安室で、彼の白髪頭を撫でた。「ほんまにおつかれさん、かもしだ」。ぼくの目から涙がばらばらと落ちた。

 外資系生保会社のエリート営業マンだったTは、Hと同じように高校の同級生だった。仕事に来ないことを心配した同僚が、彼の一人暮らしのマンションに入ると、Tはトイレの前の廊下に倒れ、携帯電話を握りしめたまま硬くなっていた。

 テニス部のエースで、鹿のようにやさしい目をしたTは、女の子にモテモテで、ぼくはよく羨望の目で見上げたものだ。けれど、25年が経って、直径1ミリもない彼の脳の血管は、まるで安物のゴムホースのように突然破れた。

 そして最近また、新聞社時代の尊敬していた先輩がひとり、海で入水自殺した。ぼくより4歳くらい上だったと思う。論説委員までやったのに、偉ぶらない。その見識と職能の高さにぼくは心から敬服していた。知らせの電話を受けたとき、冷たく暗い水に沈んでいく彼の姿が浮かんで、胸がぎりぎりと痛んだ。

 おい、これは一体、何なんだ。どうしたっていうんだ。

 Nは六本木だったか赤坂だったか、とにかく家賃が中古車一台分するような、会社近くのマンションに住んでいた。「さすが外資系は違うなあ」とからかうぼくに、彼は真面目な顏で言い返した。「だって、朝7時から朝4時まで働いているんですよ。通勤なんて無理ですよ」。そして冗談まじりに笑った。
「テレビ記者の方がラクだったなあ」。

 Hは大晦日まで仕事をしていた。ほとんど休みなんかないと言っていた。Sはトリノ五輪の担当責任者だった。彼も毎日会社にいた。休むのは罪悪だ、とでも言うかのように。Tは毎晩接待の席を走り回り、土日にはお花見やピクニックの世話をした。だからみんなTが好きだった。

 彼らは、みんな職業的スキルを持ち、そして高収入だった。世間では彼らを「勝ち組」というのだろう。でも、ちょっと待ってくれ。ぼくはその「勝ち組」「負け組」という分類そのものが、好きじゃない。

 ぼくの周囲だけで「勝ち組」がこれだけ過労死している。彼らは収入は高いけど、その分、常軌を逸した働き方をしていた。外資系は特にそうだが、業績を上げないと、すぐにクビか、給料カット、降格が待っているからだ。落ちれば地獄のタイトロープの上を、彼らは全力で走っていた。

 彼らは「勝った」のだろうか。今の日本に、本当の「勝ち組」なんているのだろうか?



なぜウオークマンはiPodに負けたのか ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 かつて「携帯型音楽プレイヤー」の代名詞は「ウォークマン」だった。

 言うまでもなく、これは「ソニー」が1979年に発売した携帯プレイヤーの商品名だ。が、その後もメディアをカセットテープからCD、MDへと変えながら全世界に普及したため、メーカーがソニーでなくても「ウォークマン」といえば「携帯音楽プレイヤー」のこと、というふうに「固有名詞」ではなく「普通名詞」になってしまった。

 ところが、その30年近く続いた王座が、奪取されてしまった。

 そう、2007年のいま「携帯型音楽プレイヤー」といえば、真っ先に思い浮かぶのはアップル社の「iPod」だろう。

 市場シェアの数字を見てみよう。07年5月までの1年間、アップルが一貫して50%前後、つまり市場の半分を独占しているのに対して、ソニーはまだ30%に手が届かない。東芝、松下電器、シャープに至っては10%にも満たない有り様だ(BCN調べ)。

 断っておくが、デジタル・オーディオ・プレイヤーを初めて発売したのはアップルではない。先頭を切ったのは、韓国や米国の中小メーカー。1998年のことだった。ソニーも2000年に携帯電話に音楽再生機能を組み込み、すぐ後を追った。意外なことに、アップルがiPodを売り出したのは、このソニーよりさらに遅い2001年なのだ。

 技術的な話に深入りすると途方もなくややこしくなるので、こんな例えで説明しよう。軍事史でよく出てくるジンクスである。「一度戦争に勝った国は、その勝因にこだわりすぎて、次の戦争ではその勝因がゆえに負ける」。

 ソニーは、これまでに少なくとも2回、世界の人々のライフスタイルそのものまで変えてしまう、大変革を成し遂げている。

 一つ目は、先ほど述べた「ウォークマン」の発明である。今となっては嘘のような話だが、当時は「録音のできない再生専用テープ機なんて売れない」というのが家電業界の常識だったのだ。

 二つ目は、1982年にCDをフィリップス社(オランダ)と共同で開発し、アナログ盤を駆逐してしまったことだ。CDも「アナログ盤や再生機が普及しているのに、別規格の音楽メディアなど必要ない」という「業界の常識」を破壊してしまった。

 自社で開発した独自の技術と製品で、思い込みをひっくり返し、「世界標準規格」の王座に自らが就く。これがソニーが「戦争」に2連勝した「勝因」である。が、今度はどうやらそれが裏目に出たようだ。

 例えば、アップルが音楽データの記録に使った技術は、当時世界でもっとも普及していた記録技術「MP3」と互換性があった。が、ソニーが使った自社技術「ATRAC3」は互換性がない。つまりソニー系のウエブサイトからダウンロードした音楽は、ソニー製の再生機でないと鳴らせない。これは不便だ(2004年10月になってようやくMP3と互換性を持たせた)。

 私も店頭で聞き比べたことがあるが、確かにソニー規格の方が音はいい。技術的にもMP3より上質だ。が、ここでソニーは「戦勝国のジンクス」にはまった気がする。MP3より自社技術の方が優れているのだから、ウォークマンやCDのように逆転できると読んだのではないか。

 傘下に「ソニー・ミュージックエンタテインメント」(SME)というレコード会社を抱えていたことも逆作用した。必要以上に「著作権保護」と「自社アーティスト主義」に気を遣わざるをえなくなったのだ。

 例えば、レコード会社と関係のないアップル社の「iTune Music Store」(当時)は、当初からどのレコード会社のミュージシャンであろうと揃えていたし、そこからダウンロードした音楽をソフト「iTune」(しかも無料配布)でCDにコピーできた。

 ソニーは、この流儀に出遅れた。

 ソニーMEのサイトには自社ミュージシャンしかなかった。しかもCDに焼けないから、ダウンロードしても、ソニーの再生機を買うしかない。

 しかし、宇多田ヒカルがどこのレコード会社で倖田來未はどこで、なんて消費者には関心のない話だ。調べるのも面倒くさい。しかも、もし所属がSMEでなければ、ソニーの再生機を買っても聞けないかもしれない。これは生産者の都合であって、消費者にとっては馬鹿げた不便でしかない。

 ソニーの「ATRAC3」と「MP3」の音の違いを日常の使用で判別できる消費者など、まずいなだろう。結局、技術や音質で多少見劣りしようと、「道具として便利な方」に消費者は流れたのである。

 以下、私見。ソニーのライバルは長らく同じ「家電業界」の松下や東芝だった。まさか「ヨソのムラ」から来たアップルに主導権を取られるなどとは思わなかった。案外、現実はそんなものかもしれない。

Apple iPod classic 120GB ブラック

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  • 出版社/メーカー: アップル
  • メディア: エレクトロニクス






日本の自称アーティストさん、イスラム原理主義者の暗殺リストに載る勇気ありますか? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

仮に、あなたがデビューして10年以上を経たロックミュージシャンだったとしよう。

ミリオンセラーのレコードを何枚も出し、実力や名声は世界のすみずみに知れ渡っている。お金には何の不自由もなく、誰もがあなたをほめる。そんなとき、あなたは自分をわざわざ銃口や爆弾の前に曝すような危険に飛び込むだろうか? それも、さして有名でもない老作家のために。

1993年.そのころぼくはニューヨークにいて、浮世離れしたアイビーリーグの大学院で学術書ばかり読む生活をしていた。図書館でのレポート書きにも疲れ果て、何気なく拾い上げたタイムだったかニューズウィークだったかを開いて、驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった。

U2のボノが、サルマーン・ルシュディーと肩を組んでいる写真がデカデカと出ているじゃないか!

これが何を意味するか、おわかりだろうか。ルシュディーは、誰あろう小説「悪魔の詩」を書いたインド系イギリス人作家なのだ。

1989年 2月、 イラン の最高指導者アーヤトッラー・ホメイニー は、この「悪魔の詩」はイスラム教を挑発し、冒涜したものだとして、ルシュディーに死刑宣告を言い渡していたのだ。

この死刑宣告はイスラム法の解釈としての権威を持つファトワー (fatwa)として宣告され、とあるイランの財団 がファトワーの実行者に高額の懸賞金(日本円に換算して数億円)を出す、とまで宣言するおまけ付きだった。

この死刑宣告の恐ろしいところは、ルシュディー氏本人以外にも、出版や翻訳に携わった者全てに適用される点だ。日本では翻訳者の五十嵐一・筑波大助教授が91年に咽を数回掻き切られるという残虐な方法で殺害された(06年7月に時効が成立)ほか、翻訳者への襲撃は枚挙にいとまがない。

トルコでは翻訳者の集会が襲撃されて37人が暗殺され、イタリア、ノルウエイなども合わせると40人近くが死傷している。(なお、ホメイニーは89年に死去。ファトワーの撤回は行われなかった。ファトワーは発した本人以外は撤回できないので、撤回することができないまま今日に至っている)

そんな中、写真だけならまだしも、U2はあろうことかルシュディー氏の詞を自分たちの曲にして発表までした。「出版や翻訳」に加わったのである。これはすなわち、自ら進んでイスラム原理主義者たちの暗殺リストに載ることに他ならない。

これには、おったまげた。慈善だチャリティだと口にするミュージシャンは掃いて捨てるほどいる。が、その中でボノは、たった一人命がけで、宗教による表現の自由の弾圧に抵抗することを宣言していた。表現の自由はおれたち芸術家の命だ。ルシュディーを殺すならおれも殺してみろ、と。

ぼくはため息をついて雑誌を閉じた。ボノの、この「表現の自由を侵すもの」に対する敏感さは、一体どこから来るのだろう、と。こういう「力強い良心」を持つミュージシャンを生むアイルランドやイギリスが羨ましい、と思った。アメリカでは、ビースティー・ボーイズが仕掛けた「フリー・チベット・コンサート」の例がある。

英語で「見解が分かれる」ことをcontroversialという。ボノの例だって、ビースティーの例だって、そう。賛否はともかく、人々は「悪魔の詩」についてだけでなくイスラムについて、表現の自由について、中国のチベット自治区の人権問題について関心を持ち、考えるようになった。ポピュラー音楽には、そんなcontroversialな領域に踏み込み、議論すべき問題を社会に提起する力がある。

もちろん日本にも「チャリティー・コンサート」はある。曰く「エイズ撲滅」「環境保護」「戦争反対」等々。いや、大いに結構。みなさん善意でやってらっしゃる。やらんよりやったほうがよっぽどいい。でも、何だか、どれも「とっくに社会で合意済みの話」じゃないか。田舎の中学の弁論大会かね。

日本では、いじめられ、自殺を考える中学生を励ます歌を誰も出さないのは、なぜなんだ。親に虐待される子どもの絶望を代弁して歌う人がちっとも出て来ないのは、なぜなんだ。日本の自称「アーティスト」さんたちよ、何で、そんなに静かなんだ?



The Joshua Tree

The Joshua Tree

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Universal/Island
  • 発売日: 2007/12/10
  • メディア: CD



日本民族は西暦3200年に絶滅するだって!? ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 日本人女性が産む子どもの平均数を示す「合計特殊出生率」(俗にいう『出生率』)は、05年に1.25と、どん底まで落ちた。

06年はほんのちょっと回復したが、07年はまた減少しそうな気配だ。

「あら、女1人が子ども1人以上産んでるの?それなら、いいんじゃないの?」などと早合点してもらっては困る。

長期的に、日本が現在の人口水準を維持するために必要な出生率は2.07なのである。なぜなら、生まれてくる赤ちゃんの数より、亡くなる人の方が多ければ、差し引きで人口は減るからだ。いや実際、日本の人口は減り始めている。05年から「生まれる数より死ぬ数の方が多い」=「自然減」が始まっているのである。

 この「出生率1.25」が続くと、日本の人口は一体どうなるのか。ここに戦慄すべき統計がある。国立社会保障・人口問題研究所が行ったシュミレーションだ。06年現在1億2774万人いる日本人は、2050年から2060年の間に1億人を切る。そして2100年には6414万人と、何と現在の半分になってしまうのである。

 いや、これだけで驚いていてはいけない。国家間の人口移動、つまり移民がないと仮定すると、2190年に日本人は1000万人を切り、2340年には100万人を切る。そして西暦3200年には、とうとう「日本人」は地球上にたった1人になってしまうのだ。

当然1人では子どもは作れないので、その「最後の日本人」が死んだ時点で、日本民族は絶滅する。ユダヤ民族が国土を失って世界に散ったことを「ディアスポラ」と呼んだ。反対に、日本列島という国土だけはあるのに、民族が一人もいなくなるからっぽの日本を、歴史は何と命名するんだろう(というか、そんな民族、歴史上あったのだろうか?)。

 そこまで行かなくても、もう現実になった「人口減の時代」に、何が困るのか。まず、日本は「経済大国」から転落する。人口減とはすなわち、「モノやサービスを産み出す人」=労働力の減少と、「モノやサービスを買ってくれる人」=マーケットの縮小を同時に意味するからだ。つまり生産と消費がいっぺんにシュリンクしてしまうのである。法人税や所得税も減るから、自治体や国家の予算も縮小せざるをえない。医療は?老人介護は?考えるだけで恐ろしい。

 「日本は貿易立国」と社会科で習った人は意外に思うかもしれないが、日本の経済成長を支えた最大の「資源」は、巨大な国内人口だった。1868年の明治維新以降、戦争期を除いて、日本の人口は増える一方だった。1920年(大正9年)に5596万人に過ぎなかった日本人は、1967年には1億人を突破する。増加する人口は、労働力となり、生産力は向上する。そして同時に購買層としてマーケットは拡大する。そんな好循環が「経済成長」の大前提だった。

 その前提が、2005年を境にがらがらと崩れてしまったのである。

 これは脱線だが、この日本の衰退は「女たちの復讐」なのではないか、と私は思っている。1986年に「男女雇用機会均等法」が公布され、女性は男性と差別なく働けることになった。ところが、その女性が働きながら、社会の重要な資源である「子ども」を産み、育てることを、企業は、社会は歓迎しただろうか。答えはノーである。そんな劣悪な環境で、誰が子どもを産もうなんて思う?

 ちょっと話は飛ぶが、米国で「××系アメリカ人」のことを”hyphenated American”という。”Japanese-American”(日系アメリカ人)というように、二つの単語の間にハイフンが入るからである。当たり前だが、移民の国であるアメリカは、国民全員がhyphenated Americanである。

 そう。日本も本格的に「ハイフネイテッド・ジャパニーズ」の時代を迎えたのではないだろうか。インド系日本人。中国系日本人。ユダヤ系日本人。アフリカ系日本人。そうやって移民を受け入れていかないと、日本はどのみち滅んでしまうのである。国が立ち行かないのである。

 日本ハムファイターズのピッチャーに、ダルビッシュ有という選手がいるのをご存知だろうか。本名は、ダルビッシュセファット・ファリード有。父がイラン人、母が日本人である。ほらね。「ハイフネイテッド・ジャパニーズ」の時代は、もう始まっているのです。

タグ:出生率

真実に命を捧げたロシアの女性ジャーナリスト ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

 2006年10月7日、モスクワは真冬のように寒かった。

 その中心部にある古い石造りのアパートのエレベーターで、アンナ・ポリトコフスカヤ(1958年生まれ)は、血だまりの中で息絶えた。何者かが、彼女の体に3発の銃弾を撃ち込み、とどめに頭部を1発撃ったのだ。遺体のそばには、4つの薬莢とロシア軍の軍用拳銃、マカロフが転がっていた。

 これが政治的な暗殺であることは明白だった。アンナはただの銀髪のふくよかなロシア婦人ではなかった。進歩的な論調で知られる隔週紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者であり、月の半分以上をチェチェン共和国で過ごすチェチェン問題のスペシャリストだったのだ。

 果たせるかな、アンナの死体が発見されてすぐ警察が彼女のアパートを家宅捜索、コンピュータや取材資料を洗いざらい押収していった。アンナはその日、派遣軍が日常的に繰り返している拷問について、特集記事を書く予定だったのだ。拷問の証拠である2枚の写真が消えていた。

 チェチェンは、モスクワの約1500キロ南東にある小国である。黒海とカスピ海に挟まれた四国ほどの面積に、86万人が住んでいる。ここで91年のソビエト連邦解体後、ロシア連邦への残留を望む勢力と独立派の間で内戦が始まった。

 事態がひどくなったのは、ロシア軍が介入し始めてからである。94年から96年の第一次戦争(エリツィン政権)以降、チェチェンは地獄そのものだった。政権がプーチンに代わり、99年から再び始まった戦争はさらに酸鼻を極めた。ロシア軍や治安部隊、親モスクワのチェチェン政権軍や民兵が入り乱れ、無抵抗の市民に虐殺、拷問、レイプ、略奪といった残虐行為をやりたい放題に繰り広げていた。

 99年以降、そんな残虐行為の犠牲者を地道に尋ね歩いてはレポートしていたのがアンナだった。自宅のドアを開けたとたん、仕掛け爆薬で足を吹き飛ばされた男性。農作業をしていて地雷を踏み、両足を失った婦人。体に高圧電流を流され拷問された男性。ミサイル攻撃の火災で顏を潰された少年。アンナが会って話を聞き、報じるのは、そんな人たちだった。「これがプーチン大統領のいう『テロとの闘い』の本当の姿なのだ」と

 プーチン大統領は、国内外メディアの入国を頑なに拒んでいたから、そんな市民の苦しみを伝えるジャーナリストは彼女の他にはいなかった。

 02年10月にモスクワにある劇場ドブロフカ・ミュージアムがチェチェン武装勢力に占領され、922人が人質になったとき、犯人側はアンナを「事実を正確に伝えてくれるのは彼女しかいない」と交渉役に指名した。04年9月に北オセアチア共和国のベスランにある中学が占拠され、児童ら1181人が人質になったときも、犯人側はアンナが来ることを要求した(アンナはジャーナリストへの賞の授賞式のためにロサンゼルスにいたが、急遽ベスランへ飛んだ。が、機内食の紅茶に正体不明の毒物を混入され、意識不明の重体に陥る。結局ベスランにはたどり着けなかった)。

 プーチン政権、ロシア軍、治安部隊。チェチェンの親モスクワ政権とその軍や民兵。彼らはアンナを蛇蝎のごとく嫌った。敵は至るところにいた。01年にはチェチェンで軍に誘拐され、身の代金を要求されたこともある。虐殺を指揮した治安部隊の指揮官を実名で報道し、「殺してやる」と脅迫されたため、国外へ逃亡せざるをえなくなったこともあった。脅迫の電話や手紙は毎日のことだった。同僚であるはずのマスメディアでさえ、プーチン政権に媚を売るために「頭のおかしなモスクワのおばさん」とアンナをからかった。

 両親が外交官だったアンナは、国連のあるニューヨークで生まれた。だからアメリカの国籍も持っている。ペレストロイカ前、まだ検閲の厳しかった時代に、両親は外交官特権を活用して、ソ連では読めない本をスーツケースに詰めて持ち帰った。アンナは「自由」や「人権」といった旧ソ連にはなかった言葉の満ちた家庭で育った。

「知っておかなければならない。真実を知ればみんな、居直りとは無縁になれる」

 アンナはその著書「チェチェン やめられない戦争」(NHK出版)でそう書いている。

「真実を知らせること」。たったそれだけのために、アンナは命を捧げた。

ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳

ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳

  • 作者: アンナ・ポリトコフスカヤ
  • 出版社/メーカー: 日本放送出版協会
  • 発売日: 2007/06
  • メディア: 単行本



プーチニズム 報道されないロシアの現実

プーチニズム 報道されないロシアの現実

  • 作者: アンナ・ポリトコフスカヤ
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2005/06/25
  • メディア: 単行本



チェチェン やめられない戦争

チェチェン やめられない戦争

  • 作者: アンナ・ポリトコフスカヤ
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2004/08/25
  • メディア: 単行本



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