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現実の行動規範がネット化する ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

この夏新発売のケータイのカタログを見ていたらauは全機種が防水だった。

若い世代はお風呂に入っていてもずっとケータイでネットしているからだそうだ。

学校やサークルの友達でも、リアルに対面で話している時のコミュニケーション量より、メールやチャット、SNSで交流しているときのコミュニケーション量の方が多い。

もう驚きもしない話だ。

私は10年以上、マスコミ志望の大学生に作文や面接のコーチングをしている。

大人数ではやりたくないので、紹介で知った3、4人に自宅まで来てもらい、居間で文章の添削をしたりする。

「作文」をはさんで、間近に若者と話し合って気付いたのは、彼らがどんどん「感情表出」に抑圧的になってきていることだ。

「何にでも挑戦していきたい」「私は明るく前向きだと言われます」的な、無難な「決意表明」はスラスラ書くのだが、それでは個性も独創性もないから、入社試験では生き残れない。

そこで「自分の一生を変えた体験を書いてごらん」と課題を出すと、例外なく戸惑う。

ずっとクールな表情で「サークル活動で学んだこと」を書いていたギャルが「中学生のときに先輩に仲間はずれにされて死のうと思った」と書いた。

読んでもらったら、眼前でオイオイ泣き始めた。

そういう体験こそ個性だと私は思ったが、本人は「感情的になってすみません」と恐縮し切っている。

いろいろ聞くうちに気がついた。

家族や友人といった対人関係の中で「感情表出」をほとんど許されてこなかったのだ。

悲しいからワンワン泣く。
悔しいから、腹が立つから怒る。
楽しいからアハハと笑う。

感情表出は人間の自然な行動だ。

感情の抑圧が心身の健康を害しさえする事実は、臨床心理学が証明している。

古来、日本の社会文化はそんな感情表出を「人情」として社会的に受け入れていた。

「義理」(理性的な社会規範)と対等の行動原理として「感情」を認めてきたのである。

他者と怒りや悲しみ、悔しさを共有することは、それだけで他者を「特別な存在」として認知する行為でもある。

もともと日本の教育文化(学校、家庭、社会すべて含め)は感情に抑圧的(勉強中に笑うと不真面目と見なされるのはその例)なので、安直にその原因が何だとは言えない。

その前提で敢えて言うのだが、若い世代の対人関係の構築の中でインターネットの比重が増えるに従って、ますますこの傾向は加速していると思う。

当たり前のことだが、メールやブログ、SNS上のやりとりで感情を正確に伝えることは非常に難しい(だから顔文字や絵文字が発明された)。

よってネットでのコミュニケーションで感情を表現することはリスクが大きい。

正確に理解され、伝達されることは不可能に近い。

誤解と悪意、ミュニケーション不全が重なって爆発した最悪の結果がブログの「炎上」であり、ネットいじめ、バッシングである。

こういう現象を見ている若い世代が、ネットでの感情表出に抑制的にならない方が不思議だ。

ここで問題なのは、こうしたネット上での行動規範が、リアルな大人関係にもそのまま無意識に持ち込まれることだ。

冒頭で述べたように、リアルな友達であっても、交換される情報量の大半がネット経由だと、その人間関係はネット上での規範をそのまま反映することが多い。

分かりやすくいえば「リアルの世界で対面していても、怒り、悲しみ、悔しさ、喜びなど感情を表出し、共有することを知らず知らずのうちに遠慮してしまう」という現象だ。

これは「現実の行動でもインターネット空間の規範に従ってしまう」=つまり「現実世界のインターネット化」だ。

過去にこの欄で「テレビアバター」の話を書いたとき、現実の行動がテレビという仮想現実の行動規範を模倣し始める「現実のメディア空間化」が起きているということを指摘した。

これにインターネットというもうひとつのマスメディアを加えてみるといい。

現実は「テレビ空間化」し「インターネット空間化」している。

つまりダブルで「メディア空間化」している。メディアと現実の関係はますますねじれ、逆転しつつあるのだ。

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