SSブログ

北朝鮮ミサイル実験の本当の狙い ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

images.jpg

 戦争を仕掛けるなら、奇襲に勝るものなし。

 これは軍事の初歩中の初歩だ。

 つまり、本気で敵を軍事的に叩きたいのなら、相手が気付かないうちに準備し、向こうが迎撃態勢を取る前に最大限の打撃を与える作戦が王道。

 だから、多少でも軍事の心得がある人間なら、4月5日に北朝鮮が「テポドン2」改良型のミサイルを発射しても、本気で日本を軍事攻撃するつもりなどまったくないことはすぐわかる。

 事前に「×月×日に発射します」と通告、落下区域まで予告した発射が、軍事攻撃のはずがない。本気で日本に打撃を与えるつもりなら、人口・産業が希薄な秋田や岩手の上空など飛ばさず、抜き打ちで東京の中心部に一発撃ち込むはずだ。

 ちなみに、1950年に北朝鮮が38度線を突破して韓国を奇襲した朝鮮戦争は戦史上もっとも成功した奇襲作戦のひとつだ。その北朝鮮が軍事のイロハを知らないはずがない。だから、北朝鮮がテポドンの発射実験などしても、脅える必要は全然ない。軍事攻撃以外の何か別の目的があってやっていると考えるのが常識だからだ。

 そもそも今回のミサイル実験は日本の領土を侵していない。つまり「領空侵犯」ですらない。

 国の主権が及ぶ「領空」の定義は「領土・領海の上22.224キロ(12海里)」である。ミサイルは、今回衛星ロケットだと主張する北朝鮮の発表で490キロ、軍事用弾道ミサイルなら600キロから1000キロの「宇宙空間」にまで飛び上がる(『大気圏』は上空約100キロ)。「領空」を平屋家屋とするなら、弾道ミサイルは30〜50階建ての超高層ビルの高さを飛んでいくわけだ。宇宙空間は1967年の「宇宙条約」で領有を主張できないことになっているので、北朝鮮のミサイル実験は「信義違反」ではあっても「侵略行為」はおろか「国際条約違反」ですらない。

 だからギャンギャン北朝鮮を非難しても、根拠がないのだからまったく無駄。アメリカ、ロシア、中国が冷静というより冷淡なのは、このへんの常識を分かっているからだろう(ちなみに、長距離ミサイルには『弾道ミサイル』と『巡航ミサイル』の2種類がある。巡航ミサイルは、自動操縦でエンジンを噴射しながら水平に飛んでいく。弾道ミサイルは、放物線の頂点までエンジンで上昇し、後はエンジンを切って落ちてくる)。

 となると、北朝鮮は何のためにミサイル発射実験などやったのだろうか。

 健康不安が報じられる金正日体制の権力誇示。オバマ・新米国大統領への存在感のアピール。このへんは軍事オンチの日本のマスメディアも報じている。

 だが、もっとも見過ごされているのは、この実験そのものの軍事的な意味だ。

 それは「交渉相手国の危機対応能力を実験してみる」、つまり「害のない程度に脅かして相手の反応を見る」ことだ。

 日本はまんまとワナにかかった。

 政府は「ミサイル発射」の誤報を2回も繰り返し、危機対応でもっとも重要な情報収拾・伝達の能力がお馬鹿レベルであることを北朝鮮に教えてしまった。

 初めて自衛隊法の「弾道ミサイル破壊措置命令」をにぎにぎしく発動、迎撃ミサイルを配備したはいいが、マスメディアはバカ騒ぎを演じたあげくその「パトリオット3」の配置場所までがんがん放送。これでは相手にこちらの迎撃能力を教えてやっているようなもの(弾道ミサイルは発射から30分以内に秒速2〜7キロで落ちてくるので迎撃はほぼ不可能)。

 そんな政府や報道の無能ぶりを見て、北朝鮮は「こいつら軍事常識ゼロだな」「危機対応能力ないな」と思ったことだろう。

 北朝鮮と50年以上軍事的に対峙する韓国は「そんなもん無視するに限る」とまったく冷静、核兵器保有国であるアメリカ、中国、ロシアも冷淡だった。

 あにはからんや、その後北朝鮮は「(北朝鮮の核問題を話し合う)6カ国協議から脱退する」「国際原子力機関(IAEA)の核監視要員を追い出す」「核燃料の再処理を再開する」とムチャクチャなことをやり出した。

 ちゃぶ台ひっくり返す大暴れである。要するに、足下を見られてしまったのだ。6カ国のうち重要なプレイヤーである日本が、かくもお粗末な危機対応能力しかないこと(特にたかがミサイル実験で世論がパニックすること)がバレてしまったから、足並みが乱れることを見透かされているのだ。

 というわけで、政治的な目的を達するという点で、今回の「ミサイル実験」という軍事行動では、北朝鮮が一人勝ち。韓国、アメリカ、中国、ロシアは何も損も得もしていないので、勝ち負けなしの引き分け。

 ただ一国、勝手にコケまくってズタボロの惨敗を食らったのがわが日本である。



nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:ニュース

ライブハウスはミュージシャンを育てない。なぜなら! [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]

 ここだけの話ですが、私は「週刊金正日」おっと間違えた「週刊金曜日」様の御給金だけでは生活が成り立たないので「夜のお仕事」をしています。

 いやいや、ホストになれるほどの容貌も愛想もありませんのでミュージシャンをしております。はい某即興演奏バンドで電気低音ギタアを弾いております。都内あっちこっちのいわゆるライブハウスで演奏しております。ご興味おありの方は是非マイスペご覧くださいって誌面私物化してる場合じゃなくて、ええとですね、つまりワタクシ自分も演奏者であるくせに、自分のことは完全にタナに上げてプロの皆様をエラソーに批評してけつかるのでございます。誠にメンボクない。

 で最近よく演奏先のライブハウス経営者orブッキング担当者の方からよく聞くのが若いバンドに関する嘆き。「最近の若いバンドは出演当日まで下見にも来ん。けしからん」「『デモ音源を持って店においで』と誘っても『音源はmyspaceで聞いてください』『連絡はメールでお願いします』とぬかしよる。ふざけとる」てな話です。

 まあおっちゃんがパンクバンドで暴れていた80年代、すでにライブハウスのおっさんどもは「オレの若いころはP、ハウエバー最近の若いモンはQ」とかボヤいておりましたので、原始時代からよくある老人の若者コキオロシ話なのかと思いきや、そうでもない。確かに若いバンドのギグを見ると何だか変だ。なんせ客がいない。いや、決して下手なバンドじゃないんですよ。なのにガラガラの客席に向かって大音量で黙々と演奏、対バンの演奏も聞かず、内輪だけで談笑、せっかく仲間をつくって知らない音楽を吸収する好機だってえのに、下戸の公務員みたいに直帰しちゃう。何じゃこりゃ。

 でも、わたしゃ自分も出演する側なんで、彼らの気持ちも分かる。みなさん、日本のライブハウス独特の制度で「チケットノルマ」って知ってます?東京圏じゃ、平日夜、駆け出しバンド3つまとめてライブでも、入場料(『チャージ』っていいます)2000円前後が相場です。まずこれが高い。駅から遠い、まともなドリンクや食べ物も出ないハコがほとんどですぜ。フツー2000円ありゃ映画でも見ますわな。来てくれる方が奇特よ。

 そして、バンドには「ノルマ」が課せられる。「チケット20枚売れ」=「客を呼ぶ努力はバンドが負担せよ」=「客の多寡にかかわらずバンドあたり4万円は店がいただく」。つまり身もフタもなく言ってしまえば「店がミュージシャンからカネを取る」って仕組みですね。

 チャージバックつうてバンドとカネ分ける例もよくあるけど、アンプとかドラムの『機材使用料』(店に備え付けのアンプやドラムを使うと1000円くらい払わされる)取ったり、ひでえ店になると『JASRAC料』とかぼったくるんだな。

 これを当たり前だと思っちゃいかん!わたしゃニューヨークでも「bar」(日本のライブハウスに相当)で何度か演奏しましたが、お店が出演者に「出演料」を払いこそすれ、出演者からカネを取るなんてありえない。まったく逆です。

 これ、いろんな条件の違いでこうなる。米国のハコは百席はある。面積が日本の倍くらい広い。だから店を区切って「ライブハウス部分」と「レストラン・バー部分」に分けてしまえる。つまり客の飲食で店におカネが入るわけですな。レストラン・バーなら客が回転するので効率もいいが、日本のライブハウスは客が回転しません。

 おまけに東京圏でライブハウスやりゃ、賃貸料だけで月50万〜100万はするし(六本木のはずれで30席くらいの小さなハコが賃料40万円代だった)、照明だ音響だモギリだとレストランにゃいらん人間を雇って人件費は発生するわで、店は出演者に金銭ノルマを課して商売にするわけです。あるライブハウス経営者が「ウチはミュージシャンが客で、客はまあ客だけど何だろうムニャムニャ」とか言ってました、そういえば。ははは。

 つまり実もフタもなく言っちゃえば、日本の「ライブハウス」はミュージシャンからカネを取って経営しているってことさ〜。おっとっと。「ミュージシャンから搾取している」なんて左翼チックなことは言いませんぜ旦那。

 ミュージシャンにすりゃ、演奏すればするほどおカネが出て行くので、どんどんビンボーになるっちゅう仕組みですな。そんな環境でミュージシャンが育つわけないじゃん。あほらし。演奏すればするほど金銭も入るから「プロ」になっていくってもんじゃねーの? 当然、欧米じゃそう。国際水準で見りゃ、日本の「ライブハウス」ってのは奇形なのだよ。

 へ?じゃあミュージシャンが客呼ぶように努力すりゃあいいじゃねえかって?馬鹿かねあんた。ミュージシャンの仕事はいい音楽を作ることであって、客を動員するのは仕事じゃない。そんなことは店の仕事だろうが。サボってモウケようとしなさんな、ライブハウス経営者のおっちゃんどもよ。

考えてもみてよ。どこの世界に「客を呼ぶことはウチの仕事じゃない」なんてぬかすレストランや食堂がありますかね。

 んで、元に戻って。もしやと思って若いミュージシャンに聞いてみると、やっぱりそうだ!彼らにとって「ライブハウス」は「レンタルホール」と同じなんですね!

「おカネはちゃんと払ったでしょ?後はお店なんて関係ないじゃん」。そういう発想なんですな。そりゃレンタルホールの経営者や共演者とオトモダチになろうなんて思わんわ。まして説教される義務なんてないな。あははは。そりゃ正しい。

 はははは。「ライブハウス」の経営者諸兄、ついに正体を見破られましたね。

 みなさんがもしミュージシャンに、不動産賃料を払うリスクを負わせて自分たちはそのリスクから逃げているなら、「おれたちはミュージシャンを育てている」「音楽シーンをつくっている」なんてエラソーなことぬかすのはただちにやめて「ウチはレンタルホールです」って言いなさい。胸を張って言えばいいじゃないですか。ええかっこしなさんな。ミュージシャンからカネ取ってい集客の責任負わせている限り、あなたたちの経営実態は「レンタルホール」よ。実際。

 てなわけで、今夜もジャパン各地でガラガラのライブハウスに轟音が響き、でも誰も損せず、ますます才能は埋もれ、ライブは人々の生活から遠のいていくのでありました。


(追記)2010年5月12日になってこんなメールが来た。

「益々ご隆盛のこととお慶び申し上げます。
突然のメール申し訳ございません。
(会社名)productionの(差出人名)と申します。
この度、弊社では下記の日程で、イベントを開催する事になり、貴殿にはご出演をお願いいたしたくご通知いたしました。
過去に多数のSOLD OUTの実績や、現在メジャーシーンでご活躍のアーティストも多数ご参加頂いているイベントです。
詳しくは、下記日程及び出演規約をご覧の上、いずれか1つの日程のみでもご検討頂ければ幸いです。
つきましては、お気軽にお問い合わせいただきますようお願いいたします。
取り急ぎ、イベントご出演のお願いまで。

6/13渋谷HEAVY SICK(ノルマ10枚)
6/27高円寺Club ROOTS(ノルマ12枚)
7/25渋谷HEAVY SICK(ノルマ14枚)
7/30新宿SUN FACE(ノルマ13枚)
8/22渋谷HEAVY SICK(ノルマ23枚)
8/29高円寺Club ROOTS(ノルマ26枚)

全日程チケット前売:1500円前後」

とこういうイベント会社というかプロモーション会社もメールをばらまいて営業しているわけだ。一枚=1500円と仮定します。最安値の渋谷HEAVY SICKでもノルマ10枚=15,000円、最高値の高円寺Club ROOTSだとノルマ26枚=45,000円を要求している。

この意味するところは「カネを前払いせよ。そうすればライブやらせてやる」ということです。

おわかりと思いますが、このカネをバンドから取ってしまえば、ライブハウスもプロモーション会社もまったく懐が痛みません。損するリスクがまったくないのです。

ぼくがライブハウス経営者なら、家賃や人件費を合計して、一回あたりのノルマ額を計算してバンドに割り振ります。家でテレビでも見て、バイトのブッキングマネージャーに店を任せておけば、毎月定収入が入る。なんてラクな商売でしょう。

バンドは、ライブすればするほど、15,000〜45,000円という高額のライブ出演料を請求され、演奏すればするほどカネがいる。そして集客の責任を負わされる。

どう考えても馬鹿げている。これは水が下から上に流れるような倒錯した世界だ。

ミュージシャンはいい音楽をつくるのが仕事であって、どんな世界でも集客は店(またはプロモーション会社)の経営努力に決まっている。欧米じゃ当たり前のことだ。

欧米では出演者にギャラを店が払う。だから演奏することが「仕事」になり「プロ」になるのだ。


(以上)
nice!(20)  コメント(2)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

朝日をやめて6年が過ぎたのだ [「朝日ともあろうものが。」文庫版(河出書房新社)]



 ぼくが朝日新聞社を去ってから6年が過ぎた。

 この本を出したとき、上司だった人がしみじみこう言った。

「ウガヤ君、キミはよほど朝日を愛してたんだねえ」。
「へ?」
「そうでなかったら、去ってしまう会社のことを心配して本まで書くなんて、ありえないよ」。

 そのときは「いやいやアサヒはともかくですね、私は日本の民主主義の未来が心配で云々」と大層なことをぬかしていたのだが、いまこうして6年前に書いた文章を読み直してみると、確かに、自分がまだ新聞社という組織、あるいは新聞というマスメディアの「蘇生」に希望を捨てていなかったことがわかる。状況は悪化するだろうが、それは「老木が枯れていくような、ゆっくりとした自然死」だと思っていた。まだ間に合うかもしれない。そう思っていた。

 しかしその後、新聞社をとりまく環境は加速度的に悪化してしまった。平成大不況にサブプライムローン危機が重なった、2008年中ごろ以降の破滅的な経済的状況は、新聞の生命維持装置を外してしまうかもしれない。広告出稿量で見る限り、インターネットは雑誌を追い抜いた。近い将来新聞も追い越されるだろう。まるで老木に斧が次々と打ち込まれるような事態が続いている。

 そして朝日新聞社は、私のような現場の記者が在社17年間ずっと苦しみ続けた問題を何ら解決できないまま、呆然と時間を浪費しているように見える。記者クラブは相変わらずフル稼働、もはや発行する必要のない夕刊は現場記者を苦しめ続けている。始まったことといえば、会社の組織の「別会社化」というソフト・レイオフくらいだ。例えば、私が10年を過ごした「AERA」を発行していた朝日新聞社出版局は、切り離されて「朝日新聞社出版」という別会社になった。いま、後輩がかつての私のように新聞からAERA編集部に異動すると、朝日新聞社の社員ではなくなってしまうのだ。

 状況は、この本を書いたときに私が予測したより、はるかに速いスピードで悪化していった。本文中でも書いたが、朝日新聞社は「自分の一部」になってしまっていて、私の目は曇っていたのだろう。判断が甘かった。「終わり」はもう始まってしまったようだ。

 ぼくは今でも朝日新聞を自宅で取っている(バクロしてしまうと、私は正規の定年退職者なので、タダで配達してくれるのです)。キッチンテーブルでコーヒーを飲み、朝刊を広げることから、ぼくの一日は始まる。もちろん、そこに書いている内容は、前日夜のGoogleニュースで読んで、すでに知っていることばかりだ。ぼくにとって、ニュース(最新情報)を知るためのメディアとしての新聞はとっくに死んでいる。それでもなぜ新聞を広げるのかといえば、それは「自分がかつて心血を注いだマスメディアがどういう末路をたどるのか、観察したい」という思いがあるからだ。「最期を看取る」という感覚に近いのかもしれない。

 報道記事の内容云々については、本文でも書いたし、放っておいても誰かあれこれ書くれるだろうから、ここではもういい。ぼくのようなかつて社員だった人間がまず何を見るかというと、広告なのである。私が在職中、広告部門の同僚と世間話をしていると、会社の収入がどうなのか、クリアに見えたからだ。「広告が順調でアップルが全面広告入れてくれた」と聞くと会社は順調なのねと思うし、「ダメだ。(広告が)埋まらない」と絶句していれば「これはヤバい」と思った。

 そういう感覚でいま朝日新聞を開けると、これはもう悲惨の一言に尽きる。「尿モレもニオイも防ぐ軽失禁者用パンツ」だとか「『篤姫』とか韓流ドラマとか落語DVDの通販」(つまりアマゾンが使えない人向け)だとか「夜中に何度も起きる(頻尿)60代のためのサプリメント」だとか「確実な出会い(結婚相談所)」だとか、これは一体何なんだ。私が在社していたころ、こうした「通販」や「健康食品」を広告担当者は「対策業種」という隠語で呼んでいた。「広告ページが埋まらなかったとき、いつでも広告出稿してくれる『対策』として使える業種」という意味だ。かつて「ヤバいな。通販の広告入れちゃったよ」と広告部門の同僚が恥ずかしそうに言っていた業種が、今では毎日紙面を埋めている。

 かつてはタブーに近かったパチンコや消費者金融もどしどし広告を出している。それでも埋まらないのか「自社広告」(朝日新聞社が出す出版物や展覧会、行事、映画など)がやたらに増えた。少なくとも90年代には、「そんな広告は載せない」「載ったら(広告を集められなかったという証拠だから)恥ずかしい」と広告部門の同僚は言っていたし、その言葉通り「尿モレパンツ」「夜のパワー増強」なんて広告が朝日新聞にデカデカと出ているなんて、考えられなかった。

 広告が減っているということは、朝日新聞の収入のおよそ半分を占める「広告収入」が減っているということだ。

 スポンサーはお金を払う。だから新聞広告を見ると「朝日新聞が媒体としてどれくらいの価値を値踏みされているのか」が正直に分かってしまう。サブプライムローン危機以降の景気壊滅で、かつて朝日の広告のお得意様だった「優良企業」は広告費を大幅に削減している。インターネット広告のほうが、費用対効果が高いことも今や周知なので、新聞の「媒体価値」はどん底なのだろう。広告が集まらなくてもページ数は一定なので、白紙で出すわけにもいかない。ページを埋めるためには、広告料のディスカウントもするはずだ。かつては「朝日新聞の全面広告なんて、高くてとても手が出ない」と言っていたはずの企業が紙面を飾っているのだから。こうして、広告料金のディスカウントが始めると、総体としての紙面は途方もなく質が低下していく。優れた記事が載っていても、尿モレパンツの隣では気の毒ではないか。

 だから、正直にいうと、ぼくは毎朝新聞を開けるのがつらい。今日も尿モレパンツか、とため息をつく。自分が卒業した学校が経営難でさびれ切っているような、そんな感じなのだ。
 もうひとつぼくが「新聞の終わり」を感じた大きな出来事は、朝日新聞社に東京国税局が税務調査を入れ、3億9700万円の「所得隠し」を指摘したことだ(09年2月24日付朝日、読売、毎日、日経新聞)。紙面ではあまり大きな扱いではなかったので気付かなかった人も多いのかもしれないが、かつての「報道機関の社員」からすると、これは致命的な一撃なのだ。

「朝日ともあろうものが、所得隠しをするなんて」というカビ臭い倫理道徳の問題ではない。この「所得隠し」は「京都総局が記者のカラ出張で捻出した」「取材費の一部が社員の飲食などに使われていたとして経費とは認められない交際費とされた」「出張費の過大計上」(読売新聞)という「交際費や交通費にまつわる架空経費」を含んでいる。これが致命的なのだ。

 東京国税局が税務調査を入れたということは、当然、領収書からたどって「社員がいつどこで誰と会っていたのか」にも調査を入れているはずだ。でなければ領収書付きの経費精算書を「架空」と断定できる証拠がない。つまり記者がいつどこで誰と会っていたのか、という「取材源の秘匿」に関するもっともセンシティブな情報を国税当局に証拠付きで握られてしまった、ということを意味する(国税は毎日新聞社にも税務調査を入れ、所得隠し4億円を指摘している=08年5月31日付朝日、毎日)。

 実は、こういう「税務調査に備えて経費請求している飲食費の明細(いつどこで誰に会ったのか)をすべて上司に報告せよ」という命令は、ぼくが「AERA」編集部員だったときにも一度あった。が、当然ながら現場記者が猛反対(よほどのことがない限り、取材源は上司にも言わない)したので、編集長の掛け声だけで不発に終わった。

 こうした「社員同士の飲食を経費として請求」「出張費の過大計上」など交際費や交通費経費の不正計上というのは、ぼくが本の中でさんざん書いたとおり、社員の飲み食い、タクシー・ハイヤーの不正利用など、職場では毎日当たり前のように行われていた。ぼくが「これは本当にヤバいんじゃないか」と思った理由は、実は先ほどの編集長の号令で「こんな腐敗した内情が国税に知られたらどうなるんだ?」と危機感を抱いたからでもある。「所得隠し」とはつまり「架空経費は法人税課税対象である所得を少なく見せるための偽装工作」と税務当局に判断されてしまう、ということだ。「これは架空経費です。つまり法人税の課税逃れですよね?」と国税に言われたら、ひとたまりもないではないか。権力をチェックするのが仕事の報道機関としては、一巻の終わりではないか。

 東京国税局は財務省国税庁の支局であり、脱税の捜査で検察庁とも綿密な関係にある。そんな権力側に「架空経費による所得隠し」という弱みを握られ、あろうことか取材源まで知られてしまった。そんな朝日新聞が財務省や検察を遠慮なく批判することは、今後はもう無理だろう。例え朝日新聞社が「いやいや、遠慮なく批判します」と宣言したところで、財務省・国税庁や検察が「じゃ、もっと本腰を入れて税務調査しますよ」と恫喝したら、どうするのか。似たような架空経費の話など、まだまだうじゃうじゃ出てくるというのがぼくの経験からの推測だ。恫喝するネタには困らないだろう。

 情けない話だ。朝日内部の腐敗した集団が経費を使って飲み食いやらカラ出張やらを繰り返しているうちに、とうとう権力側につけ込まれる弱みをつくってしまった。内部腐敗のせいで、報道機関が権力と対峙する能力を失ってしまった。内部自壊を起こし始めたのである。清廉に職務に打ち込んでいる同僚が気の毒である。こういう「報道機関は、権力と対峙するときに備えて、自分の周辺を身ぎれいにしておく」という鉄則を、上層部や管理職は、社員は誰も声をあげなかったのだろうか。

 本を読み返して、ひとつ思い出したことがある。40歳で退社するとき、はっきりこう思ったのだ。「この会社に60歳までいても、最後は同僚のクビを切っているか、同僚にクビを切られているか、どちらかだろうな」と。あのとき、ぼくは「20年後には」そうなるだろうと思っていた。でも、それも修正しなくてはならないかもしれない。そうなってほしくはないのだが。

(注:単行本を文庫版にするにあたっての全面的な改稿はしなかった。六年がたったいま読むと、考えが変わっている部分はあるし、表現、文体や論理展開が稚拙に思える部分もある。が、サラリーマンを辞めた直後のぼくの姿を記録しておくために、敢えてそのままにしておいた)。

(「朝日ともあろうものが。」文庫版 河出書房新社 あとがき)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)

  • 作者: 烏賀陽 弘道
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2009/06/04
  • メディア: 文庫



タグ:メディア

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。