サブプライムローン危機でビジネススクールメルトダウン ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]
私がコロンビア大学の修士課程に留学した1992年、同じキャンパスのbusiness schoolには日本人留学生がうじゃうじゃいた。全学生の1割はいたと思う。
その大半は企業が派遣した「社内留学生」だった。勤務時と同じ給料をもらい、当時年2万ドルの学費も会社持ち。マンハッタンの最高級住宅街アッパーイーストまたはウエストサイドから通学する姿を見て、一日5ドルの赤貧生活をしていた私(自費留学組)はため息をついたものだ。
私が通った学部はビジネススクールと共通の科目も多かったので「Bスクール」(実際そう呼ぶ)の学生と友だちにもなった。それで分かったのは、「××証券」「●●生命」「△△銀行」といった名だたる日本の金融会社がBスクールに多額の寄付金を積み、毎年社内留学生を送り込む「指定席」を確保しているということだった。
一体どうして、日本企業はアメリカのビジネススクールにそんなに熱心に社員を送り込んでいたのだろうか。
ビジネススクールのような「即戦力となる専門職を養成するアメリカの大学院修士課程(master course)」を「professional school」と呼ぶ。
私が卒業した「School of International and Public Affairs」は外交官、国際機関やNGOの職員を養成する学校だった。その他、Law School(弁護士や裁判官、検事など法曹職)やJournalism School(ジャーナリスト)などのプロフェッショナル・スクールもある。
Business Schoolは金融やマーケティング、PRのプロを養成する学校だ。ここでの学位がMBA(Master of Business Administration)と呼ばれるのは言うまでもない。
アメリカのプロフェッショナル・スクールのカリキュラムは、日本なら企業が「社内教育」として社員にだけ教えている実務を、授業料さえ払えば誰でも習得できるように「商品化」して開放したものだ。
「カネさえ払えれば、名門企業の社員でなくても、誰でもエリート実務教育が受けられる」という点では、ある意味民主主義的で実力主義的である。だから、終身雇用制の下で生きる日本の社内留学生には、本来あまり利得がないはずなのだ。
私が留学した1992年ごろの日本企業には、まだバブル景気崩壊前の社員教育が残っていた。日本国内から「カネ余り」で流出した資金が世界の資産(金融資産や不動産)を買いあさっていたのが、1980年代のバブル景気である。多くのBスクール社内留学生たちは、卒業後は海外の市場で資産運用(当時は『財テク』などと呼ばれた)をする役目が待っていた。
実はそのころ、国際経済にはもうひとつ重要な動きが始まっていた。
1986年、ロンドン証券取引所で「金融ビッグバン」と呼ばれる大幅な規制緩和が始まった。証券会社と銀行は相互に業務乗り入れができるようになった。その結果、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、メリルリンチ(three kingsと呼ばれる)などのアメリカ系巨大投資銀行がロンドン市場を席巻、「ウィンブルドン現象」(開催地はイギリスだが有力選手にイギリス人はいない)というジョークが生まれる状態になった。
少し目の利く日本企業は、Bスクールで「金融自由化」向けの人材育成をしようとしていた。
この「金融ビッグバン」という規制緩和が日本でも実施されたのは1996年から2001年にかけてである。今では当たり前になったインターネット証券会社や個人向け外貨預金が認められたのは、この「金融ビッグバン」のおかげなのだ。
そしてロンドンと同じように、東京にも先ほどのスリー・キングスが乗り込んできた。ここにインターネットという情報通信革命が加わって、東京、ロンドン、ニューヨークはほとんど「ひとつの市場」として機能するようになっていく。これが「金融のグローバル化」と呼ばれる現象の基本である。
こうした「市場から政府の規制を排除し、自由市場を最大限尊重する」という経済政策の流れを「新自由主義経済」という。
1980年代、米国ではレーガン政権、イギリスではサッチャー政権下に始まった。それ以来、共和・民主党、保守・労働党と政権交代はあっても、経済政策においては、どの政党も新自由主義という点で大差はない。
遅れてこの潮流に乗った日本も、もちろんそうだ。「小泉改革」を思い出してほしい。郵政事業の民営化や派遣労働の規制緩和は「新自由主義経済政策」の最たるものだ。
つまり、過去20年余りMBAがもてはやされたのは、米国のビジネススクールが新自由主義経済下のビジネススキルをもっとも手っ取り早く叩き込んでくれる場所だからなのだ。
例えば、私の周囲には、デリバティブ(金融派生商品)を専門に学んできたMBAホルダーが多い。
だから、2007年から08年にかけて爆発したサブプライムローン危機で「新自由主義経済」がこっぱみじんに吹き飛んでしまったいま、ビジネススクールが何を教えているのか、私は是非見てみたいと思っている。
その大半は企業が派遣した「社内留学生」だった。勤務時と同じ給料をもらい、当時年2万ドルの学費も会社持ち。マンハッタンの最高級住宅街アッパーイーストまたはウエストサイドから通学する姿を見て、一日5ドルの赤貧生活をしていた私(自費留学組)はため息をついたものだ。
私が通った学部はビジネススクールと共通の科目も多かったので「Bスクール」(実際そう呼ぶ)の学生と友だちにもなった。それで分かったのは、「××証券」「●●生命」「△△銀行」といった名だたる日本の金融会社がBスクールに多額の寄付金を積み、毎年社内留学生を送り込む「指定席」を確保しているということだった。
一体どうして、日本企業はアメリカのビジネススクールにそんなに熱心に社員を送り込んでいたのだろうか。
ビジネススクールのような「即戦力となる専門職を養成するアメリカの大学院修士課程(master course)」を「professional school」と呼ぶ。
私が卒業した「School of International and Public Affairs」は外交官、国際機関やNGOの職員を養成する学校だった。その他、Law School(弁護士や裁判官、検事など法曹職)やJournalism School(ジャーナリスト)などのプロフェッショナル・スクールもある。
Business Schoolは金融やマーケティング、PRのプロを養成する学校だ。ここでの学位がMBA(Master of Business Administration)と呼ばれるのは言うまでもない。
アメリカのプロフェッショナル・スクールのカリキュラムは、日本なら企業が「社内教育」として社員にだけ教えている実務を、授業料さえ払えば誰でも習得できるように「商品化」して開放したものだ。
「カネさえ払えれば、名門企業の社員でなくても、誰でもエリート実務教育が受けられる」という点では、ある意味民主主義的で実力主義的である。だから、終身雇用制の下で生きる日本の社内留学生には、本来あまり利得がないはずなのだ。
私が留学した1992年ごろの日本企業には、まだバブル景気崩壊前の社員教育が残っていた。日本国内から「カネ余り」で流出した資金が世界の資産(金融資産や不動産)を買いあさっていたのが、1980年代のバブル景気である。多くのBスクール社内留学生たちは、卒業後は海外の市場で資産運用(当時は『財テク』などと呼ばれた)をする役目が待っていた。
実はそのころ、国際経済にはもうひとつ重要な動きが始まっていた。
1986年、ロンドン証券取引所で「金融ビッグバン」と呼ばれる大幅な規制緩和が始まった。証券会社と銀行は相互に業務乗り入れができるようになった。その結果、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、メリルリンチ(three kingsと呼ばれる)などのアメリカ系巨大投資銀行がロンドン市場を席巻、「ウィンブルドン現象」(開催地はイギリスだが有力選手にイギリス人はいない)というジョークが生まれる状態になった。
少し目の利く日本企業は、Bスクールで「金融自由化」向けの人材育成をしようとしていた。
この「金融ビッグバン」という規制緩和が日本でも実施されたのは1996年から2001年にかけてである。今では当たり前になったインターネット証券会社や個人向け外貨預金が認められたのは、この「金融ビッグバン」のおかげなのだ。
そしてロンドンと同じように、東京にも先ほどのスリー・キングスが乗り込んできた。ここにインターネットという情報通信革命が加わって、東京、ロンドン、ニューヨークはほとんど「ひとつの市場」として機能するようになっていく。これが「金融のグローバル化」と呼ばれる現象の基本である。
こうした「市場から政府の規制を排除し、自由市場を最大限尊重する」という経済政策の流れを「新自由主義経済」という。
1980年代、米国ではレーガン政権、イギリスではサッチャー政権下に始まった。それ以来、共和・民主党、保守・労働党と政権交代はあっても、経済政策においては、どの政党も新自由主義という点で大差はない。
遅れてこの潮流に乗った日本も、もちろんそうだ。「小泉改革」を思い出してほしい。郵政事業の民営化や派遣労働の規制緩和は「新自由主義経済政策」の最たるものだ。
つまり、過去20年余りMBAがもてはやされたのは、米国のビジネススクールが新自由主義経済下のビジネススキルをもっとも手っ取り早く叩き込んでくれる場所だからなのだ。
例えば、私の周囲には、デリバティブ(金融派生商品)を専門に学んできたMBAホルダーが多い。
だから、2007年から08年にかけて爆発したサブプライムローン危機で「新自由主義経済」がこっぱみじんに吹き飛んでしまったいま、ビジネススクールが何を教えているのか、私は是非見てみたいと思っている。
ネットがあるから音楽評論家なんかもういらない [週刊金曜日連載ギャグコラム「ずぼらのブンカ手帳」]
インターネットが普及して不要になった商売の筆頭といえば、ジャパンの音楽ヒョーロンカでしょうなあ(さあ、ここツッコミどころですよ)。
最近のヤングは知らんでしょうが、おっちゃんが若かった80年代は「ミュージック・マガジン」「レコード・コレクターズ」てなマニアックな雑誌があって(えっ!まだあるの!?ごめんごめん)、ケツの青いうがや青年は「ナイジェリアの政治状況とフェラ・クティ」とか「初期ヴェルベット・アンダーグラウンドにおけるフランス文学の影響に関する一考察」とか、学術論文みてーなヒョーロンカ先生の玉稿を貪り読んでは感涙、レコオドを買い求めてはまだ見ぬナイジェリアやニューヨークに想いを馳せたものです。牧歌的な時代でしたなあご同輩。
しかし今じゃYouTubeを「フェラ・クティ」で検索すりゃ彼の演奏映像が拝めちゃう。80年代なら失禁するぞ。
ヴェルベット・アンダーグラウンドなんてGoogleで355万件もヒットするんですぜ。
カネ払ろて評論家先生なんぞに教えてもらわんでも、ずっと詳しい情報がネットでタダで読める。はははは。ホンマええ時代やなあ。
で、需要のなくなった先生方どないすんのと思たら、やれアフガニスタン音楽がどうしたの、アメリカの田舎音楽がどうしたのと「世界僻地音楽巡り」というか、まあ有り体にいえばそれぞれタコツボに篭城して本土決戦を叫んでおられる。
そんなもん、とっくにiTuneのインターネットラジオで聞いてますて。ええかげん降伏しなはれ。
じゃ評論家に残された最後の仕事は何だといえば「優れた才能を発見して世に紹介する」ことしかないっしょ。
で私はタコツボ戦には参加せず「現場に行く」って原点に戻ることにした。トーキョーやNYのミュージシャン仲間が「あいつはすごい」とほめる才能を探す作業ね。
で、ずっと前からみんな興奮気味にすごいすごい言うってたのが「ドラびでお」。何じゃその藤子不二雄作国民的人気ネコ型ロボットのパチモンみたいなのは。いかにも胡乱。いかにもうさんくさい。
この「ドラびでお」、要は一楽儀光って樵みたいなおっさんドラマー(山口在住の50歳らしい)一人のユニットなんだが、なんせドラムキットの太鼓にコントローラーを付け、どかすかドラムソロを叩きながらスクリーンに大写しになった画像を再生、逆再生、倍速、1/2倍速とぐちゃぐちゃに上映するっちゅうシロモノ。
マツケンサンバ、天皇皇后両陛下、赤穂浪士、北朝鮮、皇太子妃ご夫妻、シャイニング、ブッシュ、とワケのわからん画像がまったく無秩序かつ暴力的かつ脱法的かつ爆裂的に襲ってくる。ちっとやそっとのえぐいパフォーマンスじゃ驚かなくなったワタクシも、これにゃションベンちびった。
任期中に政権を放り投げた国辱国賊・安倍晋三の「美しい国日本」演説なんざ、おっさんのドラムソロに合わせて「ううつくしいううううつくしいしいううううううううううつくしいしいしいしいううううううううううううううつくしいうううううううつつつつつつううくしいいいいいいくにににいににににににっぽんぽんポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポンポン」と、完全にあほ丸出し。いやあ安倍晋三って実はギャグだったんですね。
と、横ツラ張り倒すようなパンチにワタクシは卒倒しましたあるよ。
で、当然こんな著作権侵害・名誉毀損の塊みたいなアートは、ソフトファシズム国家・現代ニッポンでは犯罪者扱い、YouTubeに動画がアップされてもすぐ削除されてまう。
ひょー。だめじゃん。
いやいや、これでいいのだ。
インターネットに頼らずライブを見なさい、ライブを。
そういう芸術家と観衆が時間と空間を共有すること、そして再現不可能な「一回性」こそが、げげげげっげげっげげげげっげげいじゅじゅじゅじゅじゅじゅつつつつつつつほほほほほほ本来のすすすすすうすすすすすすがたというもんだだだだっだだだだだだだだだだだだだだだだだあああああ。