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ネット監視社会 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

待望のiPadが発売になった当日、東京・銀座のアップルストアに飛んで行った。

だが甘かった。まったく完全に売り切れ。

予約してもいつ入荷するか分からないという。

紺のシャツの店員に食い下がる。

「きょう予約したら、いつごろ入荷しますか」。

が、お兄さんはまったく取りつくシマもない。

「確かなことはいえません」
「1週間くらいですか」
「言えません」
「1ヶ月くらいですか」
「それもわかりません」。

これでは何が何だかわからない。「いえ、正確な日付でなくていいから、どれくらい待つのか、週単位なのか月単位なのか知りたいだけなんですが」と言うと、彼はふうとため息をついて「何もわかりません」と突き放した。

イライラしてふと振り向くと、後ろの壁際にiPadを受け取りに来た客が並んで待っている。手にiPhoneを握り、一心不乱に入力している画面がちらりと見えた。

Twitterだった。みんなiPad発売初日の様子を実況中継しているのだ。

なるほど。アップルストアの店員が東京地検みたいに秘密主義的な理由が分かった。

何か不用意なことを言うと、すぐにtwitterで(場合によっては写真や動画付きで)流れてしまうのだ。

それが本社の発表の公式見解と食い違えば、彼はたちまち呼び出されて叱責されるのだろう。

「銀座のアップルストアでは××だと言っていた」とクレームが入ったりするかもしれない。

これは要するに群衆の中にテレビの取材クルーが常時覆面取材しているようなものだ。

私たちは知らないうちに、携帯端末機(それも高解像度の写真・ビデオカメラ付き!)とインターネットという速報マスメディアで武装した「マスコミ記者」たちに包囲されてしまったのだ。

特にブログやtwitterが普及してから、この傾向は加速しているように感じる。

もちろん、いいこともある。

いや、いいことの方が多い。

1999年「東芝」のカスタマーサポート担当者の暴言がネットで公開されて大問題になってから、あきらかに企業の顧客への態度はよくなった。

〇八年には、渋谷の街頭で、何も違法行為をしていない麻生太郎邸の見学者を警察が突然逮捕する一部始終が録画され、YouTubeで配信された。

秘密のベールに包まれてきた公安警察のムチャクチャな捜査手法が天下に知られてしまった。

いつ、どこにマスメディア発信者がいるかわからない、という状況では、警察(=権力はすべて)も慎重にならざるをえない。

白バイや職務質問のオマワリさんがずいぶん礼儀正しくなったように思えるのは気のせいではないだろう。

しかし、と敢えて言う。

これは裏返せば「監視社会」ではないのか。

私たちはいつの間にか、いつどこで自分の姿が記録され、大多数に公開されるか予測ができない世界に生きている。

そうなる可能性を念頭に置いて行動せざるをえない。

この世界を「自由なバラ色の世界」と呼べるのだろうか。

「マスメディアへの発信」という「権力」を手にした人々がどういう行動に出るのか。

接客態度だかお勘定だかが気に入らないとか言って、客が店員の顔を携帯カメラで撮影し、YouTubeにアップした画像をいくつも目撃したことがある。

「権力」は弱い者に牙をむくのだ。

もうひとつ暗いシナリオがある。

いま猛烈な勢いで増えているのはブログなどネットでの情報発信への民事提訴、刑事告発である。悪徳商法を告発するブログを運営していたら、民事訴訟を起こされたブロガーがいる。

「あるラーメンチェーン店の経営者と人種差別的なカルトはほぼ重なっている」とブログに書いた「平和神軍観察会」ブログは、刑事と民事両方で訴えられ、今年二月に最高裁で罰金15万円の有罪判決が確定した。

新聞も一斉に「中傷書き込み、有罪」とネット発信者を非難する論陣を張った。

新聞や裁判官といった保守層は、ネットの言論には敵対的であり、冷酷である。

「裁判沙汰」になったら、こんな世界が待っている(私はこうした発信は憲法が保障する言論の自由の範囲内だと考えている)。

そのリスクを理解したうえでネット発信している人はまだ少数だろう。

だが、いま私たちが「加害者」として裁判に巻き込まれる可能性がもっとも高い世界は交通事故とネット発信だ。

私は、いまインターネットが日本の社会に起こしている変革を心から喜んでいる一人だ。

だが、原子力エネルギーが核兵器を生み、ロケット技術がミサイルを生んだように、あらゆる技術革新には正負両方の顔がある。

インターネットも、例外ではない。その単純な事実を忘れてはならない。

現実の行動規範がネット化する ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

この夏新発売のケータイのカタログを見ていたらauは全機種が防水だった。

若い世代はお風呂に入っていてもずっとケータイでネットしているからだそうだ。

学校やサークルの友達でも、リアルに対面で話している時のコミュニケーション量より、メールやチャット、SNSで交流しているときのコミュニケーション量の方が多い。

もう驚きもしない話だ。

私は10年以上、マスコミ志望の大学生に作文や面接のコーチングをしている。

大人数ではやりたくないので、紹介で知った3、4人に自宅まで来てもらい、居間で文章の添削をしたりする。

「作文」をはさんで、間近に若者と話し合って気付いたのは、彼らがどんどん「感情表出」に抑圧的になってきていることだ。

「何にでも挑戦していきたい」「私は明るく前向きだと言われます」的な、無難な「決意表明」はスラスラ書くのだが、それでは個性も独創性もないから、入社試験では生き残れない。

そこで「自分の一生を変えた体験を書いてごらん」と課題を出すと、例外なく戸惑う。

ずっとクールな表情で「サークル活動で学んだこと」を書いていたギャルが「中学生のときに先輩に仲間はずれにされて死のうと思った」と書いた。

読んでもらったら、眼前でオイオイ泣き始めた。

そういう体験こそ個性だと私は思ったが、本人は「感情的になってすみません」と恐縮し切っている。

いろいろ聞くうちに気がついた。

家族や友人といった対人関係の中で「感情表出」をほとんど許されてこなかったのだ。

悲しいからワンワン泣く。
悔しいから、腹が立つから怒る。
楽しいからアハハと笑う。

感情表出は人間の自然な行動だ。

感情の抑圧が心身の健康を害しさえする事実は、臨床心理学が証明している。

古来、日本の社会文化はそんな感情表出を「人情」として社会的に受け入れていた。

「義理」(理性的な社会規範)と対等の行動原理として「感情」を認めてきたのである。

他者と怒りや悲しみ、悔しさを共有することは、それだけで他者を「特別な存在」として認知する行為でもある。

もともと日本の教育文化(学校、家庭、社会すべて含め)は感情に抑圧的(勉強中に笑うと不真面目と見なされるのはその例)なので、安直にその原因が何だとは言えない。

その前提で敢えて言うのだが、若い世代の対人関係の構築の中でインターネットの比重が増えるに従って、ますますこの傾向は加速していると思う。

当たり前のことだが、メールやブログ、SNS上のやりとりで感情を正確に伝えることは非常に難しい(だから顔文字や絵文字が発明された)。

よってネットでのコミュニケーションで感情を表現することはリスクが大きい。

正確に理解され、伝達されることは不可能に近い。

誤解と悪意、ミュニケーション不全が重なって爆発した最悪の結果がブログの「炎上」であり、ネットいじめ、バッシングである。

こういう現象を見ている若い世代が、ネットでの感情表出に抑制的にならない方が不思議だ。

ここで問題なのは、こうしたネット上での行動規範が、リアルな大人関係にもそのまま無意識に持ち込まれることだ。

冒頭で述べたように、リアルな友達であっても、交換される情報量の大半がネット経由だと、その人間関係はネット上での規範をそのまま反映することが多い。

分かりやすくいえば「リアルの世界で対面していても、怒り、悲しみ、悔しさ、喜びなど感情を表出し、共有することを知らず知らずのうちに遠慮してしまう」という現象だ。

これは「現実の行動でもインターネット空間の規範に従ってしまう」=つまり「現実世界のインターネット化」だ。

過去にこの欄で「テレビアバター」の話を書いたとき、現実の行動がテレビという仮想現実の行動規範を模倣し始める「現実のメディア空間化」が起きているということを指摘した。

これにインターネットというもうひとつのマスメディアを加えてみるといい。

現実は「テレビ空間化」し「インターネット空間化」している。

つまりダブルで「メディア空間化」している。メディアと現実の関係はますますねじれ、逆転しつつあるのだ。

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