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上関原発 反対運動へ 中国電力が提訴した SLAPP訴訟 [一般記事]

上関原発 反対運動へ 中国電力が提訴した SLAPP訴訟

 私は原発否定論者ではない。だが「上関原発」の予定地の浜(山口県熊毛郡上関町)に立った時には「何で選りによってこんな場所に」とため息が出た。

 風と波が刻んだ渚は、山水画のように美しい。透明な海水の中を魚の群れがきらきらしているのが見える。コンビナートで埋め尽くされていると思っていた瀬戸内海に、こんなに美しい浜が残っていたとは知らなかった。

 山陽本線の「柳井港」から七十人乗りの定期船に一時間半乗って、原発予定地の対岸にある離島「祝島」に渡った。人口約五百人。都心の中型マンション一軒分くらいの人数だ。島に信号機はない。コンビニもない。自動販売機は二台。しかも一台は壊れている。午後五時着の船から人が降り、港から消えると、ぱたりと静かになった。

「げんぱつ、はんたーい」「はんたあーい」

 月曜の夕方だった。港のすぐそばの街路を、お年寄り、こども、イヌまでがはちまきをして「原発反対デモ」で練り歩いていた。いつからやってるんですか、と尋ねると、おばあさんが「雨の日を除いて二十八年間、毎週。てことは千回以上かね?」と涼しい顔で言った。

 本土から瀬戸内海にゾウの鼻のように細長く伸びた上関町で、原発予定地はゾウの鼻の穴の部分に位置する。そして祝島は「鼻先」にある。町内で原発を正面に見ながら暮らすことになるのは、祝島だけだ。町内が賛成派:反対派=6:4から7:3くらいで激しく競り合っても、祝島だけが反対でほぼ団結しているのは、こうした理由もある。受け取れば組合員一人あたり千三百万円弱が懐に入るのに、祝島の漁協は補償金約十億円を拒否している。

 こうして30年近く続いている「上関原発」反対運動に、事業主である中国電力が約四七九二万円の損害賠償訴訟を起こしたのは、昨年十二月のことだ。「反対運動によって工事が遅れ、損害が発生した」というのが中電側の主張する訴えの構図だ。被告になっているのは約八十人のうち四人。島民運動のリーダー格二人と、島で暮らしながら運動に参加している山口県と広島県のシーカヤッカー二人である。続けて中電側は、他の反対派住民も含めて海岸や周辺の海への立ち入りを禁止する仮処分申請を次々に起こした。 

 反対運動を警察や海上保安庁が逮捕したことはない。反対派は刑事告訴されたこともない。もし本当に「過激な反対運動」があったのなら刑事事件になるのが自然だ。

 民事提訴なら、刑事とちがっていつでも中電側が好きな内容で起こせる。刑事のような警察や検察が入らないので、内容にチェックもない。裁判所は民事訴訟が提訴されれば、書類の不備でもない限りそのまま審理を始める。それだけで、裁判コストは被告の上にのしかかる。

 祝島と本土の間は、一日に朝と夕方の二便しか定期船がない。裁判の法廷だけでなく、弁護士との打ち合わせですら、島民が通うのは大変な手間だ。

 私が島を訪れた八月下旬、ちょうど中国電力が起こした三つ目の仮処分申請を通知する書類が住民たちに届いた直後だった。被告になった住民たちは民家の一室に集まって夜六時から十時すぎまで対応を相談していた。

「私は長年やっているし、こういう事態を想定していたから、まだいいんです。でも応援に来てくれている人も含め、全体が弱気になって士気が下がるのが一番困る。運動の先頭に立っていてくれた人だけを狙い撃ちしていますから」

 被告の一人、漁業を営む橋本久男さん(58)はそう話す。

 訴えられた住民側から出る言葉は、意気軒昂に聞こえる。が、こうして対応に時間と労力を割かなくてはならないこと自体が、SLAPPの狙いである「裁判コストによる加罰」なのだ。当事者もなかなか気付かない。

 先号の「米軍演習場をめぐるSLAPP」では、提訴によって「在日米軍基地の是非」という「社会全体が議論すべき公的な問題」が「工事妨害はあったのか」という「裁判上の論点」に矮小化される「論点のすり替え」が起きていることを指摘した。上関原発訴訟でも同じ現象が起きている。

 中電側の訴状には「〇九年11月×日にP(被告)は作業クレーン船の作業をQして妨害した」といった「工事を妨害した事実」が書き連ねられている。が、例え中電側の訴えが100%正しかったとしても「上関町に原発を建設すべきなのか」「日本のエネルギー政策にこれ以上原発は必要なのか」といった公的議論にはまったく何の関係もない。「裁判所内の論争」にすり替えられてしまうのだ。しかもこれらの提訴事実はすべて原告が一方的に選んだ内容であり、意図的に原告に有利に組み立てられている。

 ところが、この裁判に負けると、被告である住民側が提起している「上関原発は必要なのか」という公的意見の正当性まで否定されたかのような印象を世論に与えてしまう。負けなくても、提訴されただけで「提訴された反対運動もよほどひどいことをしたのだろう」という偏見にさらされる。こうした「反対者•批判者の正当性を奪う」効果もSLAPP訴訟にはある。

 そのため、提訴された側は原告が選んだ提訴内容に反論、論破しなくてはならない。ビデオや写真を証拠提出して「工事妨害はなかった」「あっても適法である」と証明しなくてはならない。こうして被告側は疲弊し、消耗していく。

 こうした現象を「SLAPP」という法理を提唱したジョージ•プリング教授とペネロピ•キャナン教授は「事実争いの底なし沼」(fact quagmire)と呼んでいる。ここに反対者を引きずり込んでしまうこともSLAPPの構造なのだ。

「スクールバスのブレーキが故障している、子どもの送迎には危険だ、と親たちが教育委員会に改善を申し入れた。その親たちにバス会社が名誉毀損の裁判を起こした。そんなSLAPPが実際にありました」

 プリング教授は指摘する。

「しかし、裁判所にバスは直せません。バスの安全を確保することこそが公的な論点なのに、それは改善されないまま放置される。バスのブレーキの故障という本当の問題が偽装される。親たちの苦情の文言が名誉毀損かという馬鹿げた裁判上の論点にすり替えられ、被告はその反論を必死でしなくてはならない」

 SLAPPにはまだ悪影響がある。(1)時間、金銭など資源の無駄遣い。被告にとっても裁判所にとってもそれは同じ。(2)批判や反対を沈黙させ、民主主義にダメージを与える。(3)裁判制度というパブリック•システムへの信頼を損なう。プリング教授の指摘は日本で現実になっているように思える。

 そして、もっとも深刻なのは、裁判所への信頼が破壊されていることだ。上関原発訴訟でも沖縄の高江米軍演習場訴訟でも、意見表明の抑圧に民事裁判が悪用されているのに、裁判所は考慮しない。法廷外の裁判コストも考慮しない。最悪の場合は被告を敗訴させる。これでは「裁判所は憲法23条が保障する言論の自由を守らないどころか、破壊している」と認識される。裁判所が「民主主義の砦」どころか「敵対派」として機能してしまう。

「SLAPPを防ぐのは、被害者を守るためではない。民主主義を守るためなのです」(プリング教授)
 SLAPP訴訟の「本当の敗者」は「裁判制度」と「民主主義」なのだ。

(週刊金曜日)
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