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何がマイケル・ジャクソンを殺したのか?〜オバマとマイケル・ジャクソン/二人のアフリカ系の人生 [「正論」(産経新聞社)]


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 2009年6月25日、マイケル・ジャクソンが死んだ。

 51歳の誕生日まであと2ヶ月。ロサンゼルス西部の高級住宅街ベル・エアの自宅で、正午過ぎ、ダンスのリハーサル中に倒れ、搬送先の病院で約2時間後に死亡が宣告された。倒れた時、そばにいた救急医が手当てをしたが、すでに心拍停止状態だったらしい。

 彼の歌手・ダンサーとしての巨大な業績はもう繰り返す必要もないだろう。

 楽曲やミュージックビデオ、コンサートで生涯に得た収入は五十億ドルと推定されている。ラオスやモンゴルの年間GDPに匹敵する金額だ。

 世界で七億五千万枚のレコードを売り、グラミー賞を十三回受賞し、全米トップシングルを十三曲生み、レーガンと父ブッシュと二人の大統領にホワイトハウスに招待された。いずれも前人未到の記録だ。今後も破られることはないだろう。

「ムーンウオーク」など、まるで全身が精密機械でできたかのようなダンスは、それまでのステージパフォーマンスの常識を塗り替えた。そのダンスを生かした完璧なステージングは、世界中に亜種を生んだ。日本でいえば、浜崎あゆみもEXILEもマイケル・ジャクソンなしにはありえない。ポピュラー文化に残した足跡の大きさでは、エルビス・プレスリーやビートルズと並ぶ存在といえるだろう。

 とはいえ、ここ数年の音楽活動は低調だった。最後にコンサートツアーをしたのは一九九七年で、最後のアルバムを出したのは二〇〇一年。アメリカでは完全に「過去の人」扱いされていた。

 死去報道を見て「マイケルって五十歳だったの?」と驚いた人も多いのではないだろうか。「スリラー」や「ビート・イット」の華麗なダンスと歌で世界を魅了したのは一九八二年。もう二十七年も昔なのだ。

 十二年という長いブランクのあと、七月十三日から来年三月まで五十回、カムバックをかけたコンサートをロンドンで開く予定だった。ワールドツアーの計画も予定されていた。

 コンサートのタイトルは”this is it.”「やった!」という意味と「これでおしまい」という二つの意味がある。引退を予定していたのかもしれない。ただでさえ激しいダンスを伴うステージである。年齢的にも限界だったのだろう。それに近年は健康状態の悪化が報じられていた。その練習中に倒れて、現場で心停止してそのまま帰らぬ人になってしまった。病院に運び込まれたとき、体は痩せ衰え、カツラの下にはうぶ毛ほどの毛髪しかなかったという。

 ところで、七月七日、マイケル・ジャクソンの追悼式でアメリカ中のメディアが塗りつぶされていたとき、もう一人の「世界一有名なアメリカ人」がアメリカの五大ネットワークテレビの個別インタビューを受けていた。イタリアでの先進国首脳会議に先立ってモスクワを訪れていたバラク・オバマ米国大統領である。

 インタビューは各局個別だったのに、どの局も判で押したように同じ質問をした。それは米ロ間の核弾頭削減の合意でもサブプライムローン危機克服のための国際強調でもなかった。「マイケル・ジャクソンの死をどう思いますか?」だった。大統領自身が「きょうテレビで放送してもらうためにはどうしてもマイケルの話をしなくちゃならんようだね」とジョークを放ったほどである(ABCテレビ)。

 AP通信からもマイケル・ジャクソンについての質問が出たとき、オバマ大統領は「またか」と言わんばかりに手を振りながらこう言った。

「私も彼の音楽と共に育ちました。私のiPodには今でも彼の曲が何曲か入っていますよ。彼のパフォーマーとしての才能はいつも、悲劇的な個人生活と対になって語られていますよね。でも、これから人々の記憶に残るのはその才能を通じた素晴らしい作品です。これは大変嬉しいことです」

 もちろん、プレスが揃ってオバマにジャクソンの死を質問したのは、オバマがジャクソンと同じアフリカ系で、他にも共通点が多いからである。が、期待に反してオバマの言葉には、ジャクソンへの感情移入は微塵もなかった(大統領という公職からすれば当然のことなのだが)。

 確かに、マイケル・ジャクソンとバラク・オバマには共通点がいくつかある。

 まずジャクソンは一九五八年生まれ。オバマは六一年生まれで同世代である。そして、地元が同じ中西部のミシガン湖畔。ジャクソン一家(マイケルを含む『ジャクソン・ファイブ』、マイケルにとっては姉のラトーヤ、妹ジャネットは全員歌手という芸能一家。マイケルは九人姉弟の七番目)が生まれ育ったインディアナ州ゲイリーという街は、オバマの地盤・シカゴから車で一時間も離れていない

(オバマはハワイ生まれだが、シカゴを地盤に上院議員に当選。大統領選挙の勝利宣言をしたのもシカゴだった)。

 ところが、事実をよく検証すると、オバマとジャクソンは同じアフリカ系でありながら、正反対の極にいたことがわかる。一九八三年、オバマがニューヨークのコロンビア大学を卒業してシカゴに来たのは、製鉄業が衰退して失業者が激増、荒廃したコミュニティを再建する社会福祉活動をするためだった。米国中西部、五大湖周辺はミシガン州デトロイトの「ビッグ・スリー」で知られるように、機械・製鉄・自動車産業の中心地なのだ。

 ジャクソン兄弟の父、ジョセフは、まさにそうした製鉄工場で働く工場労働者の一人だった。そもそもジャクソン一家の故郷ゲイリーという街が「USスティール」が従業員のための住宅街として開発した企業城下町であり、人口約十二万人うち81%がアフリカ系だった。時間と場所がほんの少しずれていたら、マイケル・ジャクソンの家を運動家オバマが署名集めに訪問していたかもしれない

(もちろん、オバマがシカゴに移ったころにはジャクソン一家はすでに歌の世界でスーパースターだったから、ジャクソン一家とオバマに実際の接点はない)

 オバマは、コロンビア大とハーバード大ロースクールという東部アイビーリーグの名門(白人比率が非常に高い)で学んだ典型的な「ブラック・ミドルクラス」(七〇〜八〇年代に出現した高学歴のアフリカ系中産階級)である。

 それに対して、ジャクソン一家は黒人街に住む「低学歴・低所得のブルーワーカーマイノリティ」だった。旧時代の差別と貧困を背負ったアフリカ系アメリカ人といってもいい。

 つまり、オバマとジャクソンは、同じアフリカ系でありながら、社会の最上部と最底辺にいたのである。

 この「アフリカ系内部の格差」が日本人にはなかなか理解しづらい。三十年ほど前から、アフリカ系の内部では「富める者と貧しい者」の二極分化が進行しているのだ。

 そうした意味で、初のアフリカ系大統領バラク・オバマが誕生した年に、もう一人の世界一有名な「アフリカ系アメリカ人」マイケル・ジャクソンが死んだのは、非常に象徴的だ。

 ジャクソン一家は、アフリカ系アメリカ人の歴史教科書のような運命をたどっている。

 第二次世界大戦後、アメリカ南部の主産業だった綿栽培が機械化されたため、アフリカ系農業労働者が大量に失業、工業労働者として中西部に移住した。

 マイケルの父ジョセフ(一九二九年〜 )もその一人だ。深南部アーカンソー州に生まれ、戦後シカゴ周辺に移住。製鉄工場でクレーンのオペレーターとして働くようになる。ちなみに、アメリカ南部で生まれた黒人がシカゴに移住、マディ・ウオータースらエレクトリック・ブルースを世に出すのはちょうどこの時期だ。

 ジョセフの息子兄弟たちが「ジャクソン・ファイブ」を結成するのは一九六四年。六六年にマイケルがリードボーカルとして加わった。当時わずか八歳。小学校三年である。「天才少年」と呼ばれたマイケルの歌とダンス、ステージでの堂々とした振るまいは「四十二歳の小人」というニックネームがついた。マイケルの愛くるしい歌とダンスで、ジャクソン・ファイブは初の白人にも黒人にも愛される「アイドルグループ」として人気が爆発した(ジャクソン・ファイブをお手本にしたのが日本のフィンガー・ファイブだった)。

 そのころ、一九六〇年代といえば、黒人はじめマイノリティ差別を撤廃する公民権運動が燃え盛っていたころだ。まだアメリカ南部では白人・黒人の公共の場(バスやレストランなど)での座席の分離は当たり前だった。マイケルがリードボーカルとして活躍し始めたのは、ちょうどキング牧師の公民権運動がシカゴにも波及していたころ。南部でなくとも、シカゴやニューヨークといった都市部でも、白人と黒人は住む場所がはっきり分かれていた。

 マイケルのキャリアも、全国の黒人街のストリップ小屋やキャバレーを演奏して回る「チトリン・サーキット」(『チトリン』は南部黒人料理・豚のモツ煮込みのこと)から始まった。まだ黒人と白人は住む場所もラジオ局もレコード会社も別々。就職差別も当たり前だった。マイケルは年齢こそ若いが、こうした「黒人は二級市民扱いのアメリカ」を子どものころにプロの現場で体験しているのだ。

 アフリカ系への就労差別を皮肉るジョークにこういうのがある。

「黒人がゲットー(黒人街)を抜け出すには、三つの方法しかない。ミュージシャンで成功するか、バスケットボールの選手で成功するか、麻薬の売人で成功するかだ」。

 ブルースミュージシャンだった父ジョセフは、息子たちの音楽的才能を貧困と差別から抜け出す絶好の手段と捕らえたようだ。自ら息子たちのマネージャーになった彼は、子どもたちに決して自分を「お父さん(daddy)」とは呼ばせず、今日に至るまでJosephと呼ばせ続けている。

 この父ジョセフのおかげで、マイケル・ジャクソンは過酷な少年時代を送ることになった。それは今日なら「児童虐待」と呼ばれて当然の毎日だった。

 元ボクサーでもあったジョセフは、まるでボクシングジムの鬼コーチのようだった。マイケルをはじめ息子たちがダンスのステップや演奏、歌を間違えると、激しく大声で罵倒し、ベルトで殴り、足を持って逆さづりにして尻や背中を殴ったり、力いっぱい壁に押し付けたりの暴力を振るった。練習中はいつも、最前列でベルトを手に座り、息子たちをにらみつけていた。

 二〇〇三年、イギリス人ジャーナリスト、マーチン・バーシアがマイケル・ジャクソンに八ヶ月間かけて取材したインタビュー番組”Living with Michael Jackson”で、この父の虐待の記憶について聞かれたジャクソンは、本番中に顔を覆って泣き始めた。

「怖かった…言葉にならないくらい怖かった…そこらへんにあるもので手当たり次第に殴るんだ。父が憎かった…ものすごく憎かった…父を見ただけで気分が悪くなって…よく吐いた。父を見たとたんに気絶してしまって、ボディガードに支えてもらったこともある」

 もうひとつ、父ジョセフがマイケルに残した精神的外傷は「醜形恐怖症」である。小学生の「かわいい坊や」から思春期に成長したマイケルは、顔にデコボコができるほどのひどいニキビに悩まされていたのだ(よく見ると、四十歳を過ぎても彼の顔にはあばたが少し残っている)。

「どんな子どもだって、思春期は悩み、苦しむもんだよね。大人になるにつれて、キュートな子どもじゃなくなるから。でも僕の場合、ファンやマスコミは永遠にキュートなままにしておきたがったから」

「父にはよく僕のニキビをネタにいじめられた。『お前、ugly(醜い)だな』って。『鼻がでかすぎるの、自分でわからんのか?』とも言われた。本気で死にたかったよ。それでも何千人もの客を前にスポットライトを浴びなくちゃいけないんだよ。仮面を着けたかった。毎晩、寝室で泣いたよ」(前出インタビュー)

 このインタビューで、ジャクソンは今でも決して鏡を見ない、と言っていた。電気を消さないと顔も洗えないと言っている。スターのきらびやかな顔とは裏腹に、彼は自分の顔や容姿が大嫌いな、自己嫌悪の塊だったのである。

 もうひとつ彼の人格に深刻な影響を与えたのは、小学生のころから人気スターだったことだ。遊び盛りの小学生なのに、普通の子どもらしい時間を送ることが許されない。いつも大人にばかり囲まれている。よく寂しさのあまり一人で泣いた、と彼は言う。

「三時間ほど家庭教師と勉強をした後は、寝るまでずっとスタジオで録音なんだ。今でもはっきり覚えているけど、スタジオの向かいが公園でね。子供たちが大声で叫んだり走り回ったりしていた。でもぼくにはしなくちゃいけない仕事がいつもあった。悲しくて寂しくて、よく泣いた」(同)

「友だちをつくって家に泊まりに行ったり、連れ立ってぶらぶらしたり、みんなが当たり前だと思っていることが、ぼくにはなかった。友だちは一人もいなかった。兄たちがぼくの唯一の友だちだった」(同)

「ショウビジネスの世界は大好きだよ。でも、たまにはリラックスして息抜きしたい時だってある。南アメリカにツアーしたとき、みんな全員荷造りして出発しようという時に、ぼく一人が行きたくなかった。だから隠れて泣いていた。もう音楽なんかやりたくないと思った」(一九九三年、オプラ・ウィンフリーとのインタビュー)

 ジャクソン・ファイブが所属していたモータウンレコードの元重役スザンヌ・デ・パッセは言う。

「マイケルは子どもでいることができなかった。どこに行ってもファンに囲まれるから、リムジンに乗り、ボディガードなしではどこにも行けない。ぼんやり空を眺めに公園に行くことも、映画に行くこともできない。ものすごく大きな対価を支払ったと思うわ」

「ビート・イット」や「スリラー」といった巨大ヒットを放っても、ジャクソンはインタビューに応じることはなかった。一九九三年にオプラ・ウィンフリーのインタビュー番組に出るまで、十四年間も沈黙したままだった。

「子ども時代、父親、思春期…ぼくにっては過去の人生は悲しくてつらい話が多過ぎる…語るべき重要な話は何もないと思っていた」

 インタビュー画像を見ると、ふだんのマイケル・ジャクソンは、消え入りそうなか細い声で話す、おとなしい人物だ。立ち振る舞いは女性のように穏やか。華やかなジョークも、大げさなジェスチャーもない。内気で、人と話すのが苦手というのは本当らしい。「オフ・ザ・ウオール」「スリラー」のプロデューサだったクインシー・ジョーンズは、レコーディングの時の思い出をこう証言している。

「マイケルはものすごく内気だった。歌うときはソファの裏側に背を向けて座り込み、私は自分の両手で目を隠して、さらに明かりも消した」(『ニューズウィーク日本版』09年7月8日号)

 そして、自己嫌悪の強い人間によくある心理として、自己評価が極端に低いことも彼の性格の特徴だった。

「みんなが『すごい!天才だ!』というようなことをやっても、満足できたことがないんだ。モータウン二十五周年記念コンサート(一九八三年)で『ムーンウオーク』を初めてやった時も、終ってから楽屋で泣いていたんだよ。全然ハッピーじゃなかった」(ウィンフリーとのインタビュー)

 この激しい「自己嫌悪」と「醜形恐怖症」「失われた子ども時代」は後にマイケル・ジャクソンを駆り立てる「奇行」としてタブロイドジャーナリズムの餌食になる。が、そのことは後述する。

 ここで少し視点を変える。マイケルがジャクソン・ファイブからソロ活動に軸足を移し始めた七〇年代、アメリカでは重要な社会変化が起きていた。前述の一九六〇年代公民権運動の結果、人種共学を推進し、生活上(雇用など)での差別を人種禁止する「公民権法」がジョンソン政権下の一九六四年に成立した。さらに、一九七一年ニクソン政権は行政命令を出し、政府と取引のある企業に対して、エスニックマイノリティと女性の雇用増大のために年次計画を立て、実行することを要求した。

 この流れの中から六五年に生まれたのが「アファーマティブ・アクション」(AA)という制度である。AAとはつまり「それまで差別されてきたエスニック集団や女性に雇用・昇進・職業訓練・大学入学などの機会を積極的に与える制度」を言う。より具体的には、大学新入生や企業の採用者にエスニックマイノリティや女性ごとの「採用枠」=「指定席」を設けることだ。有り体にいえば少数派には入学や採用でゲタを履かせるのである。多くの場合、その地域と学内の人種・性別比率が一致するように求められる。この制度が急速に広まっていったのが七〇年代だった。

 その結果、どうなったのか。アフリカ系の大学進学率が上がり、専門職に就く人が増え始めたのである。一九六〇年代初めまでの中産階級の仕事は、教員、聖職者、医師、法律家、ソーシャル・ワーカーなど少数の仕事しかなかったが、七〇年代半ば以降は白人と同じホワイトカラーの仕事が増えた。会計士、エンジニア、セールス・マネージャー、警察官、科学者、建築家など六十五種類以上にも上っている。

 こうして、六〇年代にはアフリカ系人口のうち一三%にすぎなかった中産階級(年収二万五千ドル以上)は七六年になると三〇%へと増大し、八一年には三八%弱にまで成長した。(日本国際問題研究所編『現代アメリカ エスニック状況の現在』)。これが「ブラック・ミドルクラス」の出現である。

 さらに、二〇〇〇年の国勢調査によると、九〇年からの十年間でアフリカ系家庭の平均世帯所得は二五・八%増加。これは非ヒスパニック系白人の四倍以上のスピードである。三百七十万人のアフリカ系が年収五万ドル以上で暮らし、百四十万人は七五千万ドル以上の上層階級として暮らしている。つまり日本人にありがちな「アフリカ系アメリカ人はみんな差別と貧困に苦しんでいる」などという認識は時代遅れもいいところなのだ。

 ただひとつ注意しなくてはならないのは、同じアフリカ系の中でも所得が二極分化していることだ。

 一九九〇年の国勢調査によると、年収二万五千ドル以上の中産・上流階級は四六・九%を占める反面、それ以下の層が五三・一%と半分を超えている。これが白人の場合だと中産階級以上が七〇%近いので、アフリカ系の場合は所得格差がより激しいということになる。

 つまり、AAが普及した八〇年代以降のアメリカで対立軸になっているのは「白人vs黒人(非白人)」という「人種問題」ではなく、「富める者vs貧しい者」という経済格差だと言ったほうがいい。要は現在の日本の「格差社会」と同じなのだ。

 こうして考えると、オバマ大統領は典型的なアファーマティブ・アクション世代だということにお気付きだろうか。一九六一年に生まれ、一九八〇年前後に学生生活を送ったオバマにとっては、アファーマティブ・アクションはすでに当たり前の社会制度だった。そしてハーバード大学ロースクールという全米トップスクールを出た弁護士であるオバマ自身が、典型的な「ブラック・ミドルクラス」だ。

 そしてオバマは、同じ「黒人」であっても、ジャクソンのような典型的なアフリカ系とはかなり違った人種バックグラウンドの持ち主だ。まず、父親はケニアからの留学生で、先祖は奴隷ではない。母親は白人の文化人類学者。両親が離婚、母親がインドネシア人と再婚したため、幼少期をインドネシアというイスラム国で過ごした。そして母方の祖母である白人家庭で育てられたため、白人的な価値観の中で育った。

 オバマが大統領にまでなれた理由のひとつとして「黒人を犠牲にしてきたアメリカの歴史や主流社会への恨みがないこと」がよく言われる。

 つまりアフリカ系であっても、白人(厳密に言うとWASP=キリスト教プロテスタント派アングロサクソン)への復讐心がない。「過去に犠牲にされたのだから、今は特別扱いされて当然」という「被害者意識」や「特権意識」がない。これはアメリカ社会の主流であるWASPが警戒心なく支持できる資質だ。

 これはオバマ一人が特殊なのではない。いま「アフリカ系アメリカ人」にはラテン系もいるし奴隷制度廃止後にアフリカから移民した層もいる。顔が「黒人」であっても、そのバックグラウンドは「みんな奴隷の子孫」とは括れない。その多種多様ぶりは日本人の想像を超える。それがアフリカ系アメリカ人の現況なのだ。

 そうした新世代のアフリカ系を代表するオバマに比べると、マイケル・ジャクソンはあまりにも典型的なアフリカ系アメリカ人だった。

 彼が八歳のときに入った芸能界には、アファーマティブ・アクションなどなかった。当時のアフリカ系アメリカ人にとって、芸能界で成功することは数少ない社会的成功の突破口だった。

 マイケル・ジャクソンはそんな旧世代のアフリカ系の意識をずっと引きずっている。普段は隠していても、激高すると本音が出る。例えば、二〇〇二年にソニー・ミュージックエンタテインメントともめた揚げ句に契約を打ち切ったとき、ジャクソンはソニーのトミー・モトーラ社長を「アフリカ系アーティストをサポートしようとしない人種差別主義者、悪魔」と口を極めて罵倒している。

 さて、大スターになったジャクソンは、一九八八年に邸宅をロサンゼルスの北西百五十キロに千七百万ドルで購入する。ここを彼は「ネバーランド」(『ピーターパン』に登場する永遠に成長しない子どもだけの国の名前)と名付けた。

 十一平方キロの敷地には動物園や観覧車、メリーゴーラウンドに映画館、ゴンドラ列車までが設置され、邸宅というよりは遊園地のようだ。そして三週間に一回、病気や貧困で恵まれない子どもたちのグループを招いては自ら子どもたちと一緒に遊んだり自宅に泊めたりしていた。

「みんな『どうしていつも子どもと一緒にいるの?』って不思議がるんだけど、今僕は昔ほしくても得られなかったものを埋め合わせようとしているんだと思う。子どもたちを通じて、ぼくは自分が得られなかったものを見つけた。遊園地やゲームセンターに行きたくてたまらなかったのに、僕にはいつも仕事しかなかった。コンサート、レコーディング、インタビュー、テレビ出演、写真撮影。いつもやらなくちゃいけないことがあった」(ウィンフリーとのインタビュー)

 インタビューの合間に子どもたちと遊ぶジャクソンの姿を見ると、インタビュー中よりはるかにリラックスして、ずっと楽しそうだ。彼は「成長を止めた子ども」と自分で認めているから、心を許せる相手は子どもしかいなかったのだろう。

 ところが、これがスキャンダルの火種になる。一九九三年、ジャクソンはネバーランドに招待したジョーダン・チャンドラーという十三歳の少年に性行為をした、と本人と父親から民事・刑事両方で訴えられる(翌年一月にジャクソンはチャンドラー側に二千二百万ドルの和解金を支払い、刑事告訴も取り下げられた)。二〇〇三年には、これも招待客のひとりガビン・アルビゾという少年に性行為をした疑いで告訴される。

 ジャクソン自身は「幼児性愛者」というより「子どものまま精神発達が止まった大人」というほうが正確だったらしい。彼の精神鑑定をしたスタン・カッツ医師は「彼の精神は十歳児に退行していて『幼児性愛』には適合しない」と診断した。

 二〇〇三年のインタビューでも「四十四歳の大人が子どもとベッドを共にして不適切だとは思わなかったのですか?」と問われ「『ベッドを共にする』というと性的なことだと思っているでしょう?性的なことなど何もありません。子どもたちとおしゃべりをして音楽をかけて、本を読んであげたり、暖かいミルクとクッキーをあげたり。素晴らしいじゃないですか。世界中がそうすればいいのに」と真顔で言っている。これはおそらく「自分がしてほしかったこと」を無意識に実行していたのだろう。

 しかし、ワイドショー的なタブロイドメディアを中心に、世論のバッシングは凄まじかった。それまで、マイケル・ジャクソンといえば暴力や性を歌うことがない「安心して子どもに聞かせることのできる音楽」というイメージが強かっただけに、反発も大きかった。

 ひとつバッシングが始めると、連鎖的に他のバッシングが始まるのは日本もアメリカも変わらない。ジャクソンの肌がどんどん白くなったり、鼻や顔の輪郭が白人風に変貌した現象は「彼は黒人である自分を嫌い、白人になろうとして整形手術をしている」「皮膚を漂白したり移植したりしている」とアフリカ系から激しく非難された。

 本当は「白斑」という皮膚病のせいで皮膚の色素が抜け落ちて白い斑点があちこちに現れるため、白いメークを塗って隠していたらしい。インタビューでもそう話している。「自分はアフリカ系であることを誇りに思っているのに、あんまりだ」とインタビュー中に激高して泣き出したほどだ。ただ、父親に罵倒された鼻だけはどうしてもコンプレックスだったらしく、整形手術を二回受けたと認めている。

 元々気の弱い人だったのだろう。唯一の慰めだった「子どもと遊ぶこと」がスキャンダルになったことも、彼の精神を追い詰めた。

 一回目のスキャンダルのさなかに毎晩電話で彼と話していたリサ・マリー・プレスリー(エルビスの娘。一九七五年からの幼なじみ。九四年に二人は結婚し二年後に離婚)は当時ジャクソンが「興奮して話のつじつまが合わなくなり、妄想的になっていた」と後に話している。抗うつ剤や精神安定剤、睡眠導入剤を常用するようになった。不眠やパニック障害の症状が悪化していた。

 そして年齢も四十歳を超えるころになると、「ビート・イット」や「スリラー」の頃、二十代前半のような激しいダンスに体がついてこなくなってくる。関節炎や筋肉炎、けがが絶えず、それでもダンスを続けるために、鎮痛剤を常用するようになる。痛みを紛らわせるための鎮痛剤はどんどん強い薬品になり、最後はモルヒネ(アヘンの精製物。末期癌患者の鎮痛剤に使う)まで使っていた。

  不運なことに、三十歳代の中頃、ジャクソンは「全身性エリテマトーデス」という免疫疾患(膠原病の一種)にかかっていた。皮膚や内臓にいつも炎症が起きては激痛が走るという症状に悩まされた。これもジャクソンの「鎮痛剤依存」に拍車をかけた。

 こんな状態ではまともな音楽活動ができるわけがない。収入も減る。

 十二歳で月に二十万ドルの小遣いをもらっていたというジャクソンの金銭感覚は常人離れしていて、前述の”Living with Michael Jackson”では、ラスベガスの高級骨董品店にふらりと立ち寄り「あれと、これと、あれちょうだい」と指さしながら、あっという間に六百万ドル分の買い物をする姿が記録されている。

 こうした生活を続けていたため、楽曲の著作権を担保にした二億七千万ドルの借金が返せなくなり、二〇〇六年には「ネバーランド」を不動産投資会社に売却し、家賃月十万ドルの借家に移った。

 醜形恐怖症だったジャクソンは、「ダンサーらしい体形を維持するため」と太ることを極端に恐れ、極端な菜食主義と小食に走り、晩年はほぼ拒食症に近い状態だった。そのため、ダンスの途中で気を失うことも度々あったらしい。

「ビリー・ジーン」「スリラー」「ビート・イット」といった楽曲が世界的な人気を得たのは、ジャクソンの人間離れしたダンスがMTVを通して世界に流れたからだ。彼はポピュラー音楽を「聞くもの」から「見て、聞くもの」に変えた。これはポピュラー音楽の歴史を塗り替えた偉業である。

 だが、その音楽は徹底して視覚重視だったがゆえに、ジャクソンは中年になっても肉体を酷使して踊り続けるしかなかった。「外見」に病的に執着せずにはいられなかった。「歌って踊ること」にしか彼のキャリアはなかったのだ。

 それは、一九六〇年代という旧時代に職業を選択した五十歳のアフリカ系アメリカ人の悲劇だった。

(月刊誌『正論』09年9月号)

↓下にお勧めできる資料を列挙しておく。「ライブ・イン・ブカレスト」は加工なしのライブ映像記録。本当にあの精密機械のようなダンスをライブでやってしまう姿が驚異的である。

"Michael Jackson: The Magic and the Madness" はマイケル・ジャクソンの伝記として視点が公平な数少ない一冊。取材が手厚い。


ライヴ・イン・ブカレスト [DVD]

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  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • メディア: DVD



スリラー

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  • アーティスト: マイケル・ジャクソン,A.バーグマン,M.センベロ,R.テンパートン,J.イングラム,M.バーグマン,D.フリーマン,S.ポーカロ
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2001/10/31
  • メディア: CD



Michael Jackson: The Magic and the Madness

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  • 作者: J.Randy Taraborrelli
  • 出版社/メーカー: Pan Books
  • 発売日: 2004/06/04
  • メディア: ペーパーバック



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