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謙遜文化の衰退 ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]

以前にこの欄で「インターネット出会いで結婚する人が増えている」という話を書いたら、けっこうあっちこっちで反響を呼んだらしい。

しかも妙齢の女性の間で。

「えっ!そんなにいいものがあるの!」ということだそうです。

はい、そうらしいですよ。

しかも、交際から結婚に至るまでの時間が短いとか。

それはインターネットが「内面の個性を可視化する」という機能を持っているからではないか、という話を書いた。

インターネットがなかったころ、交際相手の好みの音楽、映画、趣味、価値観など「内面の価値観=個性」を知るには、時間がかかった。

古い世代だと、相手の内面を知るのに一生をかけていた。

その「相手を知るプロセス」こそが「交際」であり時には「結婚生活」だった。

それがブログやミクシィ、ツイッターなどで一気に可視化された。それが私の推論だ。

「内面の個性の可視化」といっても、難しい話ではない。ちょっとミクシィでも開けてみてほしい。

参加しているコミュニティが「ハーレーダビッドソン」なのか「くだらないことで頭がいっぱい」なのか「ペ・ドゥナを讃える」なのか「カーミット」なのかで、その人の「好み」「趣味」「嗜好」「価値観」がわかる。それが公開されている。

コミュニティでもブログでも同じなのだが、ネット上で可視化された「内面の価値」は、全部フラットに等価である。

写真、文章、ビデオ、イラスト、デザインなど、あらゆるビジュアル要素が動員されるので「地味」だったはずの趣味嗜好でも、非常に魅力的に提示されるのだ。

例えば、私が20歳代前半だった25年前、「お城」「新撰組」「百人一首」など「歴史もの」の愛好家といえば、地味な人たちだった。「鉄道」「オーディオ」などのマニアもそうだった。

異性に人気のある趣味嗜好といえば「スポーツ」とか「クルマ」とか「かっこいいことがそのまま見てわかるもの」=「アナログに可視化されていたもの」だったのだ。

それが今では、かつての「地味な内面」も「派手な内面」も、ネットの上ではフラットにイコールである。

昨年、坂本龍馬を福山雅治が演じたNHKドラマの大ブームは、こうしたネットで「可視化・イコール化された歴史マニア」の成果だったように思える。

さらにネットには「コミュニティ」を形成する機能がある。

つまり「同好の仲間」を見つけることができるのだ。

スポーツやクルマといった旧来型の可視的嗜好には、部活動とか暴走族とか伝統的なコミュニティがあったが、地味な趣味嗜好は仲間を見つけることがまず難しかった。

地味な趣味は目立たず、仲間も少なくひっそりと営まれていたのだ。

それが一気に転換、地味な趣味でも仲間は集まる。

数まで明示されるから「少数派」なのかそうでないのかも数値化されてしまう。

「バスケットボール部のキャプテン」と「天守閣マニア」と、どちらが存在感があるのかといえば、昔のように「バスケ」と即断はできない。

ちょっと視点を変える。

こうしたインターネットの持つ「可視化」の機能が、日本の伝統的な価値観とは真逆の方向性を持っていることにお気づきだろうか。

例えば「謙遜」は日本の伝統的な精神文化として長く価値を保ってきた。その核心は「自分の力をひけらかさない」=「内面の価値は他者によって発見されるべきもので、自ら外部に露出させるのはみっともない」という発想だ。

この定義からわかるように、この価値観は元々「自己表現」とは正反対のベクトルを持っている。

ましてインターネットがもたらした「内面を可視化して掲示する文化」は、こうした「秘めてこそ花」の謙譲/謙遜の文化からすれば、まったく異質以外の何ものでもない。

かくして、これまで「ひっそりと目立たなかった集団」が、インターネットのブログやSNSでその存在をそれぞれに主張し、まさに百花繚乱の有様である。

これは悪いことでは決してない。

これまで「日陰者」だった価値集団もが、ネット上ではフラットにイコールな集団として存在感を放つからだ。

例えば、性的少数者。ネット上では動画、写真、イラストなどをふんだんに用いてその内面の個性(性的指向、性同一性障害など)を美しく掲示している。

こうした「非差別者が日陰から飛び出す現象」も「謙遜の衰退」も、実は「インターネットというメディアが起こした社会文化の変革」という点では同じものなのだ。

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