真実に命を捧げたロシアの女性ジャーナリスト ["NUMERO Tokyo"(扶桑社)連載コラム]
2006年10月7日、モスクワは真冬のように寒かった。
その中心部にある古い石造りのアパートのエレベーターで、アンナ・ポリトコフスカヤ(1958年生まれ)は、血だまりの中で息絶えた。何者かが、彼女の体に3発の銃弾を撃ち込み、とどめに頭部を1発撃ったのだ。遺体のそばには、4つの薬莢とロシア軍の軍用拳銃、マカロフが転がっていた。
これが政治的な暗殺であることは明白だった。アンナはただの銀髪のふくよかなロシア婦人ではなかった。進歩的な論調で知られる隔週紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者であり、月の半分以上をチェチェン共和国で過ごすチェチェン問題のスペシャリストだったのだ。
果たせるかな、アンナの死体が発見されてすぐ警察が彼女のアパートを家宅捜索、コンピュータや取材資料を洗いざらい押収していった。アンナはその日、派遣軍が日常的に繰り返している拷問について、特集記事を書く予定だったのだ。拷問の証拠である2枚の写真が消えていた。
チェチェンは、モスクワの約1500キロ南東にある小国である。黒海とカスピ海に挟まれた四国ほどの面積に、86万人が住んでいる。ここで91年のソビエト連邦解体後、ロシア連邦への残留を望む勢力と独立派の間で内戦が始まった。
事態がひどくなったのは、ロシア軍が介入し始めてからである。94年から96年の第一次戦争(エリツィン政権)以降、チェチェンは地獄そのものだった。政権がプーチンに代わり、99年から再び始まった戦争はさらに酸鼻を極めた。ロシア軍や治安部隊、親モスクワのチェチェン政権軍や民兵が入り乱れ、無抵抗の市民に虐殺、拷問、レイプ、略奪といった残虐行為をやりたい放題に繰り広げていた。
99年以降、そんな残虐行為の犠牲者を地道に尋ね歩いてはレポートしていたのがアンナだった。自宅のドアを開けたとたん、仕掛け爆薬で足を吹き飛ばされた男性。農作業をしていて地雷を踏み、両足を失った婦人。体に高圧電流を流され拷問された男性。ミサイル攻撃の火災で顏を潰された少年。アンナが会って話を聞き、報じるのは、そんな人たちだった。「これがプーチン大統領のいう『テロとの闘い』の本当の姿なのだ」と
プーチン大統領は、国内外メディアの入国を頑なに拒んでいたから、そんな市民の苦しみを伝えるジャーナリストは彼女の他にはいなかった。
02年10月にモスクワにある劇場ドブロフカ・ミュージアムがチェチェン武装勢力に占領され、922人が人質になったとき、犯人側はアンナを「事実を正確に伝えてくれるのは彼女しかいない」と交渉役に指名した。04年9月に北オセアチア共和国のベスランにある中学が占拠され、児童ら1181人が人質になったときも、犯人側はアンナが来ることを要求した(アンナはジャーナリストへの賞の授賞式のためにロサンゼルスにいたが、急遽ベスランへ飛んだ。が、機内食の紅茶に正体不明の毒物を混入され、意識不明の重体に陥る。結局ベスランにはたどり着けなかった)。
プーチン政権、ロシア軍、治安部隊。チェチェンの親モスクワ政権とその軍や民兵。彼らはアンナを蛇蝎のごとく嫌った。敵は至るところにいた。01年にはチェチェンで軍に誘拐され、身の代金を要求されたこともある。虐殺を指揮した治安部隊の指揮官を実名で報道し、「殺してやる」と脅迫されたため、国外へ逃亡せざるをえなくなったこともあった。脅迫の電話や手紙は毎日のことだった。同僚であるはずのマスメディアでさえ、プーチン政権に媚を売るために「頭のおかしなモスクワのおばさん」とアンナをからかった。
両親が外交官だったアンナは、国連のあるニューヨークで生まれた。だからアメリカの国籍も持っている。ペレストロイカ前、まだ検閲の厳しかった時代に、両親は外交官特権を活用して、ソ連では読めない本をスーツケースに詰めて持ち帰った。アンナは「自由」や「人権」といった旧ソ連にはなかった言葉の満ちた家庭で育った。
「知っておかなければならない。真実を知ればみんな、居直りとは無縁になれる」
アンナはその著書「チェチェン やめられない戦争」(NHK出版)でそう書いている。
「真実を知らせること」。たったそれだけのために、アンナは命を捧げた。
その中心部にある古い石造りのアパートのエレベーターで、アンナ・ポリトコフスカヤ(1958年生まれ)は、血だまりの中で息絶えた。何者かが、彼女の体に3発の銃弾を撃ち込み、とどめに頭部を1発撃ったのだ。遺体のそばには、4つの薬莢とロシア軍の軍用拳銃、マカロフが転がっていた。
これが政治的な暗殺であることは明白だった。アンナはただの銀髪のふくよかなロシア婦人ではなかった。進歩的な論調で知られる隔週紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者であり、月の半分以上をチェチェン共和国で過ごすチェチェン問題のスペシャリストだったのだ。
果たせるかな、アンナの死体が発見されてすぐ警察が彼女のアパートを家宅捜索、コンピュータや取材資料を洗いざらい押収していった。アンナはその日、派遣軍が日常的に繰り返している拷問について、特集記事を書く予定だったのだ。拷問の証拠である2枚の写真が消えていた。
チェチェンは、モスクワの約1500キロ南東にある小国である。黒海とカスピ海に挟まれた四国ほどの面積に、86万人が住んでいる。ここで91年のソビエト連邦解体後、ロシア連邦への残留を望む勢力と独立派の間で内戦が始まった。
事態がひどくなったのは、ロシア軍が介入し始めてからである。94年から96年の第一次戦争(エリツィン政権)以降、チェチェンは地獄そのものだった。政権がプーチンに代わり、99年から再び始まった戦争はさらに酸鼻を極めた。ロシア軍や治安部隊、親モスクワのチェチェン政権軍や民兵が入り乱れ、無抵抗の市民に虐殺、拷問、レイプ、略奪といった残虐行為をやりたい放題に繰り広げていた。
99年以降、そんな残虐行為の犠牲者を地道に尋ね歩いてはレポートしていたのがアンナだった。自宅のドアを開けたとたん、仕掛け爆薬で足を吹き飛ばされた男性。農作業をしていて地雷を踏み、両足を失った婦人。体に高圧電流を流され拷問された男性。ミサイル攻撃の火災で顏を潰された少年。アンナが会って話を聞き、報じるのは、そんな人たちだった。「これがプーチン大統領のいう『テロとの闘い』の本当の姿なのだ」と
プーチン大統領は、国内外メディアの入国を頑なに拒んでいたから、そんな市民の苦しみを伝えるジャーナリストは彼女の他にはいなかった。
02年10月にモスクワにある劇場ドブロフカ・ミュージアムがチェチェン武装勢力に占領され、922人が人質になったとき、犯人側はアンナを「事実を正確に伝えてくれるのは彼女しかいない」と交渉役に指名した。04年9月に北オセアチア共和国のベスランにある中学が占拠され、児童ら1181人が人質になったときも、犯人側はアンナが来ることを要求した(アンナはジャーナリストへの賞の授賞式のためにロサンゼルスにいたが、急遽ベスランへ飛んだ。が、機内食の紅茶に正体不明の毒物を混入され、意識不明の重体に陥る。結局ベスランにはたどり着けなかった)。
プーチン政権、ロシア軍、治安部隊。チェチェンの親モスクワ政権とその軍や民兵。彼らはアンナを蛇蝎のごとく嫌った。敵は至るところにいた。01年にはチェチェンで軍に誘拐され、身の代金を要求されたこともある。虐殺を指揮した治安部隊の指揮官を実名で報道し、「殺してやる」と脅迫されたため、国外へ逃亡せざるをえなくなったこともあった。脅迫の電話や手紙は毎日のことだった。同僚であるはずのマスメディアでさえ、プーチン政権に媚を売るために「頭のおかしなモスクワのおばさん」とアンナをからかった。
両親が外交官だったアンナは、国連のあるニューヨークで生まれた。だからアメリカの国籍も持っている。ペレストロイカ前、まだ検閲の厳しかった時代に、両親は外交官特権を活用して、ソ連では読めない本をスーツケースに詰めて持ち帰った。アンナは「自由」や「人権」といった旧ソ連にはなかった言葉の満ちた家庭で育った。
「知っておかなければならない。真実を知ればみんな、居直りとは無縁になれる」
アンナはその著書「チェチェン やめられない戦争」(NHK出版)でそう書いている。
「真実を知らせること」。たったそれだけのために、アンナは命を捧げた。
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