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天使は男でも女でもある [映画「ヒノキオ」劇場パンフレット]

 ぼくが「ヒノキオ」という映画でもっとも興味を持ったのは、実はヒノキオのメカでもゲーム世界のCGでもない。「ジュン」という登場人物の造型である。彼女こそが、凡百の少年冒険もの映画にはない、きわめて個性的な物語構造をこの映画にもたらしているように思うのだ。

 考えてみてほしい。なぜジュンは「はじめは男の子にしか見えないのに、後になって女の子であることがわかる」という複雑な設定になっているのだろう。もしこの映画が「友情が主人公の危機を救う」という物語なら、ジュンは単純に男の子でいいはずだ。また、もし異性愛が主人公を救う「ラブ・ストーリー」なら、江里子やスミレという明暗両面で女性性を象徴する登場人物たちがいる。ところが、主人公サトルを救うのは、「彼女ら」でも「彼ら」でもない。男であり女でもある工藤ジュンなのだ。これはなぜか。

 結論を先に言ってしまえば、ジュンはアンドロギュロノス、つまり男でも女でもある両性具有者であり、「天使」に似た存在なのだ。

 ヨーロッパ文化は、古くからアンドロギュロノスを「対立する二つの原理を統合するシンボル」として尊んできた。たとえばギリシア時代の哲学者プラトンは『饗宴』で「原初の人間は両性を具有する球体だった」と述べている。またキリスト教では、天使は男でもあり女でもある両性具有者ということになっている。試しにダ・ビンチやミケランジェロが描いた天使像をよく見てほしい。美少女にも美少年にも見える微妙な姿をしている。最近では、映画「コンスタンティン」で、天使ガブリエル役の名優ティルダ・スウィントンが美しいアンドロギュロノスを演じていた。

 では、なぜジュンはアンドロギュロノスでなくてはならないのか。

 まず前提として「ヒノキオ」が主人公サトルの「成長の物語」であることを覚えておいてほしい。しかもただの成長物語ではない。前思春期の少年主人公が、住み慣れた日常世界を離れて旅に出る。危険な目に遭う。それを克服することで成長していく。つまり「ハリー・ポッター」や「ロード・オブ・ザ・リング」と同じ物語構造だ。

 こうした「危機を克服することで子どもが成人になる」プロセスを儀礼化したものを文化人類学や精神分析学では「通過儀礼」(イニシエーション)という。

 世界各地の未開社会は、子どもが大人になる成人の儀式を用意してきた。そこに共通してみられる要素は、疑似的な死=危険を体験し、克服することによって「子どもの自分を殺し、成人として新たに生まれ変わる」というプロセスだ。たとえば「バンジー・ジャンプ」は南西太平洋・バヌアツ共和国の成年式が原形である。

 世界の通過儀礼によく見られるもうひとつの特徴は、参加者である男子を、母や女性から引き離すことだ。これは精神分析学でいう「自我の母親からの分離」の儀式化された形である。

 はじめサトルは、死んだ母を思慕するあまり、父親=家族を含めた社会とのつながりから退行している。これは精神分析学でいう「自我が母親との分離を果たしていない状態」の象徴と考えてもいいだろう。だからヒノキオのコックピットに身を沈めたサトルの姿は子宮で眠る胎児に似ている。

 こうした象徴的意味を拾っていくと「ヒノキオ」はサトルの「イニシエーションの物語」にほかならない、ということが見えてくる。さらに突っ込んで精神分析学的に言えば、この映画は、サトルが自我を母親と分離させることで、子どもから大人へと成長していくプロセスの物語である。

 ところが、サトルはこの通過儀礼に失敗しそうになる。父親への憎悪のあまり、母親への退行に引きずり戻されそうになるのだ。表層的には、踏切事故によって、サトルは死の危機に瀕する。このサトルの危機を救えるのは、ジュンしかいないのだ。

 なぜか。この映画では、ゲームの世界と現実の世界が境目なくつながっている。つまりファンタジーとリアリティーの境界がない(『おばけ煙突』はその二つの世界をつなぐ通路である)。映画をよく見てみると、この二つの世界を自由に往来できるのは、実はジュンだけである。よって、ファンタジーの世界と隣接する「死の世界」に足を踏み入れそうになったサトルを救うことができるのは、霊的な力を持つジュンしかいないのだ。

 ここで、彼女が両性具有者であることの意味があきらかになる。この設定のおかげで、ジュンが「二つの世界」を行き来する神秘的な力を発揮することに不自然さがあまりないのにお気付きだろうか。天使が天上(神)と地上(人間)をつなぐ中間的な存在であるのと同じように、ジュンはファンタジーと現実をつなぐ中間的な存在なのである。アンドロギュロノスは男の女の中間的な存在なのだから。

 もちろん、発達心理学的な観点からすれば、ジュンが両性を具有しているのは「まだ性が分離していない発達段階」であるから、にすぎない。が、サトルは引きこもりで社会的な身体を失っているうえに(ヒノキオはサトルの身体の代理)、さらに事故で精神的にも死に瀕するという二重の危機にある。そんなサトルを救うためには、天使にも匹敵する霊的な力が必要なのだ。

 一方、ジュンも天使のような単なる救済者ではない。実は彼女も、死んだ父親から自我を分離できていない(彼女が女性なのに男装なのは、父親との心理的な同一化が強すぎるせいともいえる)。つまり性が未分化なまま停滞している。その彼女は、おばけ煙突に登るという危険を克服し、サトルを救うことによって、自分自身のイニシエーションをも達成する。ここにあるのは「他者を救うことによって、自分も救われる」という、もうひとつの救済と成長の物語である。

 個人的には、ぼくは最後のシーンがとても好きだ。危機を克服し、母親からの分離を果たしたサトルは、性の分離を果たし美しい少女になったジュンと中学で再会する。咲き乱れるサクラの花が、二つの生命の再生を祝うようで、とてもシンボリックだ。通過儀礼を済ませ、大人の入り口に立った二人は、これから一緒にどんな物語を紡ぎ出すのだろう。そんな余韻がとても心地よい。

=日本映画「ヒノキオ」劇場用パンフレット

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